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第103話 最終章・曇り硝子の天秤

 目覚ましが鳴る数秒前に、僕は静かに目を開けた。遮光カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光が、天井をゆっくりと照らしている。いつもの時間。いつもの朝。ベッドから身体を起こし、足元のスリッパを履くと、洗面所へ向かった。


 鏡の前で顔を洗い、タオルで水気を拭いながら、自分の表情を確認する。口角を少し上げて、眉の角度を調整する。優しそうに見えるように。穏やかな医者らしく。


 電動シェーバーで髭を丁寧に剃りながら、頭の中では今日の回診スケジュールを反芻する。患者の顔と症状を思い出し、それぞれの接し方をシミュレーションする。朝のルーティンは、僕にとって仮面を整える儀式だ。


 シャツにアイロンをかけ、ネクタイを結び、ジャケットを羽織る。食卓には、昨夜のうちに準備しておいたプレートが置かれていた。トーストに目玉焼き、ヨーグルト、そしてテーブルに広げた医学誌。最新の特集は小児内科に関するもので、論文の注釈に目を通しながら、淡々と食事を進めていく。


 完璧な朝。完璧な僕。だが、この中身は、誰にも知られてはいけない。


 出勤の支度を終えた僕は、静かに自宅を出て、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。地下鉄の車内では、誰もが無言でスマートフォンに視線を落としていた。窓の外を流れる景色を眺めながら、今日の患者の顔をひとつひとつ思い出す。


 病院に着くと、ロッカールームで白衣に着替え、カルテを片手に病棟へと足を運んだ。僕の足音は無意識に静かだ。声のトーンも、動作も、すべて計算されている。


 「おはようございます、体調いかがですか?」


 若い女性患者が、驚いたように顔を上げて小さく頷く。その反応を読み取りながら、僕は微笑みを浮かべた。


 「昨日のお薬、少しきつかったかもしれませんね。副作用が出ているなら、量を調整します。無理はしないように」


 彼女が安心したように頷いたのを見て、カルテにペンを走らせる。看護師たちが僕の言葉に注目しているのを感じながら、僕は模範的な説明を続けた。医師として、いや、“瑞樹先生”として求められる理想像を忠実に演じる。


 だけど、その目の奥。無防備なまま僕を信じきった瞳を前にすると、ふと別の衝動が頭をもたげる。


 弱い者は、優しさに弱い。だから、僕はこうして優しさを施してあげている。。


 午前の回診を終え、一息ついたところでナースステーションに戻り、引き継ぎのメモを書きながら今日の進行状況を整理していた。ちょうどペンを置いたタイミングで、内線が鳴った。軽く肩を伸ばし、メモを片づけて指定された階へと向かう。その途中、エレベーターホールに差しかかったところで、スマートフォンが震えた。画面に表示された発信者の名を見た瞬間、指先がわずかに冷えた気がした。


 父だった。


 通話ボタンを押すと、受話器越しにあの重たい声が響いた。


 「……瑞樹、やってくれたな。病院の件だが、継承は一度白紙に戻すことにした」


 一拍置かれたその言葉が、胸にずしりと沈んだ。


 「圭吾とも話し合った。……どうやら、お前が過去にやらかしたことがまた問題になっているようだ」


 一瞬の沈黙。父の声に感情はない。ただ事実だけを突きつける、乾いた音の羅列だった。


 「今のままでは、病院の継承は白紙にせざるを得ない。……まだ確定ではないが、もしもの時は……覚悟しておけ」


 その言葉は、まるで他人事のように冷たく響いた。


 僕は何も言えなかった。ただ静かに口を閉じたまま、電話越しの父の声を聞いていた。昔から変わらない、決定事項だけを伝えて感情を交えない物言い。まるで僕の存在は報告書の一文に過ぎないかのようだった。


 「……わかったよ、父さん」


 自分でも驚くほど淡々と返事をして、通話を切った。だがその瞬間、内側から何かが崩れ落ちる音がした。


 継がせると言ったのは、父だったはずだ。僕に求められる役割は、確かにそこにあった。なのに、過去が再び足を引っ張った。許されない過去。消せない過去。


 画面が暗くなると同時に、僕の視界も鈍く霞んでいった。胸の奥に広がるのは、悔しさでも怒りでもない。むしろ、空っぽだった。


 僕は壁に背を預け、ゆっくりと拳を握った。爪が皮膚に食い込む感覚だけが、まだ現実に自分がいることを教えてくれる。


 ようやく足を動かし、ナースステーションの前まで戻る。深呼吸をひとつ、ふたつ。


 「瑞樹先生……顔色が悪いようですけど、大丈夫ですか?」


 若い看護師が心配そうに声をかけてきた。僕は瞬間的に微笑を作り、首を横に振る。


 「少し寝不足なだけだから。気にしないで」


 彼女は安堵したように小さく頷いて去っていった。その背中を見送りながら、僕は内心で自分の表情を再確認する。仮面が少し揺らいだ。それだけで、冷や汗が背中を伝う。


 気を抜くな。僕は“瑞樹先生”でいなければならない。


 それでも、ほんのわずかでも心を乱せば、すぐに表情や声に出てしまう。すぐに、誰かに気づかれる。だから、意識して表情筋を整える。姿勢を正す。声のトーンを一定に保つ。


 午前の回診を終えた頃、あの電話の余韻がまだ指先に残っていた。名残る怒りと空虚さを抱えたまま、僕はナースステーションを離れた。控えめに笑い、形式的な挨拶を交わしながら、その場を抜け出すように。白衣のポケットには、今日の業務で使った道具がまだ重みを残している。


