第101話 最終章・写真の中の約束
西ケ丘廃病院から帰る道すがら、僕の足は異様に重かった。
夜の闇が深まるなか、小夏ちゃんの言葉が脳裏で何度も反響していた。
「あなたの書いた物語は、世間が思うより、ずっと罪深いですよ。だって……あなたの物語の中で、姉は最初から、存在しなかったことになっていたんですから」
その言葉が、まるで鋭い刃のように心を切り裂いた。そして、別れ際に小夏ちゃんが絞り出すように言った最後の言葉が耳に蘇る。
「姉が、ある日ぽつりと言ったんです。『もう一度、啓に会いたい、会って話がしたい』って……あんなふうに、希望を口にしていたのに……そのすぐ後に、ここから飛び降りたんです。……そんな姉が、自ら命を絶つなんて、私にはどうしても思えない」
それらの言葉が、耳から離れなかった。まるで心を鷲掴みにされたように、胸の奥が痛む。
タクシーを拾おうともせず、僕はただ無目的に歩き続けた。靴底が濡れたアスファルトを叩く音が、異様に耳に響いた。信号待ちの人々、帰宅を急ぐ会社員、深夜営業の店から漏れる光——それらすべてが、どこか遠くの出来事のように感じられる。
鈴ちゃんが——。
本当はあんなことがあったなんて。
僕はこれまでずっと、あの日のことを勘違いしていた。鈴ちゃんがあんな姿で現れて、そして走り去ったのは、僕たちに嫌われたからだと思っていた。啓は鈴ちゃんに「可哀そうに」なんて言ってしまったから、鈴ちゃんは傷ついて、それで僕たちから離れていったんだと——。
でも違った。
ずっと違った。
鈴ちゃんは、身を挺して、小夏ちゃんと早苗ちゃんを救った。なのに……なのに僕は何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。ただ彼女が突然いなくなったことを、自分のせいかもしれないと思って、それで——。
ふと足を止めると、小さな公園のベンチが目に入った。誰もいない暗がりの中、僕はそこに腰を下ろした。星のない夜空を見上げる。
「鈴ちゃん……」
名前を呼ぶと、急に胸が締め付けられた。
あんなに優しかった鈴ちゃん。いつも笑顔で、僕のそばにいてくれた。いろんなことを教えてくれて、僕が泣いている時は必ず励ましてくれた。雅や葵と出会う前から、彼女はずっと僕のそばにいて、僕を支えてくれていた——。
その鈴ちゃんが、どれほどつらい思いをしていたのか。どれほど苦しみ、悲しんでいたのか。そして最後は——。
「自殺じゃない……」
あの廃病院の屋上で小夏ちゃんが語った言葉を思い出す。妊娠していたことを苦に自殺したと記事には書かれていたけれど、それは本当なのだろうか。
瑞樹さんの言葉が蘇ってきた。
——「今度こそ、誰も失わずに済むといいですね……」
病院のベッドで、あの優しそうな笑顔で言われた言葉。それが何を意味していたのか、僕はようやく少しずつ理解し始めていた。
「鈴……ちゃん……」
声が震えた。涙が溢れるわけでもなく、叫びたいわけでもない。ただ、静かな悲しみが胸に広がっていく。
鈴ちゃんはあの日、ずっと僕たちを呼んでいたのかもしれない。僕たちに助けを求めていたのかもしれない。なのに僕は、彼女の声に気づかなかった。
手のひらに顔を埋める。中学生の頃、図書室で『二人と一人』の原型となる物語を書いていた時のこと。頭をよぎった鈴ちゃんの面影を、どこかで無意識に排除していたのではないか。その罪悪感を抱え切れず、彼女のことを物語から消してしまったのではないか——そんな気がしてならなかった。
家に着いたのは深夜だった。
静かにドアを開け、誰も起きていないことを確かめてから自分の部屋に入る。灯りをつけると、いつもの風景がそこにあった。
