煉獄の入り口 ーようこそ、紅葉館へー(罰 を改題)
わたしと杉下美香は出張先での外回り仕事を終え、予約したビジネスホテルを探していた。
今日は一日、異様に湿気が高かった。
肌に張り付いた汗のせいか、体内に蓄積された熱は、多少、気温が下がったくらいでは放散されない。
「次長、ほんっとにこの場所で合ってます?」
同じ質問を繰り返すのは目上に対する失礼だ。こっちだって早くエアコンの冷気に当たってシャワーを浴びたい。
「合ってなきゃ二回も同じところ回んないだろ」
わたしの声に怒気を感じたのか杉下は黙り、沈黙は一秒ごとに重さを増した。
いけない、こういうときこそ感情をコントロールしなくては。
わたしは努めて優しい声を作り、言った。
「だいじょうぶだって。さっきの交差点が神栖四丁目だろ。で、まひるの公園の前を通ってここだから……、間違いないんだけどなぁ」
正直、わたしは傷ついていた。
ただ、それを悟られたくない。なぜって。
東京二区はわたしの古巣だからだ。だから迷子なんて醜態以外のなにものでもないし、それ以前に、杉下の前で地図を見ること自体が、わたしにとっては恥辱だ。
「次長、さっきの橋のとこに交番ありましたよ」
わたしはそのひとことに、思わず「だから!」と声を荒げてしまい、すぐに「だいじょぶだから」と優しい声で中和した。
杉下は軽くため息をついておとなしくなった。
杉下はひと回りも年の離れた部下で、来週から、ひとりで、この東京二区を担当する。
わたしもそうなのだが、今回の異動はあまりに急だったのでアパートが決まっていない。しばらくは、こうした出張での営業が続くだろう。
東京二区は、ようやく一発でネクタイの結び目が決まるようになったころのわたしが初めて営業を学んだ地区で……要するに、古巣だ。
とはいっても茂木に引き継いだあとはすぐに転勤してしまったから、この地区に仕事で足を踏み入れるのは実に二十三年ぶり、ということになる。
今度は営業担当ではない。
名刺の肩書は次長だが、社内ではエリア統括と呼ばれることになる。これは、部長への試金石とされるポストだ。
そのことを意識してからのわたしは、日常の些細な決断でさえ自問を繰り返して迷ってしまうし、部下には、常に完全な自分を見せようと無理をしてしまう。その結果、気が抜けない。そんななかでの出張は、息抜きにもなるし、正直、楽しみにしていたのだが……。
前任者から杉下への引き継ぎは先週までに完了し、詳細な報告書も提出されている。それを読む限り、あらためてエリア統括が出張る必要もないように思えるのだが、杉下は、引き継ぎのチェックを兼ねて、統括として改めて表敬して欲しい、と同行を要請してきた。
口実だ、と思った。
本当は、何かあったときに重石として利かせようという魂胆に違いない。
それでいい。
使えるものは何でも使う。
この業界で生きていくには、そのくらいの周到さが必要だ。わたしだってこの地位に辿りつくには、きれいごとだけでは済まなかった。騙したり罠にかけたのは競合相手だけじゃない。社内のライバルだって容赦しなかった。
もし、死んで裁きを受けるというなら罰でも何でも受けてやる。第一そんなことをいちいち気にしていたら、この年齢で今の地位はない。競争社会を生き抜くのに必要なのは、清濁併せ呑むの精神だ。それが処世というものではないか。
いつの間にか、頭のなかは言い訳でいっぱいになっていた。
頭を振って過去を追い払い、今日の仕事を振り返る。
杉下美香と懐かしい得意先を回っていると、何度か「望月さんなに、そちら娘さん?」などとからかわれた。そうすると、実際の年齢より若く見られた杉下の表情は、嬉しいのかくやしいのか目まぐるしく変わり、溌剌と輝いた。必要とあらば、むっとした表情で睨み返すことさえあった。
これなら大丈夫だ。癖のある得意先を前に素を出す図太さがあるのだ。きっと激戦の二区でもやっていける。如才ない営業ぶりを思い出していたら、それまで胸を覆っていた漠とした不安が、すうっと晴れていくのを感じた。
今夜は馴染みの天ぷら屋で稚鮎でも奢ってやろう。そこで、担当先の社長の趣味のことなり営業の心得なりをレクチャーできれば一石二鳥、とついさっきまでは余裕の計画を考えていたのだが……。現実は、ずっと、ホテルの案内図と通りを見比べている。
情けない。
しかし、今は落ち込んでいる場合ではない。
落ち着け。
なにしろ二十三年振りなのだ。通りは今でも頭に入っているが、建物も雰囲気も様変わりしている。
かつて古い旅館があり、小料理屋と立ち飲み屋、スナックが軒を連ねていたこの通りの両側には、今では無味乾燥な雑居ビルが立ち並び、店といえば弁当屋くらいしかない。このままでは、晩飯は、稚鮎の天ぷらどころか、のり弁になりかねない。
