越前国、奪還
武田家の勢力が弱まり、もはや織田家を止める者はいないと思われた――しかし、信濃国を侵攻している上杉家が新たな脅威となりつつあった。その領地を獲られると美濃国だけではなく、尾張国まで攻められる可能性が出てきた。
そこで信長は越前国を獲り返そうと画策した。一年ほど前は動けなかったが、武田家や本願寺が動けない今、かの地を奪還する好機であると彼はにらんだ。
すぐさま五万の兵が徴兵された。そして織田家の優れた武将たちを集め、一気呵成に攻めようと画策したのだ。その中には利家もいた。無論、赤母衣衆も一緒だ。
「今回の戦で俺は出世してみせるぜ。利家さんよ」
意気込んでいたのは赤母衣衆の佐脇良之だった。近年、様々な戦場で手柄を立て続けた彼は赤母衣衆の中で二番手である赤母衣衆次席の座を得ていた。鼻息荒い彼に対して「あんま力入れすぎるなよ」と利家は助言した。
「手柄を焦ると周りが見えなくなるからな」
「あんたに言われたくねえなあ。向こう見ずなのはそっちだろうに」
「当たり前だ。俺ぁ前しか見ねえ」
そんな軽口を叩いているうちに、織田家の軍勢は越前国の敦賀城に入城する。
そこで軍議が開かれた。
「今回は――根切りにいたす」
根切りとは皆殺しのことである。
信長の重々しい声に誰も反対しなかった。
しかし賛同も上がらない。
軽やかとは言えない空気の中、柴田勝家が「わしに先陣を任せてください」と言い出した。
「勝家。先陣を申し出た理由を述べよ」
「この越前国を一刻も早く制する必要があります。あの上杉家に対抗するためにです」
それはまさしく、信長の狙いと同じだった。
信濃国を制覇しつつある上杉家を打倒するには北陸からも攻める必要があった。その前線となる越前国を獲ることは必須だった。
だがしかし、柴田の狙いはそれだけではない。彼は近年の戦いの中で目立った功績を立てていなかった。そのため、軽輩であった光秀や秀吉が一国を任せられるという後塵に拝していた。
柴田は織田家家老である。これ以上の出世は地位においてはないだろう。それならば一国一城の主として大きな仕事を任されたい。いつしかそう願うようになった。
きっかけは最近、かつての主君である織田信勝の夢を見るようになったことだ。夢の中の信勝は優しく微笑むだけだが、今の柴田を激励しているように思えていた。
「良かろう。先陣を任す」
信長は快く許可を出した。
自分と同じ考えであったこともあるが、そろそろ柴田を重用しようと思ったからだ。信勝のことは未だに小骨が刺さったようにちくりと痛む。けれども終わった過去のことを持ち出すのはやめようと考えたのだ。
「ただし、赤母衣衆を同行させよ。かの者たちは必ずやお前の助けとなろう」
「承知いたしました」
この決定に軍議に参加していた利家は心が躍った。
また柴田と共に戦える。尊敬する武人と轡を並べられるのは光栄だった。
そんな単純な利家とは別に信長には別の狙いがあった。
柴田が己の家臣ではない者たちを上手く率いることができるかどうかである。
もし上手くいけば――上杉家を牽制する役目を与えられると考えたのだ。
◆◇◆◇
柴田は勇猛果敢に一向宗と戦った。
それは赤母衣衆の面々も驚くほどの働きぶりだった。越前国の諸城を攻め落とし、野戦での指揮も凄まじい。まるでタガが外れたように――強かった。
「柴田様は手柄を焦っているのか?」
血と汗を拭いながら佐脇は利家に訊ねた。
休息はそこそこあるものの、連日の戦に赤母衣衆たちは疲れていた。柴田の配下の者でさえ、殿はどうかなされたのかと噂している。
「手柄を焦っているわけではないと思うぜ。一刻も早く越前国を平定する――殿の狙いを叶えるためだ」
「はっ。そりゃ結構だが……ま、戦が早く終わるのは望むところだ。ひと踏ん張りすっか」
気軽そうに言う佐脇に対して「お前、気負わなくなったな」と利家は感心した。