 昼休みという名目で屋上近くの控室に向かった。ナースステーションを離れてからの数分間、誰とも目を合わせず、ただ自販機のあるその一角へと足を運んだだけなのに、身体の奥にこびりついた緊張は少しも取れていなかった。


 コーヒーを手にソファに腰を下ろす。白衣のポケットに残るボールペンとメモが、今日の現実を静かに主張していた。見慣れた空間、聞き慣れた空調の音。そのすべてが、どこか遠く感じられた。


 なのに、頭の中には父の声が、しつこく、何度も反響していた。


 なぜ、僕だけが背負わなければならないのか。過去の“あれ”がなかったとしても、どうせ父は僕を完全には信じていなかった。そう思えば、悔しさよりも虚しさの方が勝ってしまう。


 廊下から聞こえてくる笑い声。楽しそうな若い医師たちの談笑。誰もが未来に何の曇りもない顔で、白衣を着こなしている。僕はその一員だ。少なくとも、外から見ればそう見えている。


 目の前のコーヒーはもう冷めていた。


 思考は、気づけばもっと古い記憶へと沈んでいた。あれが、すべての始まりだった。


 小学生の頃、どうしようもなく抑えきれない苛立ちを抱えていたある日、僕はひとりで遊んでいた小さな女の子を見つけた。僕よりもずっと幼くて、無抵抗で、ただ僕を怯えた目で見ていた。


 声をかけただけで、相手はすくんで、逃げなかった。その瞬間、胸の奥に得体の知れない感覚が湧いた。怖がられているのに、見下されている気はしなかった。むしろ、完全にこちらの掌にあるという安堵に近いものだった。


 支配するということ。命令しなくても従わせるということ。あの日、僕は初めてその快感を知った。


 それからしばらく、僕はその感覚を胸の奥にしまい込んでいた。


 あの感覚は、長く沈んでいたけれど、確かに僕の中に残っていた。そして、それが再び表に現れたのが——数年ぶりに、鈴と再会した日のこと。


 偶然だった。すれ違ったとき、最初は気づかなかった。けれど、あの目の揺れ方は見覚えがあった。怖がっていた。……それが良かった。僕はすぐに気づいた。


 中学生になっていた彼女は、当時よりも少し背が伸びていたけれど、芯の弱さは変わっていなかった。僕にとって、それは都合がよかった。


 “あのときのこと、写真と共に啓君に告げたら、彼はどんな顔をするかな”。


 ただそれだけの一言で、彼女の表情は凍りついた。僕は何もしていない。脅したわけでもない。ただ真実を並べただけだ。


 その後、彼女は僕の言うことをよく聞くようになった。


 手のひらの中に入った感覚。もう逃げられないという安心感。そうだ。あのとき、僕は鈴を——啓の中にいた鈴を、奪ったんだ。


 彼女を支配していたという事実こそが、僕の満足だった。愛していたわけではない。ただ、僕の存在で誰かが縛られているという事実が、心地よかった。


 携帯のバイブが震え、我に返る。新しい通知。何でもない医局連絡。それを見て、僕は立ち上がった。


 廊下を歩きながら、何気なく窓の外に目をやる。冬の空は薄く曇り、冷たい光が差している。その中で、僕はただ静かに足を進めた。








 夕方、研修を終えて屋上へと足を運んだ。病棟の最上階、非常扉を抜けたその先に広がる、いつもの誰もいない空間。


 手すりの前に立ち、ビルの合間に沈んでいく夕日を見つめる。燃えるような色。けれど僕の中には、何も灯らない。


 啓、雅、葵——彼らは幸せだ。知らずに生きていける人間は、幸せだ。


 僕はいつも、一人だった。期待という名の檻の中で、誰にも甘えることなく、感情を吐き出すこともなく、ただ正しく在るように努めてきた。けれどあの三人は違った。幼い頃から、まるで当然のように寄り添い合い、笑い合っていた。


 鈴もまた、啓の隣にいた。彼の世界には、いつも誰かがいた。あたたかい声と手が、彼を囲っていた。


 その輪の中に、僕が入ることは決してなかった。ただ眺めていた。羨ましくて、悔しくて、気づけば、その輪を壊したいとすら思っていた。


 だから僕は、鈴を引き離した。啓の世界にいた彼女を、自分の手の中に閉じ込めた。


 彼らが築いていたあたたかい関係。それを壊したかったわけじゃない。ただ、僕の存在ひとつで崩れていく様を見たかった。誰かの中にいたはずの大切なものが、自分の意思で支配されていく——それが、たまらなく快感だった。


 父の期待、家の重圧、自分の中にある衝動。それらすべてを押し殺してきた僕の中に、最後に残ったのは、か弱いものを支配したいという欲望。


 そうして、僕は啓の中から鈴を奪った。そして今度は——雅だ。彼女も、そしてこの病院も、僕の人生における“正しい位置”に戻さなければならない。


 雅は僕の隣にいるべきで、病院は僕の手の中にあるべきだ。それは父の願いではなく、僕自身の選んだ運命だ。


 誰より努力してきたのは僕だ。真っ当な医師としてふるまい、あらゆる期待に応えてきた。その報酬が奪われるなら、僕の人生そのものが否定されたも同じだ。


 雅が啓の隣にいる限り、それは僕からすべてを奪う構図に他ならない。ならば、引きずり下ろすしかない。


 静かに目を閉じる。風が吹き抜ける。白衣の裾が揺れた。


 誰にも、僕の道を邪魔させない。僕は——


 すべてを支配するために生きている。



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― 新着の感想 ―
 物語を読んでいて、久し振りに思いました。   ああ、こいつ「しんでしまえばいいのに!」
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