杉下が焦れ始めたわたしの心を見通したのか、恐る恐るといった感じで「次長、住所ってわかります?」と聞いてきた。
「当たり前だろ」
わたしは古川先輩から渡されたビジネスホテルの案内図を渡した。ところ番地も入っている。
古川先輩から紹介されたのは、ビジネスホテル紅葉館。
かなり安いらしく、わたしたちの出張が決まったと聞くと「定年の置きみやげにお前らに引き次いでやる」と言って案内図を渡された。
「そんなに安いんなら皆に教えてあげればいいじゃないですか」と言うと、古川先輩は「そんなことして、経理に宿泊手当下げられたらいやだろ? だからずっと、ひとりで使ってきたのよ」
そう言って勿体をつけた。
東京出張の宿泊手当は、平も管理職も八千円と決まっている。それより安ければ差額は小遣いにしていいが、出た足は自腹、という決まりだった。
神栖町は営業エリアの中央にあり、JRや地下鉄の要衝でもある。ここに八千円で宿が取れるなら、それだけでも格安といっていい。しかし古川先輩によると、経理に目を付けられるような金額だという。だとすると、八千円を大きく下回るのかもしれない。まだたいした給料を取っていない杉下の懐を考えれば、今回、予約しない選択肢はなかった。
「マップナビ、役にたたないだろ。俺もさっきやったんだけど、利かないんだよな」
見上げれば、首都高の藤岡ジャンクションが空を覆い、曲がりくねった高架から一般道に降りてくる車列のほとんどは、もう、ヘッドライトを点けている。
林立するビルと、狭い空間に過密する首都高。
GPSの電波は、きっと、これで遮られるのだ。
「たぶん、これ知ってて古川さん、案内図プリントしてくれたんだろう」
「東京のどまんなかで信じらんないすね」
杉下はあきらめてスマホの画面を消し、首を傾げて、もういちど、案内図に取り組んだ。
わたしも改めて辺りを見回した。
すっかり変わった町並みも、ところどころに昔の名残がある。
通りの名前を示す石の道標。
まひるの公園のブランコの脇にある柳。
掘り割りの境界にある木々と、雑草が絡みついた低いフェンス。ここには昔ベンチがあって、よく休憩に使った。問屋の若旦那衆が煙草を吸いにくるのもここで、顔見知りと一緒になると、よく缶コーヒーを奢りあったものだ。
二十三年前は、この辺りの掘り割りもまだ水量が多く、一日中、小さな作業船が行き交っていた。その甲板で、年老いた作業員がくわえ煙草で休憩をとっているようすが、今でも目に浮かぶ。
岸には屋形船が係留されていることもあって、そんな船の周りには魚が集まるのか、釣り糸を垂らす人の姿もあった。
それが今はどうだ。
堀の水はすっかり澱み、悪臭こそないが、切れかかった蛍光灯の瞬きを映す黒い水面は、まるでタールのようだ。
これでは、ここで憩うなど、考えも及ばない。
思い出を汚されたような感覚に気持ちが暗くなるのと同時に、足下から蒸し暑さがせり上がってきた。
じっとりと背中に張り付いたシャツの感触が疲れを増幅する。
「あ!」
「どうした」
「あそこ」
杉下が指さした先は工事現場だった。日の入りで工事を終えたらしい現場は赤く光るパイロンで囲われていた。
その向こうは、やはり新しい雑居ビル。
いや、違う。手入れはされているがかなり古い。
目を凝らして見ていると、入り口の大きなガラス戸に金色の文字が浮かび上がり、さらに目が慣れてくると、毛書体でホテル紅葉館と書いてあるのが分かった。
「あれじゃ見つかんないわけですよぉ」
杉下は、早くもビルに向かって歩き始めていた。
このビル……。以前はなんだったろうか。
わたしは記憶を遡った。
老舗の証券会社があったような気がする……、いや、自信はない。あの、威厳たっぷりの金文字が記憶を誘導してしまうのかもしれない。
わたしは杉下のあとを追った。
先に着いた杉下が、ホテルには似つかわしくない重厚なガラス戸を、身体を預けて押し、わたしも続いて身を滑り込ませた。
ふたりがなかに入ると、背後で、ガラス戸がゆっくりと閉まった。すると通りの騒音は突として消え、ふたりは完璧な静寂に包まれた。
フロントはなく、代わりに会社の受付のようなデスクがあった。それも無人だ。
吹き抜けの高い天井からぶら下がった電灯が、まっすぐにデスクの内線電話を照らしていた。
受話器を取り上げようとする杉下を「あ、俺が話す」と制して、わたしは受話器を取った。
「あの、予約の望月です。杉下と、二名でまいっております」
思わず営業訪問の口調になるのは、この場所の雰囲気がホテルとかけ離れているからだ。
「お待ちしておりました。どうぞ横の階段を降りていただいて、突き当たりを右に折れましたら、そのままお進みください。そちらがフロントになっております」
