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第100話 最終章・空白の少女

 緋崎さんと別れ、編集部のビルを出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。二月後半だと言うのに、まだ冬の名残りが感じられる夕暮れだった。


 空を見上げると、紺碧の色彩がゆっくりと闇に飲み込まれていく。調べた内容が頭の中を駆け巡り、何かを掴みかけていたその時、ポケットの中で携帯が鳴った。


 画面に表示された名前を見て、一瞬だけ指が止まる。


 小夏ちゃん——。


 以前、喫茶店で話した時に番号を交換したことを思い出す。その場では何げなく交わしたものが、今となっては深い意味を持ち始めている。手のひらに汗が滲んだのを感じながら、僕は通話ボタンを押した。


「何か分かりました~? 先輩」


 いつもの軽やかな声のようで、どこか違う。その明るい声の裏側に流れる冷たい感情を、僕は感じ取っていた。


 人通りの多い大通りの雑踏の中、僕は建物の軒先に身を寄せ、周囲の騒音を遮るように片手で耳を覆った。


「……うん」


 小夏ちゃんの沈黙が、受話器越しに響いた。その間、ひときわ強く吹いた風が僕の髪を揺らす。まるで彼女が考え込んでいるかのような間があり、その後、彼女の声は明らかに試すような調子を帯びていた。


「今から西ケ丘廃病院にきてくれませんか……?」


 その言葉に、僕の呼吸が一瞬だけ止まった。


 ——西ケ丘廃病院。


 編集部で調べた記事に書かれていた、あの場所。鈴ちゃんが最期を迎えたという場所に、今から……。


 一瞬、時間がゆっくりと流れるように感じた。


 だが、考える間もなく、言葉が自然と口から漏れた。


「……わかった。すぐ行くよ」


 そこに迷いはなかった。もう逃げることはできない。


 そう返すと、小夏ちゃんは「じゃあ、そこで待ってます」と言って、あっさりと電話を切った。彼女の声に浮かんでいた微かな満足感に、僕は不安を覚えながらも、急いで大通りへと歩を進めた。


 タクシーを見つけるのに少し時間がかかった。やっと空車を見つけて手を上げると、幸いにも停まってくれた。


 「西ケ丘病院跡の方へお願いします」


 運転手が少し怪訝な顔をしたのは気のせいだろうか。この時間帯に西ケ丘という郊外へ向かう客は珍しいのかもしれない。


 後部座席に深く沈み込むと、胸の内に広がる不安と緊張を静めようと、僕は何度も深呼吸を繰り返した。





 タクシーの窓から見える景色が、徐々に変わっていく。


 ビルの立ち並ぶ都会の喧騒から、整然と並ぶ住宅街へ。やがて、それすらも疎らになり、わずかに荒れた草木と寂れた商店が目に入り始めた。街灯も間隔が広くなり、闇の圧力が強まっていく。


 僕は窓の外をぼんやりと眺めながら、小夏ちゃんとのこれまでの会話を思い出していた。


 小夏ちゃんが初めて僕に近づいてきた日。後輩を装ったあの笑顔と振る舞い。そして、徐々に見せるようになった本音らしきもの。彼女の言葉、表情の端々に隠されていた意味——それらが今、急速に繋がり始めている。


 雅と葵が小夏ちゃんへの不信感を示していたことも、伍代との関わりも、全てがこれに繋がっていたのか。


 でも、なぜ今、廃病院なのか。彼女は何を見せようとしているのか。


 ふと、脳裏に不吉な言葉が浮かぶ。


 「鈴ちゃんが、本当にそこで……?」


 僕は知らず知らずのうちに拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を入れていた。その痛みさえも遠くに感じるほど、心は宙を彷徨っていた。


 あの日、鈴ちゃんが泥だらけの姿で現れた時の表情が、まるで写真のように鮮明に蘇ってくる。彼女の虚ろな瞳。震える唇。ボロボロになった制服――。


 「お客さん、西ケ丘病院跡に着きましたよ」


 運転手の声に我に返ると、タクシーはすでに止まっていた。窓の外には街灯に照らされた公園の入り口が見える。薄暗く、人気のない場所だった。


 「ありがとうございます」


 緊張した声で礼を言い、料金を支払って降りた。


 冷たい夜風が頬を強く撫で、耳元で音を立てる。肌に刺さるような冷気に身震いしながら、辺りを見回した。


 少し高台になったところに、廃病院の暗いシルエットが浮かび上がっていた。巨大な獣が闇の中で眠っているかのような、不気味な存在感を放っている。それを見上げただけで、喉が渇くのを感じた。





