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第102話 最終章・白む空の向こうに

 陽が傾き始めた頃、私は一人、自宅のリビングで静かに座っていた。


 広々とした空間には、祖父の代から受け継がれてきた和洋折衷の調度品が整然と並び、どこか張り詰めたような空気が漂っている。天井の梁には控えめな照明が灯り、夕暮れの光と交わって床に穏やかな影を落としていた。障子の奥からは庭の松の木が揺れるのが見え、風の音がほのかに耳に届く。


 けれど、その穏やかさの中で、私は自分の胸のうちのざわつきをどうにも抑えることができなかった。


 昨日、屋上で聞いたあの言葉が、頭の中で何度もこだましていた。


 ——鈴村鈴。啓の最初の幼馴染であり、私たちの友人だった少女。


 彼女の死に、瑞樹兄さんが関わっているかもしれないと小夏が語った時、私は息を呑んだ。そしてその死が「自殺」だったと聞かされ、胸の奥が重く沈んだ。


 啓の顔が頭から離れなかった。蒼白な表情で、何も言えずに立ち尽くしていた彼。あの時の彼は、まるで過去の全てと向き合わされているかのような目をしていた。


 そして私は、昨夜からずっと考え続けていた。鈴の死、小夏の言葉、そして——ふと頭をよぎった、瑞樹兄さんの留学のこと。


 「鈴が亡くなったのは……五年前だって、響子さんが言ってた」

 

 ふと呟くように思い出す。その頃、私たちはちょうど中学一年。


 「瑞樹兄さんが留学したのも……たしか中学一年の頃だった」


 特に大きな問題もなく国内の学校に通っていたはずなのに、突然、海外の医療系プログラムに参加することになった——そんな話を大人たちの会話の中で聞いた覚えがある。


 その“急遽”という言葉が、今になって妙に引っかかる。


 私は息を整えるように湯呑みを手に取り、冷めたお茶を一口飲んだ。

 けれど、喉を通っていくその温度だけでは、胸の奥の冷えた塊を溶かすことはできなかった。


 その時、玄関の引き戸が静かに開く音がした。父の帰宅だ。


 「ただいま」


 低く穏やかな声が響く。

 足音が廊下を渡って、やがてリビングの襖がすっと開いた。


 「おかえりなさい、お父さん」


 私は立ち上がって軽く頭を下げる。父は白衣の上からグレーのコートを羽織り、手にしたカバンを下ろしながら、私の顔を見てふっと微笑んだ。


 「一人でどうした。暗い顔をしてるな」


 その言葉に、私は一瞬、視線を逸らしてしまう。


 「……ちょっと、考えごとをしていただけ」


 父は私の隣に腰を下ろし、テーブルの上にあった急須から自分で湯呑みにお茶を注いだ。


 「ふふ、雅は直ぐに顔に出るな。母さんと同じで、隠し事が下手だ。何か悩みでもあるのか?話してみなさい」


 その声音には、娘に向ける柔らかな優しさが滲んでいた。


 普段は病院の経営に関わる厳格な姿しか見ないけれど、私にとって父は、幼い頃からずっと変わらず、温かく見守ってくれる存在だった。


 だからこそ、今、私は迷っていた。


 この胸の内を父に話してもいいのか。

 ただの偶然かもしれないこの疑念を、名家としての天音家に持ち込んでもいいのか。

 けれど……


 「お父さん、昔……私の幼馴染だった女の子のことなんだけど」


 私は、静かに口を開いた。


 父が少しだけ眉をひそめた。


 「鈴っていう名前の子なの。……鈴村鈴。小学生の時に突然引っ越して……それっきり会えなくなった女の子」


 私は彼女のことを簡潔に話した。啓の最初の幼馴染であり、私と葵よりも先に彼と深く繋がっていた子だったこと。彼女が中学一年生の時に亡くなっていたこと。


 父は黙って聞いていた。けれど、鈴の名に反応する様子はなかった。


 そして、私は話を本題へと向けた。


 「その子が亡くなった時期と、瑞樹兄さんが急に留学した時期が……重なってるの。だから、少し気になって……」


 その瞬間、父の手が止まった。


 お茶を口に運ぼうとした動きが、わずかに固まったのを私は見逃さなかった。


 「なぜそんなことを気にする?」


 低く落ち着いた声だったが、その奥には微かに緊張が混じっていた。普段の父とは違う、慎重に言葉を選ぶような間がある。


 私は迷いながらも、正直に話すことにした。


 「小夏っていう子から、聞いたの。鈴の死に……」


 父の目が少しだけ見開かれる。私は続けた。


 「彼女の死に……瑞樹兄さんが関わっているかもしれないって。その話を聞いて、ずっと気になってて……瑞樹兄さんが留学した時期と重なってることも、偶然なのか、それとも何か理由があるのか……」