電話の声は細く、まるで国際電話のように遠かった。
「地下だってよ」
「はあ、でもこっから地下に潜ったら川にぶつかっちゃいそうですね」
「だなぁ」
たしかに杉下の言うとおりだ。このホテルはどういう構造になっているのだろうか。立面図がイメージできなかった。
案内に従って降りた階段の段数は、ワンフロアには足りないように感じたが、そこはもう、明らかに外気と異なる、心地よい冷気に満たされていた。土のような匂いがするが不快ではない。むしろ香ばしかった。
突き当たりのT字を右に折れると、たしかに、正面に広間があった。ぼおっとした暖かい色の光に包まれたそこは、蜃気楼のように浮かんで見えた。
近付いてみると、広間は、廊下より二十センチほど高くなっており、手前の、二メートルほどの板の間の先は、一面、唐草と花の模様の入った朱色の絨毯が敷き詰められていた。
広間のなかほどには、下に降りる螺旋階段の入り口があり、その傍らの丸い金魚鉢では、みごとなリュウキンが一匹、ゆらゆらと水草を揺らしていた。
右側の壁にはスリッパの入った靴箱。そして階段口の左の壁際には、革張りの柔らかそうなソファーがあって、浴衣に着替えた初老の男性がひとり、新聞を読んでいた。
「靴は、ここで脱ぐみたいですね」
「なんだか田舎の旅館みたいだな」
わたしがそう言うと、杉下は楽しそうに笑った。
銘々、靴箱に履き物を仕舞ってスリッパに履き替え、さてどうしたものかと思案していると、それまでどこにいたのか、和服姿の中年女性が表れた。
「いらっしゃいませ。望月様と、杉下様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。わたくし、お世話をさせていただきます鶴野と申します」
彼女はそう挨拶してゆっくりと頭を下げ、再び顔を上げると、言葉を続けた。
「ご逗留は、今回が初めてでいらっしゃいましたね」
この声は、さっき電話に出た女性だ。女将ということか。ビジネスホテルに女将とは、なんとも珍しい取り合わせだ。
「そうです。今日が初めてです。お世話になります」
杉下も呼応して、横でちょこんと頭を下げた。
「それにしても、探しましたよ」
「申しわけありません。わざとああしてあるんです。フリーのお客さんが入られないように」
女将は、その話題に触れられたくない、といった勢いで「すみません、先に宿帳の記入の方、お願いしてよろしいでしょうか」と傍らの書斎机を示した。
年月に燻された猫足の書斎机には、新しいページが開かれた大学ノートと筆立て、そして黒電話が乗っていた。電話は、おそらく装飾品だろう。
わたしに続いて杉下も宿帳の記入を終えると、女将は恭しく大学ノートを受け取り、改まった。
「それでは、当ホテルのシステムをご説明させていただきます。宿泊料金は、おひとりさま五千円でございます」
五千円……。
「またずいぶんと安いですね」
「ありがとうざいます。そのため、宣伝もなしで、紹介のあったお客様にだけにご奉仕させていただいております」
「すっごい、こんなすてきな雰囲気のホテルなのに」
受け答えの声の明るさだけでなく、顔全体を輝かせる杉下の表情には、相手が進んで話したくなる力が備わっている。この女将も杉下のマジックにかかったようだ。懐かしそうに語り始めた。
「このビルは、一度、空襲で半分ほど崩れ落ちたんですが、オーナーはそれを取り壊さずに、私財をなげうって修復されたんです。日本の復興に励む会社を助けるんだって。ずっと格安の家賃で貸してこられたんです。続けられたのが不思議なくらい……。でも、こんなに古くなりましたでしょう。とうとう借り手が付かなくなりまして。二十年前に、今度は、新しい日本を作り上げる営業マンに安らぎを提供するんだって、ビジネスホテルに改装したんです。あ、お嬢さんは営業マンじゃなくってセールスレディでいらっしゃいますよね。失礼しました。でも、驚くのは金額だけではございませんの。朝食はもちろんですが、お夕食も、宿泊費に含まれております」
「ええ?」
思わずふたりの声が揃った。
「夕食って」
「もちろん、お夕食ですからディナーのことですわ。ですが、さすがにお部屋で銘々に、というわけには参りません。大食堂にお越しいただいて、ブッフェ形式でご提供させていただきます」
「それも込みで五千円ですか?」
「はい、どんなに召し上がっていただいても、追加料金はいただきません」
杉下が隣で「はぁ」と感嘆の声をあげた。
「失礼ですが、それで、やっていけるんですか」
おそらくオーナーには莫大な資産があるに違いない。そう思ったのだが、女将は笑みを返しただけでそのことには触れず、説明を先に進めた。