 病院を目指し歩き進むと、やがて大きな鉄の門が見えてきた。


 廃病院の正門は、予想以上に厳重に閉鎖されている。錆びついた鉄柵には茶色い染みが無数についており、その奥には雑草が人の背丈ほどに生い茂っていた。重い鎖と南京錠が何重にもかけられ、「立入禁止」「危険」といった看板が複数設置されていた。


 僕が門の前で足を止め、上を見上げていると、ふと闇の中から人影が現れた。


 小夏ちゃん——。


 彼女は正門の前で静かに立っていた。ツインテールの髪が風にわずかに揺れるのが見えた。学校の制服ではなく、黒いコートを羽織り、首にはマフラーを巻いている。月明かりに照らされた彼女の姿は、まるで闇に溶け込むかのようで、どこか非現実的な印象を与えた。


 「やっと来たんですね」


 小夏ちゃんの声は、思ったより冷たく、尖っていた。いつもの軽やかさはどこにもなく、まるで別人のような響きを持っていた。


 「ごめん、すぐに来たつもりだったんだけど……」


 僕も少し警戒するように答えた。小夏ちゃんがこれほど素の姿を見せるのは初めてだった。


 彼女は僕をじっと見つめ、そして無言で顔を横に振った。


 「付いてきてください」


 そう言うと、正門から離れて進み始めた。僕は息を深く吸い込み、不安を抱えながらもその後に続いた。






 正門から離れて数十メートル歩いた辺りで、小夏ちゃんが足を止めた。


 薄暗い場所だったが、よく見るとフェンスの一部に人為的に開けられたような穴があった。鉄柵を切断した跡が生々しく、人一人がようやく通れるくらいの隙間があった。


 「ここから入ります」


 小夏ちゃんはそう言って、ためらいなくしゃがみ込み、その穴をくぐり抜けた。細身の彼女は難なく通り過ぎ、あっという間にフェンスの向こう側へ消えた。


 僕も同じようにしゃがみ込み、穴をくぐろうとした。だが、肩幅の問題なのか、彼女ほど器用ではなく、シャツの袖がフェンスの尖った部分に引っかかってしまう。


 「くっ……」


 慎重に外そうとしても、ギシギシと金属が軋むような音が鳴り続け、焦りが込み上げてきた。暗がりの中でこんなところに引っかかるなんて。


 「先輩、相変わらず運動音痴ですね」


 小夏ちゃんの皮肉めいた声が、闇の中から聞こえてきた。少し楽しんでいるような、以前の会話で見せていた軽やかさを取り戻したかのような口調に、僕は無言のままようやく体を引きずり出した。


 「……行こう」


 僕はそのからかいには応えず、服の裾を払いながら先に進むよう促した。本当に彼女は何がしたいのか、まだ掴めないでいる。だが、この場所にいるという事実だけでも、僕の気持ちは複雑に揺れていた。






 病院内部に近づくにつれ、荒廃の度合いが目に見えて増していった。


 かつて白く輝いていたであろう壁は、無数のグラフィティで覆われ、窓ガラスのほとんどは割れたままで、夜風が建物の内部を自由に行き来していた。


 建物の入り口には「危険」「進入禁止」の文字が大きく書かれた黄色いテープが張られていたが、すでに誰かによって引き剥がされており、わずかに揺れるだけだった。


 小夏ちゃんがその前で一瞬だけ立ち止まり、僕を振り返った。その目には、「まだ引き返せるよ」とでも言っているような挑戦的な光が宿っていた。


 僕はそれには答えず、彼女の背中をただ見つめた。小夏ちゃんはふっと表情を消し、暗い入り口へと足を踏み入れた。


 深い暗闇が口を開けるような入り口。僕は一瞬ためらった後、彼女の後を追った。


 足を踏み入れた瞬間、病院内のあらゆる音が増幅されたように感じた。


 廊下の床にはガラスの破片や崩れた天井の欠片が散乱し、一歩踏み出すたびに軋むような音が反響する。所々剥がれ落ちた壁紙は湿気を含み、かつての白い色は黄ばんで今にも崩れそうだった。


