第106話 最終章・揺らぐもの、揺るがぬ者
タクシーの車窓に映る夜の街は、煌びやかな光で埋め尽くされていた。信号に反射するネオン、歩道を行き交う人々の影、ガラス張りのビル群に映る無数の光の粒。その全てが、どこか非現実的な美しさを湛えていた。
僕は助手席の背に寄りかかりながら、スマホの画面を見つめていた。チャットのアイコンが光り、グループ通話の着信が表示されている。
“真凛・神楽”
画面を見た横で、響姉が小さくむすっとした顔をして、窓の外にそっぽを向いた。
「……」
気まずいような、少し呆れたような気持ちを押し殺して、僕は何も言わずに受話器を耳に当てた。
「啓!聞いてよ、もう学校中、啓の話で持ち切りだよ!」
通話が繋がった瞬間、神楽の明るい声が弾けた。
「雅さんたちも、啓君のことで連日みんなから質問攻めにあってますよ」
真凛の声が重なり、僕は思わず苦笑する。
「それとさ、西棟の撮影、予定通り始まってるよ。先生役の俳優さん、もう現場にいたよ」
「幸田さんの代役の人も、今日来てました」
テンポ良く続いていく報告に、こちらが口を挟む間もない。それでも、こうして繋がっているだけで、少しだけ胸の奥があたたかくなる。
「……今日も、取材?……もう、何日目?」
「記者会見の後に学校を休んでからだから……もう二十日目かな」
「……無理してないですよね?」
真凛の声が少しだけ沈んだ。
「うん……大丈夫」
そう答えた僕は、二人の声をただ静かに聞きながら、少しだけ視線を落とした。
しばらくの沈黙が訪れる。けれど、気まずさではなく、温かな静寂だった。
そして、不意に真凛が口を開いた。
「ねえ、覚えてますか?初めて会った日のこと」
──あの出版社の廊下。長椅子に座ろうとした時、不意にかけられたあの声。
『あ、隣いいですか?』
あの時の彼女の笑顔、ふわりと香った淡い匂い、驚くほど整った顔立ちと、不思議な親しみ。
『相沢さんも映画の関係で……? って、ど、どうしたんですか!?』
目元を濡らす涙を、向日葵模様のハンカチでそっと拭ってくれたあの日。
「啓君、あの時、本当に泣いてましたよね。嬉しくて……」
「……うん」
短く返すだけで、胸の奥に熱いものが込み上げてきた。
その流れを受けて、今度は神楽が声を重ねる。
「私も、覚えてる。最初に会ったとき、緋崎さんに紹介されたのに、啓ったら、私の胸元ばっかり見てた」
「ちょ、それは……」
「ふふ、冗談。でも、あの時からなんとなく分かってた。啓って、不器用だけど、ちゃんと真っすぐ向き合おうとしてくれる人だって」
「……そうだったかな」
「うん。最初は興味半分だったのに、話すうちにね、なんていうか……すごく惹かれたんだ……」
耳に当てたスマホの向こうで、二人の声が少しずつ重なり、優しく、僕の心を撫でてくる。
「最初に啓君の家に行った日も、忘れられない。啓君が真剣に小説の話をしてくれたの、あの時が初めてだったよね」
「うん。自分の過去や、幼馴染とのこと、全部話してくれたよね」
その声が震えていたこと、手がわずかに震えていたこと、二人ともちゃんと覚えている。
「……啓君、私たち、ずっとそばにいたいの、これからもずっと」
真凛の声に続き、神楽も静かに言葉を重ねる。
「何があっても、離れたりしない。だから、危ないことだけはしないで……お願い」
胸が締めつけられる。
この優しさが、今の僕には何よりも苦しい。
「ありがとう。……でも、大丈夫。また明日、ちゃんと会おう」
言葉を置くように、そっと通話を切った。
横目で響姉を見ると、彼女はふてくされたように顔をそらしたまま、ぼそりと呟いた。
「今日だけは大目に見てやる……」
思わず、ふっと笑いそうになるのを堪えながら、僕はスマホを膝に置き、夜の車窓を見つめた。
流れる街の灯りが、どこか遠い世界のように感じられた。
静かに目を閉じ、背もたれに体を預ける。耳元にはまだ、真凛と神楽の声が残響のように揺れていた。
──あの二人には、本当のことは何も伝えていない。
スマホをポケットにしまい、ふっと息を吐く。胸の内に、静かな決意と微かな迷いが交錯していた。
車内の空気は静かで、エンジン音だけがかすかに耳に残る。その静けさが、むしろ思考を際立たせるようで、少しだけ気が重くなる。
「……響姉、今日はどうだった?」