 父はしばらく黙っていた。湯呑みに手を添えたまま、目線を宙にさまよわせる。


 私はその沈黙が怖くて、つい身を乗り出した。


 「お父さん……もし何か知っているなら、教えてほしいの。私、ただ疑って終わらせたくない」


 父は眉をひそめ、視線を逸らした。


 「……雅には関係のない話だ」


 その一言が、胸に突き刺さる。


 「関係ないなんて、そんな……。瑞樹兄さんが何かしたなら、それを知った上で向き合わなきゃいけないの」


 どこか怒りに似た感情がこみ上げ、私は言葉を強めてしまった。父はその気配に気づいたのか、ゆっくりと目を閉じた。


 そして、小さく息をついた。


 「……まさか、そんな話が今になって出てくるとはな」


 それは、何かを知っている者の声だった。


 「お父さん……何か知ってるの?」


 問いかける私の声が震える。父はゆっくりと頷いた。


 「瑞樹が十五の時……ある問題を起こした」


 その言葉の重さに、私は自然と背筋を伸ばした。


 「はっきり言えば、未成年の女の子に対する不適切な執着だった。兄……瑞樹の父親から相談を受けて、警察沙汰になる前に示談で収めた」


 重く、湿った沈黙がリビングに降りた。


 「もちろん、あのまま日本に置いておくわけにはいかなかった。私と兄は、治療と更生を目的に、瑞樹を海外に送った。……医療の現場に立たせるためには、カウンセリングを受け続けることが条件だった」


 淡々と語るその口調に、苦い責任感と、どこか諦めにも似た感情が滲んでいた。


 「将来は瑞樹と雅が結婚でもすれば、天音家も安泰だと思っていたよ」


 父の言葉に、私は耳を疑った。


 「……え?」


 「もちろん、本人の意思を尊重するつもりだった。最近、瑞樹がやたらと家に顔を出していたのも、それが理由だったんだ……」


 私は言葉を失った。確かに、瑞樹兄さんの視線には、時折違和感を覚えていた。けれど、それがそんな意味を持っていたなんて。


 「お父さん……」


 私は震える声で問いかけた。


 「鈴の死と、瑞樹兄さんの件は……関係があったの?」


 父は沈黙した。だが、やがて、力なく首を振った。


 「断定はできない。だが……鈴という子が瑞樹の過去にいたとしたら……無関係とは言い切れないかもしれない」


 重い言葉だった。けれど、それは私が欲しかった“確信”ではなかった。


 「……また、少女に手を出しているのかもしれん……」


 父がぽつりと呟いたその一言に、私は凍りついた。


 「治療は……効果がなかったのか」


 父は、深く、深く、息を吐いた。


 「瑞樹の病院継承の話は、一時白紙に戻す。明日にでも兄に連絡するよ」


 その言葉には、父なりの決断が込められていた。家の名誉ではなく、私の安全を優先する——その覚悟が、はっきりと感じられた。


  けれど、本当にそれでよかったのだろうか。私の中に残っているのは安堵だけじゃなかった。何かがまだ終わっていない、そんな感覚がどこかにあった。


 それでも、心のどこかがざわついていた。


 リビングを出た私は、静かに自室へと向かった。


 部屋に入ると、時計の針はすでに九時を回っていた。父との会話のあと、夕食をとって、いつも通り風呂を済ませたはずなのに、心は一向に落ち着かなかった。気づけば何度も同じページをめくるように、同じ思考をぐるぐると繰り返していたのだろう。窓の外はすっかり暗く、庭の木々も静まり返っている。


 扉を閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せるばかりで、眠気はまったく感じなかった。


 私はパジャマに着替え、鏡の前に立つ。淡く光るスタンドライトの下、ぼんやりと自分の顔を見つめる。


 ——私が知ってしまったこと。背負うことになるかもしれない現実。


 ベッドに横になっても、目を閉じるたびに、鈴という少女のことが思い浮かんだ。かつて私の友人だった鈴。啓が最初に知り合い、そして私や葵とも仲良くなっていった彼女が、もしかしたら瑞樹兄さんの過去にも、深く関わっていたのかもしれない。


 胸が締めつけられる。


 そしてもうひとつ浮かぶのは、啓の顔。


 ——彼が、真実を知ろうとしている。逃げずに向き合おうとして 私も、逃げてはいけない。


 いつの間にか時計の針は深夜を回り、気づけば何度も寝返りを打っていた。重たいまぶたをゆっくり開くと、窓の向こうがぼんやりと明るくなり始めていた。


 私は窓辺に立ち、カーテンをわずかに開いた。朝焼けが静かに空を染め始めている。


 その時、枕元に置いたスマートフォンが震えた。


 ディスプレイには「啓」の文字。


 「……啓?」


 通話ボタンを押すと、彼の声が耳に届いた。


 『雅、悪いけど、みんなと話したいことがあるんだ。葵にも、神楽、真凛、蘭子にも——できれば今日、集まってもらえないかな』


 一瞬、胸の奥がざわめいた。だけど、すぐに私は答える。


 「……わかったわ。連絡しておくわね」


 『ありがとう』


 やがて、通話がそっと途切れる。啓が最後まで言葉を選んだうえで、丁寧に終わらせたことが伝わってきて、私は自然とスマホを見つめた。


 その『ありがとう』に込められていた優しさと決意が、胸の奥にじんわりと染み渡っていくようだった。


 スマホを握る手に、わずかに力がこもる。


 ……私も、話さなければならないことがあるの。だから啓……私は、あなたと一緒に進むわ。たとえ、どんな真実が待っていたとしても——。


 そう心の中でそっと呟いたとき、胸の奥に絡みついていた迷いが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。




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