「お風呂は、お部屋のシャワーを使っていただいてもけっこうですが、二階に上がっていただきますと、別料金で銭湯をご利用いただけます。お代は百円頂戴しております」
そこまで言うと、女将は少しだけ声を潜め、「やっぱりお湯代のやりとりをいたしませんと銭湯の雰囲気が出ませんでしょう」。そう言って笑った。
「いや、これは驚いたな。安いとは聞いてたんですが……。なあ、杉下」
「はい。しばらくは出張が多くなると思いますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます」
システムの説明が終わったところで、館内にトロイメライのオルゴールが流れた。
「あらいけない、もうこんなお時間。お客様方、もうじきお夕食の時間になりますので、銭湯はあとになさって、とりあえず、シャワーを浴びてこられたらいかがでしょう。大食堂へは、お部屋の浴衣をお召しになっていらしてください。他の皆さまも、そうされています」
腕時計を見ると、七時五分前だった。
先ほど新聞を広げていた男性は、いつの間にかいなくなっている。
部屋のキーに添えられたカードによると、夕食は七時スタートだが、オーダーストップは九時のようなので、今からシャワーを浴びても充分に時間はありそうだ。
「じゃ杉下、そうさせてもらうか。いいか、それで」
「はいもちろん。浴衣で夕食なんて、なんか楽しそう」
怖いもの知らずの顔に、浴衣を躊躇するようすは微塵も感じられない。
「あ、そうそう、もうひとつご案内し忘れておりました。お夕食、お酒も飲み放題になっておりまして、焼酎は、麦、芋、米と取りそろえております。オーナー自慢の銘柄ですので、どうぞお楽しみくださいませ」
女将はわたしたちに深々と頭を下げると、楚々とした動作で、中央の螺旋階段を降りていった。
そのようすを見送ってから、時間のことを考えた。
「どうするか。三十分後の待ち合わせじゃ、いくらなんでも、早すぎるよな」と恐る恐るそう提案したのだが「時間もったいないじゃないですか次長。二十分後、その階段のところで、いいですか」、と逆に杉下から指示される形になった。
若い女性にして、二十分の間にシャワーを浴びて身支度まで済ませようとは、たくましいというか根っからの営業というか……、恐れ入る。
わたしたちは、エレベーターで四階に上がり、それぞれの部屋で荷を解いた。
五分遅れて待ち合わせの螺旋階段に来てみると、杉下は先にきて待っていた。
そして笑いながら、ブレスレット型の腕時計をとんとんと指で叩いて、こう言った。
「遅刻ですよ次長。五分を無駄にする人間の人生は死ぬまで五分遅れ、でしたよね」
新入社員研修でわたしが言ったことばだ。
「わるいわるい、どうしても返さなきゃいけないメールがあったんだよ」
「急ぎましょ。なんかいい匂いしてます」
いい匂いがしているのは杉下の方だった。
白紺の綿の浴衣を通して肌から立ち上る石鹸の香りが、しっとりと艶めかしい。
それに、薄化粧の頬は熱いシャワーのせいか薄らと朱を帯び、そこから、生身の女が透けて見えた。
「ねえ次長、あれって、さっきの川じゃないですか」
螺旋階段を降りながら、杉下は、壁の一角を指さした。
壁に大きなガラスが填められており、その向こうに地面が見えていた。
雑草と、投げ捨てられた空のペットボトル、煙草の吸い殻。風雨で腐りかけた漫画雑誌。まるで昆虫の目から見た光景だった。
よく見ると、草むらの向こうに黒い水が見えた。
たしかにそこは川。つまり掘り割りだった。
それにしても、庭園ならともかく、とても鑑賞に堪える景色ではない。むしろ人類の恥部のようなものだ。なぜ、これだけの施設を作りながらこんなものを見せるの………。
「昔はきれいだったっていうことなんですかね」
「ああ」と気のない返事をしたが、いくら二十年前とはいえ、これだけの設計能力のある建築士が先を見通せなかったとは、やはり考えにくかった。
「でも開けられる窓じゃなくてよかったですよね。開けたら臭ってきそう」
「そうだな」
答えの出そうにない疑問はとりあえず保留にして、わたしたちは、地下の大食堂に向かった。
近付くにつれ、宴会場特有の賑やかな声が大きくなった。
入口で立ち止まってなかを覗いてみると、無数の裸電球が目に入った。それも、屋台や露天商で見かけるような透明の球。それが、屋根裏を模したと思われる傾斜天井から不揃いの長さでぶら下がっている。
なかに入ってみると、その光源のせいだろうか。食堂というより、市場や縁日のような活気に包まれた。
壁と床は板張り。
壁は乾拭きを繰り返されて綺麗な木目が浮き上がり、床は丁寧にワックス掛けされていた。
華美な装飾はどこにも見あたらない。
しかし品がある。