 生命の救済を行なってきたはずの場所が、今はまるで命を奪うかのような不吉な存在になっている。その落差に、僕はぞくりと背筋を震わせた。


 「こっちです」


 小夏ちゃんの低い声が、暗闇に響いた。彼女は迷うことなく階段を上り、歩を進め、まるでこの場所の地図を頭に入れているかのように的確に曲がり角を選んでいく。この場所に見覚えがあるのだと思うと、さらに胸が締め付けられた。


 月明かりが割れた窓から差し込み、影と光のコントラストが床に不気味な模様を描き出していた。一瞬、誰かの人影が見えたような気がして、僕は思わず振り返った。しかし、そこには何もなかった。


 「何を見てるんですか?」


 小夏ちゃんの声に、はっとして我に返る。


 「……いや、なんでもない」


 僕は首を横に振り、彼女の後を追った。足元に転がった古い診察券を偶然見つけ、一瞬ひるむ。長い年月に風化し、名前はもう読めなかったが、かつてここで治療を受けた誰かの痕跡。命が行き交った場所だったはずなのに、今は廃墟と化している。


 その残酷さに、僕は息を呑んだ。


 「この上です……」


 小夏ちゃんの声が再び暗闇に響いた。前方に薄暗い階段が伸びており、その先の扉は半開きになっていた。古びた非常灯が月明りを反射し、階段を不気味に照らしているように見える。


 「屋上……なんだね」


 声に出ることもなく、ほとんど呟きのように言った僕の言葉に、小夏ちゃんが一瞬振り返った。暗くて表情はよく見えなかったが、彼女の瞳にほんの一瞬、痛みのようなものが宿ったように感じた。


 「さあ、行きましょう」


 小夏ちゃんが静かに言い、階段を上り始めた。僕はそれに続き、一段ずつ重たい足取りで上っていった。階段を登るにつれて、「ここで鈴ちゃんも同じように階段を上ったのか」という思いが胸を締め付けた。


 最後にどんな思いを抱えてこの階段を上っていったのか。それを想像するだけで、胸が苦しくなる。


 「もうすぐです」


 小夏ちゃんの声に、再び現実に引き戻される。階段を上りきると、重い金属製の扉があった。少しだけ開いている隙間から、冷たい夜風が吹き込んできている。


 小夏ちゃんはその扉に手をかけ、僕の方を振り返った。


 「覚悟はいいですか?」


 何の覚悟なのか、僕には分からなかった。でも、もう引き返すつもりはなかった。


 「うん……」


 短く答えると、小夏ちゃんは扉を押し開いた。金属が軋む音と共に、夜の冷気が一気に二人を包み込んだ。






 屋上への扉を開けた瞬間、予想外の開放感が広がっていた。


 夜空が、満天の星明かりを纏い、果てしなく広がっていた。はるか遠くには都会の灯りが煌めき、その光の海は地平線まで続いているように見えた。高い場所からの夜景は、異様なほど美しく感じられた。


 だが、僕の視線を釘付けにしたのは、屋上の一角に設けられた小さな祭壇だった。


 水の入った小さな瓶、お菓子や果物などの供え物が、丁寧に並べられていた。また、数本の線香の燃え残りや、枯れかけた花束も置かれており、誰かに定期的に手入れされている形跡があった。


 小夏ちゃんはその祭壇に歩み寄り、音もなくしゃがみ込むと、肩から下げたバッグから新しい花を取り出して、そっと供えた。彼女の仕草は丁寧で、まるで大切な儀式のようだった。


