第3話 事件
秋山真純美の家はなくなり、更地には売却予定の札が立っていた。俺は呆然として、ただただ更地を眺めていた。
「秋山さんのご両親はあの事件のすぐ後に引っ越されました。」
「そうだったのか。もしかしたら秋山の両親と鉢合わせるかとも思っていたが、杞憂だったようだな。それより、引っ越していることを知っているんだったら、予め教えてくれてもよかっただろう。」
「嬉しかったんですよ。本条さんが過去に出発する前に、きちんと事件に向き合おうとしてくれたことが。その気持ちを大切にしたくて、何だか言いそびれてしまいました。」
日下部は相変わらず笑みを浮かべているが、いつもよりも毒気が少ない気がした。
「さて、もう12時過ぎになりますが、お腹空いていますか? 美味しいラーメン屋さんがあるんですけど、一緒に食べませんか? 奢りますよ。」
「いいね、行こう。ありがとう。」
俺たちは再び車に乗り込み、日下部の運転でラーメン屋に向かった。ラーメン屋までは30分ほどかかった。万が一にも俺が知り合いと遭遇しないように、敢えて離れた場所を選んでくれている気がした。日下部と同じラーメンを注文したところ、背脂たっぷりのこってりとした豚骨ラーメンが運ばれてきた。日下部の言うとおりとても美味しかったが、日下部の爽やかな雰囲気とは似つかわしくないなと思った。並んでいる客がいたため、俺たちはラーメンを食べたらすぐに店を出た。
「美味しかったな。」
「そうでしょう。この近くで仕事があるときはよく食べに行くんです。では、研究所に向かいましょうか。」
俺が助手席に乗り込もうとすると、日下部に制止された。
「あ、すみませんが、後部座席に乗っていただけますか? 研究所の場所は秘密なんです。」
日下部に促されて後部座席に乗り込んだ。日下部が運転席に乗り込み、ドアに付いた赤いボタンを押すと、後部座席と運転席・助手席との間に仕切り板が現れた。後部座席の窓も暗くなって外が見えなくなってしまった。
「申し訳ありませんが、研究所に到着するまではこの状況で我慢してください。」
「タイムマシンなんて半信半疑だったが、何だか本当にあるみたいだな。」
「もちろん、本当にありますよ。それでは出発しますね。」
車が動き出して気が付いたが、外の音も聞こえなくなっているようだ。今どの辺りを走行しているのかは全く分からなかった。10分ほど経ったころ、日下部が話しかけてきた。
「秋山真純美さんの家がなくなった後の更地を見て、何か変わりましたか?」
「そんなにすぐに変わったりしないよ。秋山の家に向かう途中ずっと怖かったし、両親が引っ越されたと聞いたときは何だかほっとしてしまった。」
「秋山さんが、その、同級生を刺したことに関して、本条さんに責任はないと思いますよ。」
「いや、俺がきちんと秋山の味方で在り続けていたら、あんなことにはならなかった。俺が秋山に同級生を殺させてしまったようなものだ。」
俺は日下部と話しながらあの事件のことを思い出していた。
中学校の教師になって3年目、はじめて3年生の担任になった。俺の勤めていた中学校は進学校だったため、3年生の担任には実績を残すことが求められていた。3年生を受け持つというプレッシャーはあった反面、学校側が期待して任せてくれたことが嬉しかった。期待に応えようと、これまで以上に気合を入れて仕事に打ち込んだ。
秋山真純美は俺の担任するクラスの女生徒だった。非常にまじめで正義感が強く、成績も優秀な子だった。学校の先生という職業に憧れを抱いており、そして、なぜか俺のことを慕ってくれているようだった。何かにつけて話しかけてくることが多く、俺も悪い気はしていなかった。
今にして思えば、秋山に対して小さな異変を感じたのは6月の終わりごろだった。2年生のころにも学級委員を務めていた経験を買って、秋山に1学期の学級委員をお願いしていた。周囲からも反対はなかったし、クラスメートたちと分け隔てなく仲良くしている印象だった。そんな秋山が1人でいる姿をよく見かけるようになっていた。