文化財級の建造物か、さもなければ古い客船の広間のようで、ここに入ることを許されたことが、とても誇らしいことに思えた。
壁の片側一面は料理の屋台で埋め尽くされていた。
屋台は、大きさも形も不揃いで、それぞれが独立した店として仕事を競い合っていることがわかる。
店主の居住まいもそうだ。白衣の下にネクタイを締めている上品な店主もいれば、捻り鉢巻きで威勢のよい売り声をかける店主もいた。
食事の席は、十人が掛けられそうな丸テーブルが六台、互い違いの二列で並んでいた。
相席で適当なところに座って食事するスタイルのようだ。
宴はすでに始まっていた。
「ちょっと出遅れましたね」
「そうだな。席、あるかな」
「別々ってのもなんですしね」
「うん。まあ、ちょっと歩いてみるか。どっかあるだろ」
そう言って歩き始めると、女将の鶴野が「望月様」と声をかけてきた。
不思議な女将だ。
まるでどこかで見ているかのように、絶妙なタイミングで表れる。
「この時刻になりますと、だいたい埋まってしまいますの。今日は特別に、お席を確保しておきました」
「わぉ、さっすがぁ、ありがとうございます!」
杉下はすっかり旅行気分だ。
「先にお飲物をお取りください」という女将の薦めに従って、わたしたちは飲みものカウンターに寄って中ジョッキの生ビールを注文した。ビールに目のない杉下も、当然、同じものだ。
しっかりと冷やされたジョッキを手に女将に付いて行くと、なかほどの丸テーブルの一角に二席、銘々の名前が書かれたカードで席が確保されていた。
「ではどうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
女将はわたしたちの顔を順番に見て、丁寧なお辞儀をして去っていった。
わたしたちは先客の面々に「失礼します」と挨拶して席につき、汗をかいた中ジョッキを杉下に向けて軽く上げ、「おつかれ」と一日の労をねぎらった。
杉下が「おつかれさまでした」と応じると、なぜか相席の面々からも「おつかれさまです」と声がかかった。
皆こちらを向いてジョッキやグラスを掲げている。まるで乾杯の瞬間を待っていたようだった。
杉下は愛想よく、ひとりひとりにジョッキを掲げて挨拶すると、ごくごくと喉を波打たせてビールを飲み始めた。
遅れまいとわたしも続く。
よく冷えた芳醇な液体が、ホップ香をまき散らしながら体の奥に落ちていく。
一気に半分近くも空けた杉下が「おいっしい!」と笑顔をこぼすのに、わたしも「最高だな」と返した。夏の出張ならではの幸せだ。
一日の疲れが癒される同時に、空腹を覚えた。
わたしと杉下は別々に屋台を回ることにした。
屋台はどこも気取りがなく、料理の魅力が剥き出しだった。
穴子の店があった。
好物だ。
先客の肩越しに覗いてみると、ふっくらと煮上げたものと香ばしく焼き上げたものが用意されていた。注文すると軽く炙ってくれるようだ。穴子釜飯もあって食欲をそそられるが、他にも旨いものがありそうだ。
田楽の屋台では、定番の蒟蒻や大根のほかに、豆腐と茄子、そのほか、様々な地物の素材が並んでいた。どれもイカ墨かというような真っ黒な味噌が乗っている。彩りで添えられる山椒の葉の美しさにも心が惹かれた。噛めばきっと、うっとりするような森の匂いに包まれるはずだ。
列ができている屋台は、大鍋からもうもうと湯気が上がっていた。品書きは檜の板に桜鍋、と墨書されている。
大将は、注文ごとに薄切りの馬肉を出汁に潜らせ、煮えすぎない頃合いでよそってくれる。これでは列ができるわけだ。
隣の屋台には山賊焼きという看板が出ていた。
山賊焼きといえば、普通は鶏肉だが、ここで焼いているのは馬肉のようだ。串刺しされた一粒一粒は、焼き鳥と比べるとふた周りほど大きい。味は、焼き塩と、溜まり醤油が選べるようになっていた。まずは塩、と心に決めた。
わたしは、最初の屋台から順番に、煮穴子と、豆腐と里芋の田楽、そして馬肉の串焼きをいただいて席に戻った。
串焼きの皿には下ろしが添えられていた。馬肉といえば生姜が定番だが、色からすると山葵かもしれない。山葵もまた、江戸の風物だ。
まずは淡泊な穴子、と理性は命じる。しかしここまでお預けを食った胃袋が肉の誘惑に勝てず、わたしは馬肉の串焼きにかぶりついた。
焼き加減は絶妙なレアで、肉の味が濃厚だ。おそらく馬刺し用の肉を使っているのだろう。ただ柔らかいだけのと違って、噛むごとに味が染み出してくる。この赤身肉のおいしさはローストビーフとはまったく別種のものだ。合わせるなら赤ワインより麦焼酎がいい。
ふいに、同じテーブルのひとりが声をかけてきた。
「望月さん、ですよね」
はい、と答える。
席に予約カードが置いてあったのでそれを読んだのだろう。
「桜肉、お好きなんですね。実に、旨そうに召し上がる」