 僕はしばらくその様子を見守った後、ためらいながらも近づき、口を開いた。


 「お姉ちゃんは……そこで……?」


 小夏ちゃんの肩がわずかに震えた。彼女はゆっくりと花に手を添え、何かを押さえこむように深く息を吸い込んだ。


 しかし、すぐに表情を整え、何事もなかったかのように振り向いた。


 「私が妹だって調べたんですね……」


 彼女はフェンスの端をそっと撫で、続けた。


 「はい……お姉ちゃんはここから飛び降りたそうです……」


 その言葉に、込められた感情があまりにも平坦で、むしろそれが不自然に聞こえた。しかし、小夏ちゃんの指先のわずかな震えが、彼女の本当の気持ちを物語っていた。


 「………」


 言葉に詰まる僕を見つめ、小夏ちゃんはわずかに首を傾げた。


 「何か言いたい事があるんじゃないですか?」


 小夏ちゃんの問いに、僕は深呼吸をして、編集部で調べたことを伝えることにした。


 「記事には、鈴ちゃんが妊娠していたこと、それを苦に自殺したと書かれていた。警察も事件性はないと断定していた」


 「そして、遺族——つまり君たち家族は離散して、君は母方に引き取られたって」


 その言葉を聞いた小夏ちゃんは、一瞬目を伏せた。夜風が彼女の髪を揺らし、弱々しい月明かりが彼女の頬をかすめる。


 そして、静かに問いかけてきた。


 「はじめ先輩も、姉は自殺……そう思いますか?」


 僕はその問いかけを受け、ゆっくりと首を横に振った。


 「僕の知ってる鈴ちゃんは、絶対にそんなことはしない……」


 言葉を選びながら、僕は続けた。鈴ちゃんの思い出が、まるで昨日のことのように鮮明に甦ってくる。


 「彼女は決して大切な命を手放すような子じゃなかった……どこまでも優しくて、小さな命でさえも大事にしていた子だった……」


 すると、小夏ちゃんがゆらりと立ち上がり、遠くの夜景を見つめながら呟いた。


 「へぇ~……先輩の癖によく分かってるじゃないですか……」


 その口調に込められた皮肉が、僕の胸を刺した。


 小夏ちゃんは、静かに供えられた花を撫でながら続けた。


 「姉はとても優しい人でしたよ……幼いころから病弱で、入退院を繰り返していた私のお見舞いにも、よく来てくれました……私のために絵本を読んでくれたり、私が寂しくないよう、休みの日には一日中側にいてくれました……」


 彼女の声が、徐々に軽やかな後輩の仮面を脱ぎ始め、素の感情を乗せ始めていた。


 「そんな……!」


 その言葉を口にすると、小夏ちゃんの表情が一変した。微笑んでいた彼女の顔から一切の笑みが消え、眼光が鋭くなり、まるで別人のような冷気を放った。


 そして、突然、彼女の目が僕を鋭く射抜いた。


 「そんな優しい姉を……お前は——!」


 小夏ちゃんが一気に僕に詰め寄り、両手で襟首を掴んだ。その表情からは、もはやいつもの愛嬌ある後輩の面影は消え失せ、代わりに憎しみと悲しみが渦を巻いていた。彼女の目にはうっすらと涙が光っていた。


 「お前は裏切ったんだ!!」


 息ができないほど、襟を引き締められていた。だが、その言葉が喉の締め付けよりも僕にとっては苦しかった。その瞬間、彼女の呼び方が「先輩」から「お前」へと変わったことにも、はっとした。


