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第104話 最終章・君のためにできること

 高級タワーマンションの一室に、冬の柔らかな陽射しが差し込んでいた。

 窓の外には雲ひとつない青空が広がり、遠くには整然と並ぶビル群が静かに佇んでいる。


 神楽の部屋は広く、落ち着いた色合いの家具がセンスよく配置されていた。雑誌に出てきそうな洗練された空間だ。


 そのリビングテーブルを囲むように、僕たちは静かに座っていた。


 神楽と真凛、蘭子、葵──彼女たちは、雅が集めてくれた。 そして、響姉だけは、僕が呼んだ。


 彼女からも僕に話したい事があったとの事だったので丁度良かった。

 

「皆、集まってくれてありがとう」


 僕は静かに口を開いた。昨日からずっと考えていたことを、やっと話す決心がついた。一人では抱えきれない重さだった。


 「啓、大丈夫?なんだか顔色悪いよ?」


 神楽が心配そうに僕を見つめる。彼女の優しい声に、少し勇気が湧いてきた。


 「うん、大丈夫。急に呼び出してごめんね、でも今日はどうしても皆に聞いてほしい事があるんだ……」


 僕は深く息を吸い込み、静かに言葉を紡ぎ始めた。


 「僕には『鈴ちゃん』という幼馴染がいた……」


 僕は静かに口を開いた。皆の顔をゆっくりと見回す。神楽と真凛、雅と葵、蘭子、そして響姉。六人の視線が僕に集まり、部屋の空気が一気に張り詰めた。


 「鈴村鈴っていう僕が幼稚園の頃からの幼馴染で、雅や葵よりも前から知っていた子なんだ」


 懐かしい記憶が次々と蘇ってくる。幼い頃に一緒に遊んだ公園、分け合って食べたアイスクリーム、虫取りに行った川辺。思い出すだけで胸が温かくなるような、そんな日々だった。


 「彼女はとても明るくて、優しい子だった。いつも笑顔で、小さな命でも大切にする子だった」


 微笑みながら話していた僕の表情が、ゆっくりと曇り始める。


 「でも、ある日突然、彼女は僕たちの前から姿を消してしまった」


 雅と葵が息を呑むのが聞こえた。二人にとっても辛い記憶なのだろう。


 「ある日、僕と雅と葵が公園で遊んでいた時、突然鈴ちゃんが現れたんだ。服は泥だらけで、髪は乱れていて……」


 あの日の光景が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。


 「僕たちは彼女の姿を見て驚いた、そして……そんな彼女に――」


 そして、僕自身が言ってしまった言葉。


 「僕は……『可哀そうに』って言ったんだ」


 言葉につまりながら、自分の過ちを振り返る。


 「その瞬間、鈴ちゃんの表情が変わった。まるで魂が抜けたような顔になって、そのまま彼女は走り去ってしまった」


 「それが最後だった。その後、彼女は引っ越してしまって、もう二度と会うことはなかった」


 沈黙が流れる中、僕はゆっくりと続けた。


 「あれ以来ずっと、僕は鈴ちゃんに嫌われたんだと思っていた。あの時の言葉で、彼女を傷つけてしまったんだと……」


 「でも、事実は違った」


 僕は昨日小夏ちゃんから聞いた話を始めた。小夏ちゃんと幸田早苗という女の子が、公園で遊んでいたときに、ナイフを持った少年に脅されたこと。そして、そんな二人を守るために鈴ちゃんが現れ、彼女がその男の子に乱暴されたこと——。