「いえ、そもそも今日が初めてですから。これも初めて食べました。失礼ですが、ご常連ですか」
「そうすねえ。もう、住み着いちゃっている感じかな」
手には土ものの器。焼酎だろう。
「あ、丸中っていいます。よろしくどうぞ」
「はあ、こちらこそ」
挨拶はしたものの、初対面では話題も思いつかない。わたしは料理の話を続けることにした。
「それはあの、桜鍋ですか」
「ああこれ。違うんです。桜鍋も人気があるんですがこれはね、牛鍋。開化軒さんのは、刺しの入ったのじゃなくって、ちょっと筋みたいなところをじっくりと煮込んであるの。あたしはこっちの方が好きですね。旨味がぜんぜん違う」
「ほお、桜鍋と牛鍋の両方があるんですか」
「ええ、どっちも食べた方がいいですよ。どうせ食べ放題なんですから」
そうだった。
これで五千円だ。いったい経営はどうなっているのだろうか。
「天ぷらは召し上がりましたか」
「いえまだ」
「今日はね、鮎が入ったみたいなんです」
「稚鮎ですか!」
思わず身を乗り出してしまった。
「はっは、望月さん、いま目が輝いた」
これは杉下に教えてやろう……、と辺りを見回してみたが、杉下は、テーブルに割り箸を残したまま、どこかに消えていた。
「あ、お連れさんなら、さっき深川飯をね、召し上がってたんすが……、あのお嬢さん、色気もあるが食べっぷりがまたいい。見てて気持ちがいいですよ。お代わりにいったんじゃないかな」
そうでしたか、と思わず苦笑する。
「あいつもけっこう飲む方なんですけどね。ただ、飲む前に飯を入れるってのが若いですよ。わたしなんかとても真似できない」
「そりゃあたしだってそうだ。最近じゃ締めの蕎麦だってぜんぶ食えるどうかっていう話ですから」
そう言って丸中さんは明るく笑った。
「そういえば、望月さんは、どちらのご紹介で」
「ああ、以前、古川というのが世話になっていたと思うんですが」
「ああ! 古川さんの紹介」
「大先輩なんです。入社以来の」
「そうだったんすか。そりゃどうも。こっちこそ世話になってんだ。でもまあ、また来られるんでしょう?」
「それは分からないですが、いちおうもう、引退されましたんで」
「そうでしたか。まあ望月さんもね、人生いろいろあったでしょうから」
話の脈絡が見えないな、と思っていると杉下が戻ってきた。天ぷらを盛った漆器を手にしていた。
「並んでたんで、釣られて貰ってきちゃいました。ワカサギですかね、これ」
確かめるまでもない。ここまで香りが漂っている。
「鮎だよ、稚鮎。今日、どっかで食べさしてやろうと思ってたんだ」
「へえ、わたし稚鮎って初めてかも」
そう言って、杉下は稚鮎の天ぷらをさっとつゆに潜らせると、頭からかぶりついた。
ひと噛みごとにこっちまで香りが漂ってくるようだ。
杉下の感想を、丸中さんとふたりでじっと待つ……。
杉下は、わたしたちの視線に動じることもなく、ときどき目を瞑ってゆっくりと鮎を味わい、あと味まで楽しんで、おもむろに口を開いた。
「おいしい」
それだけか。
「おいしくって、それになんかいい匂い。鮎って聞いたからですかね、目の前に川の風景が浮かんできます」
うっとりとそう言った杉下に、丸中さんが「ほんとかよおい」と手を叩いて笑った。
「ほんとですって」「そりゃ魚の匂いだろ」「だって、川ってこういう匂いしません?」などと盛り上がっていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「よお望月、久しぶりだな」
振り返ると小谷田社長の姿があった。焼酎らしき飲みものの入った陶器を手にしている。
「お前ももうこんなとこにくる年んなったのかぁ、元気そうだな」
そう言って、小谷田さんは乾杯の仕草をした。
驚いた。何年ぶりだろう。
小谷田さんは、うちの工業用和紙を最初に認めてくれた富士建材の社長……、というか一年前に会長職も退いているから今は相談役のはずだ。しかしわたしのなかでは未だに社長の印象が強い。
「社長もお元気そうで」
「もう社長じゃねえよ。ただの隠居だ」
「いえ、わたしにとっては今でも社長です。もうピンチのときにどれだけ助けていただいたか」
「ほんっとだよ。どれだけ助けたか」
小谷田さんは豪快に笑い、わたしの肩に手を回した。
飲みものを麦焼酎のロックに切り替え、昔話に興じて飲み、そうだった、と思い出して杉下に小谷田さんを紹介する。
「いいか、社会はな、組織や権限じゃない。人望で繋がってんだ」などという説教を付け足すと「嫌われるぞ、爺臭いこと言ってっと」と小谷田さんにからかわれた。
「でもね、杉下なんかまだこうやって現場に通いますけど、最近のやつはメールだラインだで、電話すら億劫がってしないんですから」
