利家と成政、各々の戦い
織田家への帰参が叶わなかったことは利家にとって悲しい現実である。
しかしもっと最悪な出来事が直後に起こってしまった。
父親の前田利春の死――その知らせを受け取ったのは桶狭間の戦いからしばらく経ってのことだった。
「……嘘だろ? 親父が死んだのか!?」
「嘘ではございません。当主である前田利春様は亡くなりました」
利家とまつが住んでいる小さな家。
愕然とする利家に知らせたのは奥村助右衛門という、前田家に仕える奥村家の若い武将だった。利家と対照的に背がかなり低いが文武両道の優れた男だと評判が高い。涼しい目元をしている美青年は無表情で己の主君の最期を告げる。
「当主様は最期にこう言い残しました。『利久、あの馬鹿息子を頼む』と」
「…………」
「そして現当主であらせられる利久様は、あなたに実家に戻るよう命じました」
淡々と父親の死と今後のことを申し渡される。
隣にいるまつは幸を抱きしめながら夫の様子を見守っていた。彼女自身、世話になった恩人の死に動揺していたが、それ以上に震えている利家を慮っていた。
「さっそく、この家を退去し――」
「嫌だ。俺にはまだ、やるべきことがある」
奥村の言葉を遮って利家は拒絶した。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「嫌だと言った。お前、もう帰れ」
眉をひそめた奥村に「帰れと言っている」と利家は繰り返した。
「何遍も言わないと理解できないのか? 評判の高いお前らしくないな――助右衛門」
「理解できても納得はできません。あなたは織田家を追放されたとはいえ、前田家の一員ではないのですか?」
「はん。親の危篤を聞かされなかった俺が前田家の一員だと? 笑わせやがる」
利家は挑むように「前田家とは今後一切、関わりなしだ」と言った。
奥村の眉がぴくぴくと痙攣した。
「話は以上だ。三回目になるが、今すぐ帰れ」
「……当主様はこうなることをお見通しでしたよ」
奥村はため息をついて――正座の姿勢から素早く利家に襲い掛かる。
普通ならば反応できない速度だったが、利家は予想していたようで、素早く後ろに飛びのいた。
隣のまつは幸を抱きしめてその場に縮こまる。利家の邪魔をしないように、そして身を挺して娘を守るように、なるべく身体を小さくした。
「……流石、槍の又左と呼ばれるほどのお方だ。良き動きですね」
「随分と上から目線じゃあねえか――助右衛門!」
今度は利家が奥村に蹴りを繰り出した。座った者を襲い掛かったので、彼の体勢は低かった。ゆえに下段蹴りを放つ。
奥村は受けるのは無理だなと判断し、左のほうへ飛んだ。右足での蹴りに対しその回避は最適解と言える。そしてそのまま、部屋の外に出た。
「まつ! お前はここにいろ! 絶対に外に出るな!」
利家の言葉にまつが頷く――その前に利家は奥村を追った。
奥村は部屋の外ではなく、家の外まで逃走を計ったようだ。玄関の戸が開く音が聞こえる。利家は素早く走って、開いている玄関の戸から外に出た。
てっきり物陰から奥村が奇襲してくると思ったが、彼は正々堂々と玄関の前に立っていた。
「お前、舐めているのか? それとも馬鹿にしているのか?」
「先ほどの攻防から、奇襲は通じないと判断し、正々堂々と挑むことにした――とは思わないのですか?」
「やっぱりお前は俺を舐めているし馬鹿にしているよな」
利家は「そういえばお前と戦うのは初めてだったな」と首をこきりと鳴らした。
「試合は何度かあるが、お前はいつも本気を出さなかった」
「主家の方に勝つと、後々面倒なんですよ」
「そうか。だったら今は本気出せるな。俺は主家の人間じゃねえし、俺を力づくで連れてくることがお前の役目だから」
奥村はにっこりと微笑んで「そのとおりです」と言う。