 「僕が……裏切った?」


 小夏ちゃんが徐々に息を整え、小さく笑う。それは、嘲りの笑みというよりも、深い悲しみを帯びた表情だった。


 「……あの時何があったのか、教えてあげますよ……先輩」


 そういって、彼女は両手を離した。襟を掴まれた場所がまだ痛み、僕は苦しげに咳き込みながらも、問いかけずにはいられなかった。


 「あの時……? 」


 小夏ちゃんは数秒間、僕をじっと見つめていた。その目には、恨みだけでなく、悲しみや怒り、そして何か諦めのようなものさえも混ざり合っていた。


 そして、静かに頷くと、夜の風を受けながら、ゆっくりと語り始めた。


 「あの日、久々に退院できた私は、幼馴染の早苗と一緒に外に遊びに行きました」


 そのその声は静かな夜風にかき消されそうになりながらも、確かに僕の耳に届いた。


 「暑くて、公園の木陰で二人で休んでいた時でした……急に、見知らぬ男の子が現れたんです」


 小夏ちゃんの瞳が遠くを見据えるように、過去の記憶を辿っていた。その声は少しずつ、絞り出すように変わっていく。


 「小学校高学年くらいの男の子でした……その子は手にナイフを持っていて、そのナイフを私たちに見せつけながらこう言ったんです、ついてこいって」


 僕は、寒気を感じながら小夏ちゃんの言葉に聞き入った。彼女の表情がわずかに歪み、手首を無意識に撫でるような仕草をしていた。


 「私と早苗は怖くて、逃げようとしました。でも、その子はナイフでこうして、」小夏ちゃんは腕を伸ばすような仕草をする、「私のワンピースを切り裂いて……」


 一瞬、言葉を詰まらせた小夏ちゃん。その瞳には、昔の恐怖が再び蘇ったかのような影が浮かんでいた。


 「人気のないところへ連れ込まれそうになった時、姉の……鈴の泣き叫ぶような声が聞こえたんです」


 僕の心臓が早鐘を打ち始めた。手のひらに汗が滲み、口内が乾いていく。


 「そして、鈴は……」


 小夏ちゃんの言葉が途切れた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。


 「……鈴ちゃんが?」


 小夏ちゃんは、夜の風に髪をなびかせながら、静かに続けた。


 「突然現れた彼女は、その男の子に体当たりをして、私たちに向かって叫んだんです——『逃げて!』って。」


 その言葉を口にするだけで、小夏ちゃんの声がかすかに震えていた。彼女は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わず、続けた。


 「私と早苗は、無我夢中でその場から逃げ出しました……でも——」


 小夏ちゃんの声が、一気に弱々しくなった。


 「私は途中で発作を起こして倒れてしまったんです……」


 その言葉を聞いて、僕の胸がぎゅっと締め付けられた。


 「早苗が必死に助けを呼んでくれました。大人たちが駆けつけて、救急車が来て……私は病院に運ばれました。目が覚めたのは二日後でした……」


 「……鈴ちゃんは?」


 僕が震える声で尋ねると、小夏ちゃんはしばらく言葉を失っていた。空を見上げ、月を直視するような仕草をしてから、ようやく口を開いた。


 「ボロボロになって……倒れていたそうです。でも、姉は生きていました」


 それを聞いて、僕は小さく目を見開いた。ほっとするような、でもどこか不安を感じるような複雑な感情が湧き上がってきた。


 小夏ちゃんは、まるで遠い過去を思い出すように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。


 「私はすぐ姉に会いに行きました。病室のドアを開けると、姉は私の顔を見るなり、泣きそうな顔をして……『よかった』って……」


 それを聞いて、僕の胸に痛みが走った。まるで自分がその場にいるかのように、鈴ちゃんの表情が目に浮かんでくる。


 「けれど……私を心配する姉の目は、泣きはらしたかのように真っ赤になっていました。体中に包帯を巻かれて、普段の元気な姿からは想像もできないほど、弱々しかった……」


 小夏ちゃんの声が震え、一瞬言葉が詰まった。その沈黙の中にある痛みを、僕は手に取るように感じた。


 「私は姉に聞きました。何があったの? って」


 「でも、姉は何も言いませんでした……ただ、『もう大丈夫』って、笑ったんです。いつものように明るく振る舞おうとする姿に、私は胸が引き裂かれそうでした」


 「それでも、私は気づいてしまったんです。姉が何かを必死に隠していることに……」


 「そして後になって、私は警察の人たちが話していたのを聞いたんです……」


 小夏ちゃんの視線が、一瞬、夜空から僕の顔へと移った。その目には、言いようのない憎しみが宿っていた。


 「——姉は、あの日、男の子に乱暴された、と。」


 その言葉が落ちた瞬間、僕の全身に寒気が走った。


 喉が凍りついたように、何も言葉が出なかった。あの日、鈴ちゃんの姿を見た時の違和感がようやく繋がり始めた。彼女の服が乱れていたこと、顔色が青ざめていたこと、そして何より、あの虚ろな瞳の意味が。


 それを考えただけで、吐き気がこみ上げてきた。


 小夏ちゃんは、拳を強く握りながら続けた。


 「でも、それ以上に姉の心を壊したのは……あなた達です、先輩。」


 「——いいや、相沢啓!!」


 名前を呼ばれ、僕はびくりと肩を震わせた。


 小夏ちゃんの目が鋭く僕を射抜く。


 「時間が立って姉からすべてを聞きましたよ……姉はあの時、死に物狂いでその場から逃げたそうです。そして——目の前に見知った顔を見つけた。」


 「——あなた達、三人の顔を」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏にあの日の記憶が蘇った。


 ボロボロの服、泥まみれの手、震える唇。


 葵が言った「服が汚れちゃってるよ」という言葉、雅の「どうしてそんなに汚れているの?」という問いかけ。


 そして、僕が言った「可哀そうに」という言葉——。


 「……違う。そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃなかったんだ……」


 小夏ちゃんは、睨みつけるように僕を見つめた。


 「引っ越した後も、姉は——三人に言われた言葉が、いつも耳から離れないって言っていましたよ。自分は汚れていて、可哀そうな子なんだって、助けに入ったのに、こんな目に遭って、そして何より親友だと思っていた子たちにさえ……」