「お前が付いていけてないんじゃないのか」
「違いますって」
気が付くとわたしは、小谷田さんに日頃の鬱積を吐き出していた。
今日はどうしたんだろう。まるで深酒したような高揚感だ。しかしまだ、そこまでは飲んでいない。
気が付くと杉下の姿が見えなくなっていた。
見回すと、ふたつ向こうのテーブルで名刺を配っている。
あいつ、ここまで名刺を持ってきたのか。
もしかしたらもう、あいつに教えることなんてないのかもしれないな。
それにしても。
この食堂に充満する一体感はなんだろう。
聞こえてくる話題から、みな業界も近いような気がするし、なんというか、人間的に近しい気がする。
「おお望月。あっちのテーブルにも挨拶しとけや」
小谷田さんに連れられて、奥のテーブルに移動すると、そこには、何年か前に会社を定年退職した先輩や、うちで社長を勤めたあと、薬品業界に転身してレインボウ化学の社長を務めている米島さんがいた。
触媒で六つも特許を持っている米島社長は、その技術で、伝統一本槍だった和田紙業を、タイに工場を作るまでに成長させると、社長の座を、ぽんと創業家の三代目に譲った。その潔さに背筋が伸びた感覚は、今でも覚えている。
米島社長は、わたしを見つけると、好きで短く刈り上げた頭を撫で「なんだ望月君、君は、アタマ丸めなきゃいかんことでもやらかしたのか」と言った。
わたしが、何と答えていいかわからず「そうなんです」と答えると「君もたいへんだな」と声高く笑った。
そうだった。
米島社長は、わたしが何度失敗しても、こうして笑い飛ばしてくれた。そのお陰で今の自分がある。
「やだこうちゃん、お久しぶり」
わたしを下の名前で呼んだのは、現役時代からおつき婆やと呼ばれていた月島紀子さんだった。
婆やといっても、べつに小間使いの意味ではない。むしろ逆で、月島さんは由緒ある家柄のお嬢さんだ。
雅やかな物腰、そして宮中を思わせるような丁寧な言葉遣い。それでいて、誰とも垣根なく接する腰の低さから、親しみを込めて、皆からおつき婆やと呼ばれていた。
一歩間違えれば蔑称にもなりそうな、そんな呼び方も、嫌がるそぶりも見せずに笑って受け入れる。そういう人だ。
「ほんと、お久しぶりです。えと、お幾つになられたんです」
「相変わらずデリカシーがないわねぇこうちゃんは。でもストレートに聞いてくれたから教えちゃう。先月八十になったの」
「それはそれは、おめでとうござます」
乾杯して、近況を訊ねているあいだも、懐かしい顔が次々に現れ、声を掛けられ、酒を酌み交わした。
再会に次ぐ再会。
酔いは回り、もはや足が地についている感覚がない。
それでいて、悪酔いすることもなく、時間は、目眩く早さで喧噪に飲み込まれていった。
どれほどの人と会い、どれだけの時間が過ぎただろうか。
気が付くと、いくつかの屋台が灯を落としていた。
食堂の喧噪も、会話の内容が聞き取れるほどに収まっている。
潮時だ。
楽しかった。
いつの間にか杉下の姿はなかった。先に部屋に戻ったのだろう。
残った焼酎を飲み干し、食堂を出ようと席を立ったときだった。
「よかった。会うことができて」
わたしを呼び止めたのは、四十代の男性だった。
知っている。
それも、よく知ってる。
この顔。
しかし酔いのせいだろうか。いくら首を振ってみても、名前どころか何処の人間なのか、なぜわたしを知っているのかさえ、見当がつかない。
必死に記憶を探るわたしに、彼は「お久しぶりです」と言って丁寧に頭を下げた。
出入りの原料メーカーの営業だったろうか。
違う。
取引先?
いや、もっと近い気がする。
わからないが、この顔は、たしかによく知っている。
訝しむわたしに構わず、彼は続けた。
「今日で、最後です」
「最後……」
「はい、また当分、お会いすることはできませんが、がんばってください」
ああ、とわからないまま、返事を返した。
もう、会えない……。がんばって。どういうことだ。
けっきょく、どこの誰かは分からなかったが、わたしは、ひどくもの悲しい気分に包まれた。
「では」
彼は、何かに踏ん切りつけるようにそう言うと、踵を返し、出入り口とは反対方向の、食堂の奥に向かって歩いていき、消えた。
いつのまにか、食堂は、暗くなっていた。
ここで、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝の陽光が壁に映っている。
よく馴染んだ寝具の感触。そして、自分の匂い。
夢は、桁違いに密度の濃い現実に触れると、日に当たった氷細工のように輪郭が溶けていった。
わたしは何とかくい止めようと細部を思い出そうとするのだが、記憶はまるで、手ですくい上げた水だ。
かろうじて残ったのは、杉下と出張に行ったということ。
え?
