流れる血
信長の弟、信行が伊勢守家の信賢と接触している。
それを含めた諸々のことで、清洲城内で評定が行なわれた。
「殿、これは由々しき問題ですぞ」
開口一番に言ったのは、筆頭家老の佐久間信盛だった。
池田恒興、森可成、丹羽長秀ら三人も頷いている。
対して信長は物憂げな表情で信盛の言葉を待った。
「もし信賢と信行様が手を結べば、我らは危うくなります」
「……分かっている」
「家老の林秀貞、その弟の美作守も信行様の派閥です」
「それも、分かっている」
信盛は信長のやる気なさそうな反応に苛立ちを覚えながら「それで、いかがなさいますか?」と問う。
「信行様と戦うしか道はありませぬが」
「まだ明確に叛いたわけではない」
「しかし――」
信長は額に手を置きながら、悩ましげに言う。
「ここで信行を攻めれば、おそらくその隙を狙って信賢が攻めてくる」
「…………」
「舅殿が当主でいれば、対抗できたのだが」
少し前に斉藤利政は家督を嫡男である斉藤高政に譲って隠居してしまった。
今は道三と名前を変え、仏門に入っている。
「斉藤家とは同盟しているが、高政は俺のことをよく思っておらん」
「援軍は期待できぬと?」
信盛の問いに信長は頷いた。
「今はまだ、戦をするべきではない」
「…………」
「では、お前たちの報告が聞きたい」
信長が控えていた三人に言う。
最初に答えたのは恒興だった。
「清洲の町の治安は比較的安定しております。買い占めを信賢がしておりますが、このまま商業政策を続ければ、問題ないでしょう」
「商人が増えれば、買い占めの効果は薄れるか……」
次に意見を言ったのは可成だった。
「流れ者や中間を兵に引き入れていますが、はっきり言って戦力になりませんね。馬廻り衆だけの編成のほうが、効果的でしょう」
「……だがいないよりマシだ。引き続き徴兵を続けてくれ」
最後に言ったのは丹羽だった。
「清洲城の破損した壁の件ですが、修繕完了しました」
「……まだ三日しか経っていないぞ? どういうことだ?」
疑うような目を向ける信長。
丹羽が「木下藤吉郎なる者の指揮です」と答えた。
「あの者が大工に指示をして速やかに。何でも作業箇所と人数を分けて、いち早く修繕した組には褒美を与えると伝えたところ、皆が競うように直し始めたらしいです」
「人使いが上手だな……」
信長は藤吉郎を大工奉行に格上げしたことを思い出す。
しかしここまでの成果は期待しなかった。
「うむ。分かった。後で藤吉郎には褒美を取らそう」
「ええ。かの者も喜ぶでしょう」
報告を聞き終えた信長は今後の方針を伊勢守家の攻略とした。
いくら信賢が暗躍しようとも、当主はあくまでもその親である信安だ。
もし信行が謀叛を起こしたとしても、隙を突いて攻めるような果断など信安にはできない。
「そういえば、利家と成政は何をしている?」
評定が終わった後、信長は可成に訊ねた。
「ああ。二人は政秀寺にいます」
「……そうか。今日は月命日だったな」
信長は悲しげに呟いて、そのまま自室に向かった。
その背中が切なそうだなと可成は思った。
信長はまだ、政秀寺を訪れていなかった。
◆◇◆◇
「じじい。湯漬けくれよ」
「……さっき食べたばかりだろうが!」
利家は政秀寺で平手政秀の墓参りをした後、住職の沢彦宋恩の部屋に押しかけて、兵法の勉強をしていた。
「高僧にそんな態度取るなよ。バチが当たるぞ?」
呆れた顔になっているのは成政だった。
彼は沢彦の名と顔を知っていたが、直に話すのは初めてだった。
「ふん。そっちの若者は礼儀を知っているな」
「それは……最低限備えています……」
「それに比べて、小僧はいつまで経っても成長せん」
呆れたように言いつつ、沢彦は外に控えていた僧に「湯漬けを二人分、持ってきてくれ」と命じた。
成政は沢彦を、口は悪いが要望には応える、よく分からない人と思った。
「利家からお前のことは聞いている」
「どうせ、ろくなこと言っていないでしょう」
「ご明察だ。だから実際に会ってがらりと印象が変わった」
一体どんなことを言いやがったんだと成政は利家を睨みつけるが、利家はどこ行く風で、寝転んで兵法書を読んでいた。
「しかし、その丁寧さは粗暴な利家とは相性が悪そうだな」
「よくお分かりで。こいつのせいで私が何度迷惑をかけられたのか……」