表立った問題が発生したのは夏休み明けだった。秋山が登校してこなかったのだ。秋山が学校を休むのは、3年生になってから初めてのことだった。数日後、俺は秋山の家を訪問して、母親を交えて秋山との面談の機会を設けた。話を聞くと、学級委員としてクラスの別の女子グループと揉め事になってしまった後、クラスで孤立するようになって学校に行くのが辛いと感じるようになったようだ。母親は、今年は高校受験も控えているため、学校できちんと勉強してほしいと言っていた。俺からは、無理強いはできないが、なるべく学校に来てほしいと伝えた。翌日、秋山は登校してきてくれた。クラスの皆んなには秋山は体調不良だったと伝えた。まだ夏休みが明けて数日しか経っていなかったため、誰も不審がってはいなかったと思う。
このまま秋山が何事もなく学校生活を送れるようになってくれればと願っていたが、そう上手くはいかなかった。秋山に対して明らかにいじめが行われるようになった。暴力こそ振るわれなかったが、秋山の持ち物が何度もなくなったり、学校の壁に秋山を誹謗中傷する落書きが見られたりするようになった。クラスメートに手を差し伸べる者はおらず、秋山はいつも独りぼっちになっていた。秋山と揉めたクラスの女子グループが中心になっていじめが行われているようだった。
俺は他の先生に相談して事態の解決を図ろうとした。学年主任だけでなく、教頭や校長にも掛け合ったが、「問題を起こすな。そんなことより高校受験の実績を残せ。」と言われるばかりだった。11月に入るころには、いじめがエスカレートして授業運営にも支障を来す事態が発生していた。クラスの保護者からは子どもの受験勉強に差し障ると苦情が寄せられ、その度に俺は保護者に頭を下げ、学年主任や教頭から叱責された。はじめての3年生の担任という不慣れな仕事環境もあって、俺は日に日に疲弊していった。
秋山からも何度も相談を受けていた。はじめのうちは秋山を励まし、事態の解決を一緒に図ろうと努めた。主犯格になっていると思われる女子グループやその保護者に注意を促したり、秋山と仲良くしてくれるクラスメートができないかと模索したりもした。しかし、周囲の協力を得られず、むしろ頑張れば頑張るほど余計なことをするなと言われる環境に、俺も限界を迎えつつあった。秋山から相談を受けても次第に「高校に行けばこの環境から抜け出せるから今は我慢しよう」という内容をそれとなく伝えるようになっていった。秋山に対するいじめ問題は改善しているように見えなかったが、秋山から相談を受ける回数は減っていった。
そして、2学期の終業式の日、あの事件は起きた。午前で終業式は終わり、職員室で昼食をとった後、クラスの教室に向かうと、赤黒い血がべっとりと付着した包丁を持ったまま座り込んだ秋山がいた。横には秋山をいじめていた主犯格の女生徒が腹部から大量の血を流して倒れていた。教室の隅では、秋山をいじめていたグループの他の女生徒たちが恐怖で震えながら立ち尽くしていた。俺は咄嗟に秋山から包丁を取り上げ、職員室に向かって他の先生たちを呼んだ。秋山から取り上げた包丁に付着した血の粘っこい感触を思い出して眠りから覚めることが未だにあった。
主犯格の女生徒は病院に搬送されたが、間に合わなかった。目の前が真っ暗になった。その後のことはよく覚えていない。警察からの事情聴取を受けたり、保護者説明会で謝罪したり、亡くなった女生徒の葬式に出たり、退職届を出したり、色んなことがあったはずだが思い出すことができない。しかし、亡くなった女生徒の両親が秋山の両親を責め立てる姿と、それに対して泣きながらひたすら謝罪する秋山の両親の姿は今でもはっきりと覚えている。
「秋山が今どうしているか、知っているか?」
「引っ越した先で両親と生活しているようです。しかし、学校には通えていないようですね。」
「そうか...」
今まで考えようとしてこなかったが、秋山のことが気になって仕方がなかった。秋山に何をしてあげればよかったのだろう。どうすればあの事件を防げたのだろう。そんなことを考えていると、自動でスライドドアが開いた。降車すると、そこは地下の駐車場だった。
「ここがタイムマシン研究所です。」