机の上の教科書、本棚の小説の数々、ベッドの上のクッション——どれも変わっていないのに、すべてが違って見えた。部屋の空気さえ、違って感じられる。
僕は机の前の椅子に腰を下ろした。ふと、ベッドの下に押し込んである古いダンボール箱のことを思い出す。
膝をついて箱を引っ張り出し、埃をぬぐう。蓋を開けると、子供の頃の思い出の品々が詰まっていた。小学校の卒業文集、折り紙で作った星、雅と葵との写真。そして——。
一番下に、少し色あせたアルバムがあった。幼稚園の頃のもの。
震える手でページをめくる。
そこには、ちいさな僕と、ツインテールの少女の笑顔があった。
鈴ちゃん。
あの日を境に、彼女のことを考えるのを避けてきた。彼女がいなくなったのは僕のせいではないかと思うのが辛くて、思い出さないようにしていた。そうして彼女は、僕の心の奥底へと追いやられていった。
写真の中の鈴ちゃんは、満面の笑みを浮かべていた。
心のどこかで、「彼女はあの後、幸せになっているよね」と思っていたのかもしれない。「きっとどこかで元気に暮らしているんだ」と。
でも現実は——。
僕の指先が写真の彼女の笑顔を優しく撫でた。
「ずっと君から嫌われたんだと思ってた……」
でも実際は、鈴ちゃんは誰よりも優しかった。恨むどころか、最後まで、僕に会いたがってくれていた……。
瑞樹さんの言葉が再び頭をよぎる。
「今度こそ、誰も失わずに済むといいですね……」
この言葉は単なる挨拶ではなかった。鈴ちゃんのことを知っていて、そして——。
あの瑞樹さんは、鈴ちゃんを……?
小夏ちゃんが言っていた。鈴ちゃんの死に瑞樹さんが関わっている可能性があると。そして記事には妊娠を苦に自殺したと書かれていた。この二つは、どこかでつながっているのかもしれない。
もし鈴ちゃんの死が自殺ではなかったとしたら——。
僕はゆっくりとアルバムを閉じ、鈴ちゃんの写真だけを取り出した。そっと、机の上に置く。
時計を見ると、もう午前2時を回っていた。けれど、眠気はまったく感じなかった。どこか遠くから、鈴ちゃんが僕を呼んでいるような気がした。
僕はノートを開き、ペンを手に取った。何を書くべきか明確ではなかったけれど、書かずにはいられなかった。鈴ちゃんの写真を見つめながら、僕はゆっくりとペン先を紙の上に走らせ始めた。
窓の外が少しずつ明るくなっていくのが分かった。朝焼けが僕の部屋に差し込み、机の上の鈴ちゃんの写真を柔らかく照らしていた。
気づけば、もう朝だった。
一晩中、眠ることなく過ごしていた。目は疲れ、痛みさえ感じた。けれど、心はどこか晴れやかだった。何も解決していないのに、少しだけ前に進めたような気がした。
僕は携帯電話を手に取り、雅の番号をタップした。
「……もしもし?啓?どうしたの、こんな朝早くに」
やはり雅は起きていた。いつもの落ち着いた声が、受話器越しに聞こえる。
「雅、悪いけど、みんなと話したいことがあるんだ。葵にも、神楽、真凛、蘭子にも——できれば今日、集まってもらえないかな」
一瞬の沈黙。
「……分かったわ。何かあったのね?」
「うん、鈴ちゃんのことを話さなきゃいけないんだ」
言葉にした瞬間、胸が痛くなった。けれど、もう逃げるわけにはいかなかった。
「……分かったわ。連絡しておくわね」
「ありがとう」
電話を切り、僕は窓辺に立った。朝日が優しく街を照らし始めていた。あの廃病院も、どこかでこの光を浴びているのだろうか。
鈴ちゃんが最期を迎えたあの場所も。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、僕は小さく呟いた。
「今度こそ……君を守るよ、鈴ちゃん……僕にしかできないやり方で……」
それは、過去への償いであり、鈴ちゃんへの誓いだった。