 「それで鈴ちゃんは、その少年から逃げて、僕たちのところに助けを求めに来たんだ。でも僕は、何も知らないまま、あんなことを言ってしまった……」


 声が震える。心臓が痛いほど締め付けられる感覚だった。


 「鈴ちゃんの家族は、彼女の傷を隠すために急いで引っ越してしまった」


 「でも、それだけでは終わらなかった」


 僕は深く息を吸い、ゆっくりと話を続けた。鈴ちゃんが引っ越した後、——妊娠してしまったこと。


 部屋の空気が凍りついたように感じた。


 「鈴ちゃんは……表向きでは、妊娠をきっかけに人生を悲観して、西ケ丘の廃病院から飛び降りて、亡くなったっていうことになってる。子供は誰の子か分からないまま……」


 その言葉を口にした瞬間、僕自身の心が引き裂かれるような痛みを感じた。


 「でも僕は、彼女が自ら命を絶つような子じゃないと思ってる。小夏ちゃんも、その考えに同意していた」


 「小夏ちゃんって、あのちびっこの事?」神楽が混乱した声で尋ねた。


 「うん、笹原小夏……彼女は……鈴ちゃんの妹なんだ」


 皆の顔に驚きの色が広がる。


 「昨日、僕は小夏ちゃんに連れられて、鈴ちゃんが亡くなった廃病院に行ってきた。そこで全てを聞いたんだ」


 「そして、鈴ちゃんを襲い、死に追いやった男が誰なのか——」


 ギュッと握った拳に思わず爪が食い込む。


「その男の子っていうのは?」蘭子が冷静に尋ねた。


 「当時は少年だったけど……」


 僕は少し言葉に詰まり、雅の方を見た。言いづらかったけれど、もう隠すわけにはいかない。


 「雅の従兄にあたる人物……天音瑞樹という男らしい」


 部屋の中が静まり返った。雅の顔から血の気が引いていくのがわかる。


 「ごめん、雅。こんなことを話して……でも、もう隠せないんだ」


 雅は言葉に詰まったまま、ただ目を見開いていた。


「やっぱり、あいつか……」


 重い沈黙を破ったのは響姉だった。彼女の声には、怒りよりもどこか確信めいたものが込められていた。


 響子の声は低く、静かだった。けれど、その中には確かな確信があった。


 「ずっと思ってた……あいつ、啓のことを妙に昔から観察してた節があったからな。あれは、従妹として雅の幼馴染への好奇心とか、そういうんじゃなかった」


 僕は黙って耳を傾けた。


 「あの瑞樹って男、ずっと腑に落ちなくてな……だから一人で調べてたんだ。啓が入院してたとき、偶然病院であいつを見かけて、そこから尾行もした。……裏を取るために、時間もかけてな」


 「響姉……」


 姉が、そんなことをずっとしていたなんて知らなかった。


 「私は啓の味方だからな。黙って見てるだけなんて、できるわけないだろ」


 その目には、まっすぐな意志が宿っていた。


 気づけば、神楽と真凛が固まったように黙っていた。神楽は唇を噛み、目を潤ませている。真凛は、小さく嗚咽を漏らしながら、僕をじっと見ていた。


 「啓は悪くないじゃん……何も知らなかったんだから……」


 神楽の声は震えていた。


 「でも……」


 僕は小さく呟いた。


 「知らなかったけど……気づけたかもしれなかった。あのとき、自分の気持ちに嘘をつかなければ……僕は鈴ちゃんとちゃんと向き合えていたかもしれない」


 真凛が潤んだ瞳で顔を上げた。


 「自分の気持ちって……?」


 その瞳を見つめ返しながら、僕は重い口を開いた。


「……鈴ちゃんは、僕の初恋の人だった」


 部屋の空気が静まり返る。


 「だけど、その気持ちにずっと蓋をしてた。鈴ちゃんがいなくなったあと、僕は……自分のせいだって思ってたから。思い出すのが怖くて、彼女のことを心の奥底に封じ込めてた」


 声が震えるのを抑えながら、僕は続けた。


 「でも、そんな時にそばにいてくれたのが、雅と葵だった。二人がいたから、僕は立ち直れた。……そして、そんな二人だったからこそ、僕は自然と、彼女たちを愛せるようになっていったんだ」


 言葉を口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた澱が、少しだけ流れ出したような気がした。


 僕は、ずっと逃げていた。鈴ちゃんの死からも、自分の気持ちからも。向き合うことが怖くて、あの頃の記憶に蓋をして、見ないふりをしてきた。でも、本当はわかっていた。逃げ続けても、何も変わらないって。


