第105話 最終章・綻びゆく静寂
家に帰ると、玄関の明かりすら点けていなかった。今日も誰も待っていない。
靴を脱ぎ、スーツのジャケットを無造作に椅子の背もたれにかける。その感触は毎日同じなのに、今日は妙に重い気がした。
一日の疲労が全身を引きずり下ろす。足取りは重く、玄関から書斎までの短い距離ですら長く感じられた。書斎のドアを開け、手探りで電気を点ける。光が部屋を照らし出す瞬間、目に入ったのは——壁一面に貼られた写真の数々。
年齢も髪型も服装も様々な少女たち。笑顔のものもあれば、無表情でこちらを見つめるものもある。どれも、俺だけが知る特別なコレクション。
俺はそれらに視線を向けつつも、何の感情も浮かばない。ただ黙々と歩を進め、机の前に立つ。
玄関で拾ったポストの郵便物を、机の上に投げる。ネクタイをゆるめ、緊張の糸を解くように首を回す。インスタントのコーヒーを淹れ、湯気の立つカップを手に取る。
日課のように、リモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れる。
『——速報です』
アナウンサーの声が流れ、画面下部に速報テロップが流れる。
『緊急記者会見 "二人と一人"の作者・蘭学事啓が素顔を公表』
ふと、手が止まる。
「……あの作品の作者……」
自分でも知らないうちに、口から言葉が漏れていた。
世間で話題になっている小説——『二人と一人』。
読んだことはない。時間の無駄だと思っていた。だが、あれほど世間を騒がせた作品の作者なら、少しは気になる。
画面が切り替わり、記者会見場の映像に変わる。
そして——
『——今回、正式に自らの素顔を公表することになりました。蘭学事啓さんです』
カメラが映し出した顔。
その瞬間、俺の体が硬直した。
「……まさか、……啓?」
信じられない。目の前にいるのは、間違いなく相沢啓だった。
あの——病院で見た少年。
あの——雅に好かれている少年。
あの——俺が欲したものを、初めから持っていた存在。
緋崎と名乗る女性がマイクを握り、にこやかに紹介を続ける。
『話題作『二人と一人』で一躍注目を集めた若き作家、蘭学事啓氏です』
俺は息を詰めたまま、画面に釘付けになった。啓の表情はいつもと変わらず穏やかだ。緊張しているとはいえ、あの病院のベッドで見た顔と同じだ。
しかし今、彼は全くの別人のように見える。自信に満ちた表情。それなりに整えられた服装。そして何より——全国に向けて発信しているという事実。
『新作を書くにあたって、自分を偽るわけにはいかなかった……』
啓の声が部屋に響く。低いトーンだが、芯の通った声だ。
俺の手が強張る。カップの中のコーヒーが微かに揺れた。
『これは……ある少女の手記を基にした物語です』
手記?
何の話だ?
『この少女は、誰にも見つけてもらえなかった。だから僕は……彼女の言葉を、残したいと思った』
会場がざわめいた。記者たちの声が重なり合う。
『蘭学先生、その少女はどういう人物なのですか?』
『実在の人物をモデルにされたのでしょうか?』
『いつ頃の話なのでしょうか?』
質問が飛び交う中、啓はあくまで冷静に対応している。その瞳には、まるで全てを知り尽くしたかのような静かな強さがあった。
『あくまでフィクションです』
彼はそう言いながらも、口元に浮かぶ微かな笑みには確信めいたものが感じられる。
『ですが、この少女の体験した出来事は、現実に起こり得ることです。むしろ、今この瞬間も、誰かがそれを体験しているかもしれない』
彼の目が、まるでこちらを見透かすように、カメラを通して俺の心に突き刺さってくる。
『彼女は周囲に理解されない孤独を抱え、ある事件をきっかけに人生を大きく変えられました。そして、それを仕掛けた『ある人物』は、今も自由に生きています』
俺は思わず体を強張らせた。
『もちろん、これは創作です』
啓は穏やかに続ける。
『しかし、この物語を書くことで、同じような境遇にある人たちに、『あなたは一人じゃない』というメッセージを届けたいと思いました』
その言葉には、何かの意図が潜んでいるように感じられる。俺だけが知っている秘密を、彼もまた知っているかのような——そんな錯覚に陥る。
「ブラフだ……はったりだ」
思わず呟いていた。
「あいつが、そんな手記なんか持ってるはずがない」
そう、あり得ない。考えすぎだ。相沢啓なんて、何も知らないはずだ。知るはずがない。
そう自分に言い聞かせようとした、その瞬間。
机の上に無造作に放り投げた郵便物の中に、一通の封筒が目に入った。
一般的な白い封筒。だが、宛名も住所も差出人の名前も記されていない。
ただ、差出人の欄には、手書きで『とある過去の少女より』とだけ書かれていた。
「誰だ……?」
不審に思いながらも、手は自然と封筒に伸びていた。封を開け、中身を覗き込む。
一枚の便箋。そこにはただ一言。
『お前が犯した過ちを、私は許さない』
喉が乾く。
そして、もう一つ。便箋と一緒に同封されていた一枚の写真——
睨みつけるような視線の少女。
その顔は、鈴に酷似していた。
「……っ」
指先から力が抜け、写真が床に落ちる。
その瞬間、記憶の扉が開いた。
脳裏に蘇る、遠い夏の日の出来事。
暑くて、公園の木陰で休んでいた二人の少女。
俺の手に握られていたナイフ。
『ついてこい』
呼吸が乱れる。汗ばんだ手のひらにナイフが滑る感覚。
あの時、何の躊躇いもなく俺はナイフを見せつけた。これまでにない高揚感に身を震わせながら。
逃げようとする二人。ワンピースを切り裂く鋭い金属の音。そして——
『逃げて!』
突然現れた鈴の泣き叫ぶ声。体当たりをしてきた彼女の姿。
二人は逃げ出したが、鈴だけは——鈴だけは俺の手の中に残った。
そして、あの時の一人の少女、鈴を助けるために飛び込んできた少女。彼女の顔が、今、床に落ちた写真と重なる。
「小さい……頃の……」
認めたくなかったが、間違いない。あの時逃げた少女の一人、今となっては少し大人になった顔だが——それは確かに彼女だった。
そして鈴は、その姉だったのか。
「ありえない……」
だがそれは、ありえた。
そう、あの時、俺は知らなかった。鈴とあの子が姉妹だったなんて。まさか啓が、そのことを知っているとは——。
「くそっ!」
視界が赤く染まる。瞬間的に体を支配する怒りと恐怖。
震える手で床に落ちた写真を拾い上げ、机に叩きつけるように置く。
壁に立てかけていた、いつも愛用しているナイフを手に取る。
そのまま躊躇いなく、写真の上に刃を突き立てた。
ずぶりと、鋭い刃が少女の眼球を貫き、木の机に深々と刺さる。
「お前らなんかに……」
再び視線をテレビに戻す。
画面の中で、啓は穏やかな表情のまま、記者たちの質疑に冷静に応じている。
『小説家として、自分の作品が誰かの心に届くことを願っています』
淡々と語る啓。そのまっすぐな眼差しが、まるで俺だけに向けられているかのようだ。
「あいつが……俺を……」
唇を噛み締め、目に宿る怒りと恐怖。握ったナイフの柄が手のひらに食い込む。
「ふざけるな……お前なんかに……」
テレビ画面には、依然として啓が穏やかに語る姿が映っている。まるで勝利者のような、落ち着いた微笑み。
それを憎悪を込めて睨みつける俺の眼に、少しずつ狂気が灯っていくのを自分でも感じていた。