そして拳を前に出して構えを取った。
利家も応じるように構えた。
「悪いとは思いますが、勝たせていただきます」
「言ってろ。俺ぁお前みたいな野郎が大嫌いなんだ」
成政の顔が浮かんだがすぐに消え去った。
彼が織田家を辞し、松平家に仕官したのは知っていた。
「それでは、行きますよ――前田利家様!」
「殺す気でかかってきな!」
◆◇◆◇
佐々成政が一族郎党と妻のはるを引き連れて、三河国の岡崎城に入った数日後のことだった。
「すまぬ。どうしても家臣がそなたの実力を見たいと言って聞かんのだ」
「まあ、予想はしておりましたが……」
岡崎城の廊下を歩くのは松平元康と佐々成政の二人。
申し訳なさそうな主君に、成政は笑顔で「ご安心ください」と言う。
「織田家では槍上手でならしたのです。殿もご存じでしょう?」
「まあ分かっているが……ふふふ」
「いかがなさいましたか?」
嬉しそうに笑う元康に怪訝な目で見る成政。
「いやなに、そなたを家臣にできた喜びが出てしまった」
「……殿。私も胸が一杯ですよ」
互いに笑いあう二人。それから小姓のいる大広間の前に立つ。
扉が開かれると、そこには一人の若武者がたすきをして稽古用の槍を持って待っていた。
その周囲を松平家家臣たちが座っている。
「なるほど。その者が私の相手ですか」
成政は肩を回しながら、大広間の壁にかけられた稽古用の槍を持った。
大広間というより、広い道場と言うべき装い。おそらくこの日のために変えたのだろう。
「佐々殿。そこにいる若者は本多平八郎忠勝だ。年若いが三河武士の中でも腕が立つ」
石川数正が丁寧に説明をする。
成政は内心、本多忠勝に会えるとは夢みたいだと感激していた。
目の前の本多平八郎忠勝は一切何も話さない。若いにもかかわらず険しい顔つきをしている。真一文字に結ばれた口は、寡黙さを表している。
「佐々成政と申す。以後よろしく」
「…………」
成政の名乗りに忠勝は黙して語らなかった。
元康が「平八郎。少しは話せ」と苦笑した。
それでも彼は喋らない。
「成政。あの本多平八郎なる者はかなり強いぞ。勝てるのか?」
「……あのときのように、応援してくだされば勝ちます」
元康の脳裏にあの日の記憶が蘇る。
人質でありながらも楽しく甘味屋で食事したことや成政が犬千代とかいう同輩と相撲を取ったことを。
「……今の私は岡崎城の城主だ。家臣の一方に肩入れできぬ」
「ふふ。意地悪なことを言ってしまいましたね」
「だがそなたには期待しているとだけ、言っておこう」
その小さな気遣いだけで、成政は大きな力を発揮できる。
成政は槍を振り回しながら「かしこまりました」と頷いた。
「…………」
そんな二人のやりとりを見て、忠勝は眉を上げた。
そして立杖から槍先を成政に向けた。
「なかなかいい構えだ……」
成政は油断なく言う。
元康に乞われて三河武士に自身の実力を見せてほしいと言われたときは面倒だと思ったが、こうして本多忠勝と戦えるのは嬉しかった。素直に言えば、血がたぎってしょうがなかった。
「一応、言っておこう」
成政が忠勝――三河武士に向けて言う。
「私は信長様が尾張国を統一するまでの戦に参加した。どれも負けたら織田家が滅ぶというものばかりだった」
ざわめく三河武士と沈黙を守る忠勝。
「私がどうやって生き残ったのか。それは単純に強いからだ。自分でも言うのもおこがましいがな。それの証を今――見せてやろう」
一連の台詞は忠勝に重圧をかけるだけではなく、三河武士を黙らせる意図があった。
現に三河武士は飲まれてしまう。
だが忠勝は動じなかった――内心、成政は舌打ちしたかった。
「両者準備よろしいか?」
進行役の酒井忠次が二人に訊ねる。
同時に頷いたのを見て、彼は大声で言った。
「それでは、尋常に――始め!」