 その沈黙を破ったのは、雅だった。


 「……啓、私ね、なんとなく気づいてたの。鈴だけじゃなく、、啓からも何か特別な気持ちがあったんじゃないかって」


 「私も」葵がそっと頷く。「鈴ちゃんが引っ越してから、啓が全然元気なくて……心配だった。だから、三人でいる時間を大切にしようって、自然とそう思ってた」


 雅と葵の言葉に、胸が締めつけられる。


 「……ありがとう」


 僕がそう呟いた時、すぐ隣で、蘭子がゆるく腕を組みながら言った。


 「複雑な関係ですね~。でもまあ、皆子供だったんだし、しょうがないんじゃないですか?」


 その軽い口調に、神楽が食ってかかる。


 「あんたね!啓はそのせいで今も苦しんでるのが分かんないの!?」


 「いや、まあ、可哀そうではありますけど」蘭子は肩をすくめながらも、視線はまっすぐだった。「でも大事なのは、それを知って先生がどうしたいか、ってことじゃないですか? 過去より、未来でしょ」


 「でも啓くんは……!」


 真凛が反論しかけたところで、僕はそっと手を上げた。


 「いいんだ、真凛。蘭子の言う通りだよ」


 僕は、穏やかに言葉を続けた。


 「過去は消せない。でも、向き合うことはできる。……今の僕にできること、それは、鈴ちゃんのために、今の自分に何ができるかを、逃げずに考えることだと思うんだ」


 その時だった。


 「啓!」


 響姉が勢いよく僕に抱きついてきた。


 「こんなに男らしくなっちゃって……もう、お姉ちゃん、感動したぞ……!」


 嬉しそうに抱きしめてくる姉の背中越しに、神楽、真凛、雅、葵の四人が同時にむっとした表情を浮かべていた。


 蘭子だけが、愉快そうにくすくすと笑っている。


 その時、不意に響姉が顔をしかめた。


 「……うっ」


 「響姉……まさか」


 「まだちょっと、阿久津とのやり合った時の傷が……な、ちょっとだけ響いたかも……」


 「もう、まだ完治してないんだから……」


 僕は呆れながらも、思わず声に心配が滲んだ。無茶ばっかりする姉だけど、誰よりも僕を思ってくれている。そのことが、今さらのように胸に迫ってくる。


 彼女の腕の力が少し緩み、ようやく僕はその腕の中から抜け出すことができた。


 そのタイミングで、蘭子が口を開いた。


 「で、先生は具体的に何をするつもりなんですか?」


 さすが蘭子、というべきか。僕がすでに何かしら動き始めていることに気づいている様子だった。彼女の目は、ただの好奇心じゃなく、実務的な鋭さを帯びていた。


 「……やっぱり気づいてたんだね」


 僕は静かに笑って、うなずいた。


 「実は、小夏ちゃんが蘭子に頼んでくれてたんだ。瑞樹さんの身辺について、配信者としてのネットワークを使って調べてもらってる。だから、まずはその情報を、蘭子と一緒に精査したい」


 蘭子は小さく頷いて、「まあ、私なりにやれることはやってますから」とあっさり返した。


 その時だった。


 「……ねえ、それなら、私も話しておかなきゃいけないことがあるの」


 雅が、ふと真剣な表情で口を開いた。


 「父から聞いたの。瑞樹兄さんのこと——鈴ちゃんが亡くなった年に、彼、ある女の子に対して問題を起こしてたって」


 空気が凍りついたように静まり返る。


 「当時は未成年だったし、事件そのものも大事にはなってなかったらしいけど、表向きには“医療系の海外プログラムに参加する”って話で、……実際は、問題を起こしたことを受けて、更生プログラムに参加させるための留学だったらしいの」