昔の佐脇ならば愚痴や文句を並べていた。それがいっぱしの口を叩いている。
「まあな。俺も出世したいしな」
「出世ねえ……」
「利家さんはしたくねえのか?」
「俺は功名漁りだからな。戦で活躍できりゃそれでいい」
「そんなんじゃ命がいくらあっても足らねえよ」
佐脇は「生きてなんぼの世界だろ?」と諭す。
「意地張って死ぬより気楽に生きたほうが楽しいぜ」
「ふうん……ま、正しいな」
本当は死ぬべきときに死ねないのは虚しいと利家は考えていた。意地を貫き通す格好良さも知っていた。前世はそうやって死んだのだ。
それでも、肩ひじ張らずに生きるのは自由の一種だと断じていた。利家は己が信長の中に自由を感じていたから、ついて行くことを決めたのを思い出した。
「利家さんは出世を望まないのか?」
「さっきも言ったじゃねえか。俺は――」
「あんたの友達の羽柴や佐々は一国一城の主になったよな。先越されて悔しくねえのか?」
「秀吉は友達だけど、あの野郎は違う」
「おいおい、誤魔化すなよ」
成政が甲斐国の国主になったことは耳に入っていた。
佐脇が言及した悔しさは特に感じていない。あの野郎、よくやったなと讃える気持ちが占めていた。
けれども――逆に心配してしまう。外様から甲斐の国主まで出世するには相当な努力が必要だったに違いない。血の滲むような苦労もあっただろう。そしてそれを続けていかねばならない。国と地位を維持するために――心労を重ねていく。
「そういうお前は一国一城の主を狙ってんのか?」
「もちろんだ。男として生まれた以上、夢を追うのが当然だろう」
「夢か。いい言葉だな」
「夢は叶えるものだ。あんたは違うのか、利家さん」
「俺にとっての夢は――」
利家が答える前に出陣を知らせる太鼓の音が鳴った。
佐脇は槍を携えて「さてと、仕事に行くか」と肩を鳴らす。
「ま、あんたは殿のお気に入りだ。いずれ出世するだろうよ」
「…………」
利家は黙って立ち上がった。
無言のまま、佐脇の後をついて行く。
利家の夢は信長が天下統一することだ。
しかしこうも考えている。
夢はいずれ覚めるものだと――
◆◇◆◇
越前国は織田家の手中に収まった。
元々、一向宗の中で内紛が起きていたこともあり、わずか十日で制圧ができた。
ひとえに柴田の活躍があってのことだ――織田家家中の者はそう考えていた。
「論功行賞を行なう」
北ノ庄城でのことだった。
諸将がいる中で信長はあっさりと言った。
糸を張り詰めたような緊張感が漂う。
「越前八郡七十五万石の領地を勝家に与える。この北ノ庄城の城主となり、北陸を攻め取れ」
おおっ! というどよめきが起こったのも無理はない。
柴田が名実ともに織田家家老の頂点に立ったのだ。これほどの領地を持ったのは他にはいない。
「ははっ! 光栄にてございます!」
「であるか。そして越前府中に領主を三人置く。領地の十万石を三等分とし、勝家の補佐役として活躍してもらう」
これもまた破格の人事である。
信長が「まず一人目は」と言うと水を打ったように静まり返った。
「不破光治だ。長年、外交や戦で功績がある。ゆえに勝家の補佐として適任だ」
呼ばれた光治はごくりと唾を飲み込んで「承知いたしました!」と平伏した。
「次に赤母衣衆筆頭の前田利家だ」
「えっ? 俺ですか!?」
素っ頓狂な声を出してしまった利家に「今までの働きぶりを鑑みて十分に相応しいと考える」と信長は鷹揚に頷いた。
「勝家を助けてやれよ」
「はい! お任せください!」
なにはともあれ、尊敬している柴田と共に戦えるのは嬉しいと利家は思った。
柴田もまた、利家と共に戦えるのは心強いと感じていた。
「三人目はこの一連の戦で大いに活躍した男を任じたい」
信長はその男に視線を送った。
一同もその男に注目する。
「佐脇良之。お前を越前府中の領主に任じる」