出張……。
そんなはずはない。
こうして東京に単身赴任しているのに、東京出張なんてあるわけながない。杉下だってずっと本社勤務だ。
あまりの荒唐無稽さに、ひとり笑った。どうしておかしいと思わなかったのだろう。
いや、夢というのはそういうものか。
細部はすっかり消え、杉下といたことも曖昧になり、食堂にいた感覚だけが残った。
よくわからないが、楽しかった……。
余韻に浸っていると、目覚まし時計が起床の時刻を告げた。
夢はますます、忘却の彼方に消えていく。
今日の予定は……。
今日は杉下の頼みで、重要顧客の挨拶回りだ。
むかし担当していた店もあるが、もうすっかり代替わりしたと聞いてる。知った顔に会うことは、たぶんないだろう。
わたしは歯磨きと洗顔を終え、いつもと同じようにバナナと牛乳の朝食を採った。
タブレット端末で朝刊をチェックし、点けっぱなしのテレビから天気予報が流れると出勤の時間だ。
今日は夕方から雨か。
わたしは大きめの折りたたみ傘を準備しながら、まいったな、と思った。
今日、巡回するコースだと、最後は中本商店になる。あそこの社長は酒好きだから、夜は接待になるだろう。晴れだったらビアガーデンで安く上がったのに。
そうだ。
たまには奮発しよう。まだ稚鮎が食べられるかもしれない。昼前に江戸膳に電話しておけば何とかなる。杉下もそろそろああいう店を知っておかなくてはいけない。
わたしは、一日の段取りを考えながらマンションを出た。
いつも通りエレベーターは使わず、三階から一階まで階段を降りる。
駐輪場で、河本さんのところの息子さんに会ったので「おはよう」と声を掛けたが返事がなかった。
高校三年ともなれば受験の準備もたいへんだし、そもそも多感な年頃だ。好きな女の子のことでも考えているのだろう。
浜京線を澄川で乗り換えて、東花町線を岸田駅に向かう。最近は時差通勤を認める会社が多くなったせいか、この時間帯でもそれほど混雑しなくなった。
目の前に座っている女性が会議資料のようなものを広げていた。
社外秘だろうに、不用心な……。
そんなことを思いながら、自分も、営業部会の資料を、まだ仕上げていないことを思い出した。
胃がきゅっと縮まった。目標を高くしすぎたせいで今期は達成率が悪い。
会社に着いてオフィスに入ると、雰囲気がいつもと違うことに気が付いた。
笑い声がない。
そのくせ妙にざわついている。
杉下は、畏まった今日の営業訪問に備えて黒のビジネススーツを着ていた。そして机上のノートパソコンに向かったまま固まっている。
両手でディスプレイの部分を挟むように持って、目は、じっと画面に見入ったままだ。
わたしは、杉下の後ろからディスプレイを覗き込んだ。
[訃報]
営業第二部 次長 望月孝司殿(本人 四十三歳)は、六月二日、逝去されました。
なお、通夜・葬儀は下記の通りに行われます。冥福を祈り、謹んで通知いたします。
名前を何度も確認した。
間違いない。
所属も、年齢も。
自分だ。
自分の訃報だ……。
そう認めた瞬間、記憶を覆っていた霞のようなものが晴れた。
全身がわなないた。
わたしに紅葉館を紹介してくれた古川さんも、仕事で世話になった小谷田社長や米島社長、それに気さくに声を掛けてくださった月島さんも、みんなもう、とっくに亡くなっている。
そして、夢の最後にわたしに挨拶にきた人物、あれは、あの顔は、自分だ。
いや待て! 自分が自分に挨拶にくるわけがない。
……あれは。
あれは、双子の弟だ!
たしか死産だったと聞いている。
混乱で気が遠くなるのをなんとか持ち堪えていると、仲間たちの会話が聞こえてきた。
「事故らしいよ」
「事故?」
「ああ、藤岡ジャンクションの下に水路があるだろ。あそこに浮いてたんだってよ。たぶん茂木の壮行会の帰りだな」
杉下のすすり泣く声が聞こえた。
「なんで……」
そう言ったきり、杉下は机に突っ伏した。
「夕べ発見されたらしいんだけど、死んでから丸一日以上経ってたんじゃないかって」
「それじゃ警察の捜査が入るんじゃないのか」
「いや、一応事故って話なんだけど」
覚えていない。
どうして水路に浮くようなことになったのか。
まるで記憶がない。
いや、違う。
これは……。
ふいに、記憶の奥に押し込めてあった場面が証拠映像のようによみがえった。
競合相手の営業のカバンから見積書を抜き取った、あのロビー。
二期先輩の副島さんの企画書をデスクから盗み出し、そっくり同じ内容で、先に社長プレゼンを行った。あのときの得意げな自分の顔。
トップを取られそうだった後輩の宮下の営業車には、公営競馬の馬券を潜ませた。服務規律違反に問われた彼は潔白の申し開きも聞き入れられず、左遷された。あのまま辞めたと聞いている。その宮下が、恨めしい顔でわたしを見ていた。
それだけじゃない……。映像は次々に現れた。
ふいに、視点が高くなっているのに気が付いた。
いつの間にか、上からみんなを見下ろしていた。
わたしは慌て、そして溺れたようにもがいた。
「やめろぉ! 下ろせ!」
声を限りに叫んだ。
しかし誰も気付かなかった。誰にも聞こえていないのだ。
「俺は死んでない」
泣き声混じりにそう叫んだ言葉の意味に、わたしは底知れぬ恐怖を感じた。
死んでない。いや、死なせてくれないんだ。生きて、裁かれる……。
そういうことなのか。
罰、ということばが脳裏をよぎった。
そして責め苦を思い、恐怖で身体が固まった。
《了》