問いかけた声が、思ったよりも静かに響いた。
隣に座る響姉が、窓の外に視線を向けたまま、少しだけ間を置いて答える。
「居たな……これで六日連続だ」
「……そっか」
思わず胸を撫でおろす。やはり現れていたか、と同時に、まだ仕掛けるには早いという判断が正しかったことを確信する。
「流石、全然気が付かなかったよ。響姉が一緒で本当に良かった」
そう言いながら、僕はほんの少しだけ、笑みを浮かべた。
だが、響姉の返事はなかった。代わりに、ためらうような気配が伝わってくる。
「……なあ、啓」
響姉の声が、少しだけ掠れていた。
「やっぱり……やめにしないか?」
その言葉に、僕はゆっくりと顔を向ける。
窓の外から差し込む街灯の光が、響姉の横顔を淡く照らしていた。
「ごめんね、響姉。でも……もう過去は振り返らず、前に進もうって決めたんだ」
言いながら、自分でも気づかないうちに拳を強く握っていた。
響姉は何も返さなかった。ただ、その肩がわずかに沈んだように見えた。
タクシーが赤信号で止まり、車内が一瞬だけ明るくなる。わずかな静寂の中、彼女がぽつりと呟いた。
「明日は……一緒に行っちゃダメなんだよな……?」
「うん。明日は下準備だけお願い。神楽たちに聞けば、事前に用意してくれてたもの、動かしてくれるはずだから」
言葉を選びながら、優しく、でもはっきりと伝える。
「分かった……」
その声は今にも泣き出しそうだった。
僕はそっと手を伸ばし、隣に座る響姉の頭を優しく撫でる。
「ごめんね、響姉……最後まで心配かけて……」
「最後とか言うな……バカ……」
そう言いながら、響姉は僕の肩にもたれかかり、何かを堪えるように肩を震わせた。
その温もりを感じながら、僕は目を閉じる。
夜の車窓を、もう一度見つめた。街の灯りは相変わらず、ただ静かに、どこまでも美しく流れ続けていた。
──もうすぐだ。
すべてを終わらせるその時まで、あと少し。
車内に再び静寂が戻る。響姉は僕の肩に寄りかかったまま、目を閉じている。窓の外に流れていく街の光が、その頬を優しく照らしていた。
どこか安心したような寝息に、僕もそっと息を整える。
──僕たちは、ここまで来た。
あの記者会見の日から、もう二十日。毎晩のように響姉と外に出ては、手がかりを探し、少しずつ情報を積み上げてきた。
表向きは“取材”という名目で動いていたが、本当の目的は違う。
スマホを再び取り出し、画面を点ける。SNSのタイムラインに、見慣れた名前が並ぶ。
──蘭子。
彼女が動いてくれたおかげで、火は確実に広がっている。
“蘭学事啓先生の新作は、実はノンフィクションかもしれない”
“五年前の西ケ丘廃病院で起きた少女の自殺は、実は他殺だったのでは?”
“ある医大生の黒い噂──若い女性たちの未解決事件との関連”
どれも憶測だ。ただの噂。でも、そのどれもが、あいつにとっては確実に響くはずだ。
どれもこれもギリギリのラインで、蘭子とその仲間たちが広げてくれている。ネット記事は好き勝手に騒ぎ立て、やがてテレビのニュースにも取り上げられていった。
独り歩きしていく情報は、日本中を巻き込み、やがて実体のない男の輪郭を露わにしていく。
“沈黙が、最も雄弁だ”
記者会見で言ったあの言葉、『彼女は周囲に理解されない孤独を抱え、ある事件をきっかけに人生を大きく変えられました。そして、それを仕掛けた『ある人物』は、今も自由に生きています』あの時の言葉は、今もネットの中で引用され続けていた。誰にも説明しない。ただ、黙って、動く。
だからこそ、あいつは揺れている。
響姉の情報、小夏ちゃんの記憶、蘭子の発信。
すべてはこの日のために積み上げてきた。
──でも、まだ届かない。
あと一歩が、あいつに届かない。
このままじゃ、決定的な一撃にはならない。
だから僕は、明日を選んだ。
スマホをそっと閉じ、深く息を吐く。
「……やるしかない」
小さく呟いたその言葉は、車内の静寂に吸い込まれていった。
その時、ゆっくりと目を開けた響姉が、隣でこちらを見上げていた。
「……寝たふり、してた?」
僕が問いかけると、彼女はわずかに口元をゆるめて言った。
「ちょっとだけな……」
「何だよそれ」
そう返すと、響姉はふっと笑って、ぽつりと呟く。
「もう少しだけ……このままで……」
その言葉に、僕は小さく頷いた。