 僕は崩れるように膝をついた。


 ずっと封じ込めていた記憶が——否応なしに呼び起こされていく。


 あの時の僕らは、ただ心配していただけだった。でも、鈴ちゃんの心はその言葉に引き裂かれたのだ。何の考えもなく口にした一言が、彼女をどれほど傷つけたのか。


 小夏ちゃんは、蔑むような目で言い放つ。


 「姉は転校した学校にもほとんど行かず、いつも部屋に引きこもっていました……どうにか元気づけてあげたかった私は、姉が大好きだった貴方に会えれば、前みたいに元気になるんじゃないかって思ったんです。だから会いに行きました。姉がいつも楽しそうに話していたあなたたちの思い出を頼りに……そして見つけたんです。昔と変わらず仲良く遊ぶあなたたちの姿を……そして、聞いてしまったんですよ……あの約束をね」


 約束。その言葉に、思わず顔を上げる。


 「私を物語の主人公に、でしたっけ……?いいですね、感動的ですね!でも――」


 一気に僕の顔に自分の顔を近づけ、冷酷に小夏ちゃんが言った。


 「その約束に、姉の居場所はあったんでしょうか……?」


 小夏ちゃんの声は、ただの怒りではなく、悔しさと哀しみを滲ませていた。


 「本当は姉も……鈴もそこにいるはずだったのに……」


 まるで呟くように言うと、小夏ちゃんは、ぐっと拳を握りしめた。


 その問いに、僕は何も答えられなかった。


 小夏ちゃんの口元が苦々しく歪む。


 沈黙が流れる。僕は何も言えなかった。ただ、自分の中の罪悪感と、過去の記憶の断片が混ざり合い、息が詰まるような感覚に襲われる。


 小夏ちゃんは、そんな僕の様子をじっと見つめた後、静かに言葉を紡いだ。


 「……姉の死後、私は真相を知るために必死に手掛かりを探しました。そして、偶然見つけたんです」


 彼女の声には痛々しいほどの怒りと哀しみが混じり合っていた。


 「中学時代の先輩が図書室で書き続けていた小説を」


 その言葉に、僕は顔を上げた。思い出せる——中学時代、放課後に街の図書室で『二人と一人』の原型となる小説を書いていたことを。だが、小夏ちゃんがそれを知っていたということに、僕は言葉を失った。


 小夏ちゃんは、嘲りを含んだ冷たい目で続けた。


 「淡い期待を抱いてしまいましたよ……もしかして、先輩は姉のことを、もう一度想ってくれているんじゃないかって……。だから、何度か先輩がいない間に、こっそり覗かせてもらいました」


 そう言って小夏ちゃんは、乾いた笑みを零す。その表情には、諦めと、かすかな期待が滲んでいた。


 「でも……」


 一瞬、言葉を詰まらせる。そして、小夏ちゃんは、静かに、けれど確実に続けた。


 「あなたが大切にしている物語、幼馴染との絆を描いたその小説に、姉の名前は一度も出てこなかった……」


 その言葉が、僕の心を引き裂くように突き刺さった。


 僕が書いていた小説『二人と一人』——雅と葵が主人公の物語だった。そこに鈴ちゃんの姿はない。僕は無意識のうちに、彼女を忘れようとしていたのだろうか。それとも、向き合う勇気がなかったのだろうか……。


 西ケ丘廃病院の屋上で、満天の星空の下、僕はただ呆然と膝をついたまま、小夏ちゃんの冷たい視線を浴び続けていた。


 夜風が肌を刺すほど冷たい。けれど、それ以上に胸の奥が痛かった。


 小夏ちゃんは静かに、しかし確実に言葉を紡ぐ。


 「あなたの書いた物語は、世間が思うより、ずっと罪深いですよ。だって……あなたの物語の中で、姉は最初から、存在しなかったことになっていたんですから」


 その声には、怒りも嘲りも混じっていた。でも、その奥にあるのは、紛れもない絶望だった。


 僕は声を出せなかった。ただ、夜空の星が、どこまでも遠く感じられた。

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