 僕は言葉を失った。瑞樹にそういう過去があったなんて——いや、もはやこの人ならあり得ない話じゃない。


 「本来なら、瑞樹兄さんがうちの病院を継ぐ予定だった。私との婚約も、父は考えてたみたい。でも、今回の件を聞いて、すべて白紙に戻すって……父がそう決断してくれたの」


 皆の視線が雅に集中した。


 「……何そいつ、真っ黒じゃん……」


 神楽の呆れた呟きに、誰も反論しなかった。


 「そんな怖い人が身近にいるなんて……信じられない……」


 真凛の声が震えていた。


 隣で葵が、そっと雅の手に手を重ねる。


 「雅、大丈夫……?」


 「ええ、大丈夫よ」


 雅は静かに微笑んで、葵の手を握り返した。


 「お父さんがしっかり対応してくれたから。私も、ちゃんと向き合わなきゃって思ってる」


 その言葉に、葵も安心したように微笑んだ。


 「よかった……」


 葵はそれきり何も言わず、静かに雅の手を握り返した。


 その静かな仕草に、思わず心が温かくなる。


 僕は少しだけ目を伏せながら、ふと、天音家のことを思い出していた。


 医療の名家、代々続く名門。きっとしがらみやら色々あるはずだ。瑞樹が今、どれだけ追い詰められているか……そう考えると、ひとつの疑念が頭をよぎった。


 「雅……その件で、瑞樹に何か変わったことはなかった?」


 僕の問いかけに、雅は少しだけ表情を曇らせた。


 「……昨日の今日だから、まだはっきりとは分からないけれど」


 言葉を選ぶようにして、彼女はゆっくり続けた。


 「瑞樹兄さんのお父さんは、医大の名誉教授なの。昔から厳しい人で……もし今回のことが知れたら、きっと兄さんはただじゃ済まないと思う」


 僕は黙って頷いた。そうだ、これは——


 「……チャンスかもしれない」


 思わず、声に出していた。


 「チャンス?」


 葵が怪訝そうに首をかしげる。


 「うん」


 僕は皆の顔を順に見渡しながら、言葉を継いだ。


 「僕は……ずっと目を逸らしてきた。鈴ちゃんのことも、自分の気持ちも、全部から。でも……もう、誤魔化すのはやめにする。彼女のために、今できることをちゃんとやりたい。今度こそ、守りたいんだ」


 拳を握りしめる。


 「僕は非力だ。一人じゃ何もできない。小説を書くことくらいしか取り柄のない人間だ。でも、それでも……力を貸してほしい」


 その瞬間、空気が震えたような気がした。沈黙を破ったのは、真凛だった。


 「啓くんは、非力なんかじゃないですよ」


 瞳を潤ませながら、それでも微笑んでみせる。


 「ちゃんと、私たちのこと、見てくれてる。言葉にも、行動にも、いつも優しさがあった。そんな啓君だからこそ、私はそばに居たいって思えたんです」


 「私もよ」神楽が言葉を継ぐ。「どんなときも、一歩踏み込もうとしてくれる。うちの事務所を救ってくれた時もね。傷つくかもしれないのに、それでも手を伸ばそうとする人なんて、そうそういない」


 「伍代と鷹松の時……」雅が目を伏せて微笑む。「啓が来てくれなかったら、私たち、どうなってたか分からなかった。あの時の勇気、私は一生忘れない」


 「蘭子にだって、そうだったんでしょ?」葵がそっと微笑む。「啓が声をかけてくれなかったら、彼女、自分の仕事に誇りを取り戻せなかったって、嬉しそうに話してたよ?」


 視線が集まり、蘭子は少し視線を泳がせながら、照れた顔で小さく言った。


 「……ま、まあ……先生がいなかったら、私は今でもずっと中途半端なままだったかも、しれませんけど……な、なんですか?」


 その言葉に、思わず笑みがこぼれた。


 胸がいっぱいで、喉の奥が詰まる。


 僕は何も言えず、ただ皆の顔を見つめていた。


 気づけば、視界が滲んでいた。


 でも、ここで泣くわけにはいかない。


 僕は深く息を吸って、感情を噛みしめた。


 この気持ちを、絶対に忘れない。


 今度こそ——動き出すときだ。

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