「おいてめえ。俺がいつ迷惑かけたってんだよ」
成政はやや早口で「那古野城で何回障子を破ったんだ?」と言う。
「物を壊す。掃除を適当に済ます。一緒に行動させられていた私はいつも迷惑を被っていた」
「その場で言えよ!」
「いや。その不手際は逐一上役の池田様や殿に報告させてもらっていた」
「はあ!? やること陰険過ぎるだろ!」
「だったら真面目に仕事をしろよ!」
利家と成政が立ち上がって、互いの右手の拳が各々の顔面に当たろうとする寸前で「喧嘩などするな!」と沢彦が一喝した。
「ここをどこだと思っている! 平手様が眠っているのだぞ!」
「う……それは……」
「……すみませんでした」
沢彦は盛大に溜息を吐き「成政も利家と変わらんではないか」と言った。
「似た者同士……ではないな。根本は同じだが、表面上は違っているのか」
「嫌な分析をしないでください」
「分析されたくなければおとなしくしろ」
成政は正座を、利家が再び寝転ぶと沢彦は「どうして成政を連れてきた?」と問う。
「仲が悪いのなら、誘わなければ良いではないか」
「……こいつしか、平手様のこと語れないからな」
利家のその言葉が、あまりにも切なそうだったので、沢彦も成政も息を飲んだ。
可成や信長では気安く語れる話題ではなかった。
可成は武士として立派な最期だと思っていたし、信長は悲しみが大きすぎて話し合えない。
「俺ぁ平手様のことを話したいんだ。だから成政を月命日に誘った。不本意だけどよ」
「利家。知らない者が口を挟むなと言われると思うが、敢えて言わせてもらおう」
成政はこほんと咳払いして横になっている利家に言う。
「介錯をしたからと言って、責任を感じることはない」
「…………」
「あの方は、お前に介錯されて――」
「知らねえ奴が分かったような口を利くな」
利家は身体を起こして胡座になり、二人と向かい合う。
「俺は平手様を介錯したくなかったし、殿だって切腹を許可したくなかった」
「…………」
「平手様は望んで死んだけど、他の誰も望んでいなかったんだよ」
平手政秀が切腹してからだいぶ経つ。
しかし利家はまだ引きずっていた。
いや、誰ともこういうことを話していなかったから、今話しているのだろう。
「成政。お前は平手様のことをどう思う?」
「…………」
「立派だと思うか? それともなんか思うことあるのかよ」
「…………」
成政は目の前の利家を哀れに思った。
何故なら、彼の心を占めていたのは、深すぎる後悔と重過ぎる罪悪感だったからだ。
誰かに介錯は正しかったと言われたい反面、誰かに介錯は間違っていたと言われたいのだろう。
成政は介錯が正しかったのか、それとも間違っていたのか、判断できなかった。
彼も前世で自殺しているからだ。
彼は死を救いだと思っていた。
でも現実ではそうじゃなかった。
死んだ今もこうして自我が残っている。
理由は分からないが、生きていた。
だから死は救いではないと分かっていた。
しかしそんなことは言えない。
言うことなどできるわけがない。
ちらりと沢彦のほうを成政は見た。
かの高僧はじっと二人を見ていた。
答えは二人で出すものだと言わんばかりの表情だった。
成政はふうっと溜息をついて。
そして――
「平手様が立派かどうかなんて、私には分からない」
「…………」
「だが、満足して死んでいったのは事実だ」
成政は利家に笑いかけた。
利家は珍しいなとしか思わなかった。
「平手様が最期になんと言ったか知らないが、お前はあの方を介錯して良かったんだ」
「…………」
「繰り返すようだがな。それでいいじゃないか」
◆◇◆◇
一方、隣国の美濃国では――
「はあ、はあ、はあ……やったぞ……」
死体が二つ、男の前にあった。
男は父とされる男が実父ではないと疑っていた。
男はその父が自分ではなく、可愛がっている弟に家を継がせようと画策していると疑った。
男はそれゆえ、弟二人を自分の城に呼び出した。
「あ、兄上! おやめください――」
それが弟、孫四郎の最期の言葉だった。
もう一人の弟、喜平次はあまりのことに言葉も出ず、そのまま斬られた。
「もう、後戻りはできない……すぐに兵を挙げるぞ!」
簡潔に言えば。
稲葉山城で、この日、斉藤高政による弟殺しが行なわれたのだ。
美濃国で内乱が始まる――