第2話 向き合う
俺はタイムトラベル計画の実験契約書に署名・押印した。日下部は満足げに契約書をカバンにしまっている。タイムマシンに乗って12年前に行き、中学3年生として1年間過ごす、なんて全く実感は湧かなかった。しかし、何の希望もやりがいもなくただ生き続けるだけの今の生活から抜け出せるチャンスは、今後2度と訪れない気がしていた。
「ありがとうございます。契約成立ですね。明日9時にお迎えに上がりますので、それまでに部屋は片づけておいてくださいね。お部屋の解約手続きなどは我々で行います。」
「部屋の解約?」
「過去に行っている1年間、お部屋の契約は継続していた方がよろしかったですか? 我々としては家賃のお支払いまでするつもりはなかったのですが。」
「え、もう過去に出発するのか? 早くないか?」
「今日は3月27日ですよ。4月4日には始業式ですから、タイムトラベルに5日かかることを考えると、明日には出発したいと思っています。」
スマホの日付を見ると確かに3月27日と表示されている。日付も曜日も全く気にしない(気にする必要のない)生活を送っていたのだと、改めて自分に呆れてしまった。
「その様子だと今日が何月何日なのか分かっていなかったようですね。すぐに出発することになることも分からず契約書にサインしたんですか。」
「ああ、そうだよ!」
「おっと、もうこんな時間か。それでは今日はこれで失礼しますね。それでは。」
昨日と同様、日下部は俺の返事も待たずに颯爽と去っていった。スマホを見ると15時を回っていた。俺はそれから遅めの昼食を済ませて部屋の片づけを始めた。改めて実感するが、部屋には最低限のものしかなかった。普通に働き、普通に友達や彼女がいて、普通に生活していれば、もっと物があるはずだろうなと思った。その一方で、ホコリや汚れは結構溜まっており、掃除には結構な時間がかかってしまった。部屋の片づけと掃除が終わるころには21時を過ぎていた。起床から8時間くらいしか経っていないのに何だかひどく疲れてしまい、そのまま眠りに落ちてしまった。
翌日、またしても俺は玄関のチャイムで目を覚ました。スマホを見ると9:00と表示されている。今回も指定時刻ちょうどにお迎えが来たようだ。こんな早い時刻に起き上がるのは久しぶりのことだったため、ふらふらとしながら玄関に向かった。
「あー、すみませんが、5分ほど待ってもらえますか?」
予想通りドアの外からは「またですか?」などと馬鹿にしたような声が返ってきたが、俺はそのすべてを無視した。身なりを整えてから、ドアを開けて日下部を招き入れた。
「おお、きちんと掃除してくださったんですね。あまり期待していませんでしたが、ありがとうございます。まとめていただいた荷物は研究所の方で保管しておきます。」
「今から研究所に向かうのか?」
「そうしてもよいですが。これから1年間は現在に帰ってこれなくなります。過去に出発する前にやり残したことや行きたい場所はありますか?」
「そうだなあ...」
これから中学3年生として過ごすことを考えると、俺にはどうしてもあの事件に向き合わなければならない気がした。この2年間、考えないように、考えないようにと思い続けながら、頭から離れなかったことだ。
「日下部さん、2年前のあの事件のことは、もちろん知っているんだよな?」
「ええ、もちろんです。本条さんのことはよくよく調べさせてもらいましたから。」
「そうだよな。ちょっと遠いが、秋山真純美の家に向かってもらえるか? 別に何をしようってわけじゃない、ただ中学3年生になる前に改めて見ておきたいんだ。」
「承知しました。それでは行きましょうか。」
俺たちは部屋を出て、日下部の車に乗り込んだ。日下部は運転席、俺は助手席に座った。日下部は相変わらず薄っすらとした笑みを湛えていたが、俺に話しかけようとはしなかった。
「そろそろ到着しますよ。」
車に揺られて眠りかけていた俺は日下部の声に顔を上げた。窓には見覚えのある景色が流れていた。あのスーパー、あの公園、あの線路、そしてあの学校。秋山の家が近づくにつれて、心臓の鼓動が速くなっていくのが分かった。否が応でもあのときの記憶が蘇ってくる。さっき向き合うと決めたばかりなのに、外を見るのが怖くて下を向いてしまう。車が停車した。
「さあ、到着しました。」
窓の外を見ると、秋山真純美の家はなくなり、更地になっていた。