詐欺
成政が甲斐国の支配を固めていると、上杉家が信濃国を攻め始めた。
四名臣の一人、高坂昌信が守る海津城を攻城している――その知らせを忍びから聞いた成政は「そうか」と頷いた。対して、傍に控えていた大蔵長安と可児才蔵は黙って指示を待っている。
「今が信濃国への攻め時かと二人は思うか?」
「いえ。今は甲斐国の内政を優先するときです。それに上杉家には信濃国を任すと殿が盟約を結んだ……もし我らが攻めれば戦になります」
吏僚らしい長安の発言に「でも信濃国を獲られたらまずい状況にならねえか?」と武人の才蔵は返した。
「地理的に東海道を攻められてしまうぜ」
「だとしても、まだ兵力を整えていない。攻めるのは無理だ」
兵の調練を担当している才蔵は長安に言われなくても分かっているが、このまま上杉家の領地が増えるのを黙っているのは見過ごせない。
二人の意見を聞いた上で成政は「才蔵には悪いが、ここは甲斐国を優先しよう」と決めた。
「それに、私は上杉家が信濃国を獲るのは賛成なのだ」
「はあ? どういう意味だよ?」
土地を譲るに近しい発言に才蔵は眉をひそめた。
成政は「もっと大局を見据えたほうがいい」と教える。
「上杉家が信濃国を獲るとなれば、領地を攻め入られる可能性があるのは徳川家だけではないだろう」
「……まさか、織田家ですかい?」
驚愕した長安の声に才蔵も驚く。
成政は「信濃国を中心に織田家と上杉家を争わせる」と続けた。
「今、両者の関係は良いものとは言えない。きっと戦が多発する。しかも足利家の働きかけで動くかもしれない……そう考えたら下手に信濃国に手を出すのは危険だ」
長安は「火中の栗を拾うより、甲斐国を優先したほうが賢いですね」とまとめた。
「そういうわけで、今しばらく我慢してくれ、才蔵」
「殿に言われたら我慢っつーか、治安を良くするのに尽力するけどよ。殿はいずれ、信濃国を獲るつもりなのか?」
「明言はできん。これからどう情勢は変わるのか読めないからな」
成政はそう言うものの、心の中では信濃国を獲ることを念頭に入れていた。
五カ国の領地を持つ大名となれば織田家でも容易に手出しできない勢力となる。
その上、成政はその次の目標を見据えていた。
信濃国から上杉家を追い払った後、目指すのは――関東だ。
◆◇◆◇
さて。成政が甲斐国を治めて一年が経つと大きな変化が起こった。
税収を少なくし、特産物を無税とすると百姓が銭を持ち出した。
それ自体は悪いことではない。むしろ国が豊かになる兆候である。
けれども、由々しき事態が発生する――悪徳商人による詐欺だ。
「なに? また百姓が騙されたという訴えが出たと?」
「ええ。何でも高価な茶道具だと言われて買ったものが、ただのタン壺だとか耳かきだとか……」
与力としてやってきた本多正信と佐々家家老の大蔵長安は揃って困った顔になっていた。
銭を持ち暮らしに余裕が生まれると、人は何をするか――娯楽を求めるのだ。
多忙な農繁期はともかく、余暇が出ると退屈しのぎに何かしようと考える。
そこに目を付けた商人が当時の流行である茶の湯を流行らせ始めた。
茶の湯とは作法に則り決められた所作に美しさを求めるのが良しとされた。
傍目から見れば洗練された動きというのは格好いいものである。
自分もやってみたいと思う百姓は多かった。
しかし所詮、目の肥えていない素人である。価値や真偽の分からない者は悪徳商人の口八丁手八丁で騙されてしまう。前述したとおり、茶道具の詐欺が往来することになった。
「銭が動くのは喜ばしいことだが……百姓が騙されるのはいただけない。長安、お前ならどうする?」
話を振られた長安は「あっしなら茶道具の統制を行ないます」と答えた。
「露店などを禁じてきちんとした商家で売買する。それしか方法はないでしょう」
そこへ正信が「私も同意見ですが、危惧することがあります」と言い出した。
「いくら禁じてもこっそりと売る者はいますし買う者もいます」
「正信さまの言うとおりですが……それでは対策は難しいですよ」
成政は腕組みをして「仕方ないな」とため息をついた。
「二人とも考えてほしい。騙された者が望むものはなんだ?」
「そりゃあ価値ある茶道具でしょう」
「次点に目利きの腕ですな」
「それらは一朝一夕に手に入るものではない。ならばこうすればいい」
厄介なことになったと成政は笑った。
「私が御用達にしている商家を作ろう」
「……ううん? どういうことですかい?」
賢い長安でさえ、意図が分からないらしい。
正信は分からないまま「もしかして、信頼を作るんですか?」と問う。
「そのとおりだ。甲斐国の国主である私がいつも使っているという茶道具ならば信頼が生まれる。そしてその茶道具を買っている商家ならば偽物を売っているわけがないと考えるだろう」
偽物を駆逐するためには本物を作ればいい。
そしてその本物とは信頼のおける茶道具のことだ。
「しかし、佐々様は茶の湯をたしなまれるのですか?」
「ほんの少ししか携わっていない。できないことはないが……」
「では京か堺から著名な茶人を呼び寄せましょう」
長安の提案に「ああ、そうしよう」と成政は頷いた。
「その手配は今井宗久を通じてくれ。かの者ならば良き方を推挙してくれる」
「かしこまりました」
ここに至って、成政は健全な経済ができていると確信した。
暮らしに余裕ができて、娯楽を求め始める。その次に何が生まれるのか――それは文化である。
文化とは単なる流行の総称ではない。目に見えないものであるが、価値を生み出す源泉となりえるのだ。
そして文化は人を集めモノを創り出す。その結果として金銭が回り、ますます豊かになっていく。その豊かさは暮らしだけではなく心に余裕をもたらすのだ。
そのことを成政は実に理解していた。
茶の湯を勉強しようと考え出したのはそのためだった。
いずれ茶の湯を制する者は戦国を制する。未来知識から分かっていた。
長安と正信に指示を出し終えた後、成政は躑躅ヶ崎城の一室に向かった。
がらりと襖を開けると「元気か、はる」と笑顔で言う。
「あ、お前さま……」
「ここの温泉はどうだ? 足によく効くと思うが」
成政の妻、はるは目を伏せながら「ええ。とても良き湯です」と首肯した。
「ほんの少しですが、足の感覚が戻ってきたように感じられます」
「本当か! それは良かった!」
「……やはり、歩けるほうが良いのですね」
暗い顔になってしまうはるに「いや、その、お前が歩けるようになればと……」と成政は口ごもる。
「甲斐国は温泉で有名だ。湯治をすればきっと治る」
「まさか、そのために甲斐国を?」
「……松千代丸はどうした?」
成政は答えずに自身の息子の所在を訊ねた。
はるは暗い顔のまま「隣の部屋です」と指さした。
「いつもの積み木をしているのか」
「あの子、それでしか遊ばなくなりましたから」
成政は隣の部屋を開けた。
暗い部屋の中で積み木を積んでは崩す。それの繰り返しをする松千代丸がいた。
成政はそんな息子に声をかけずに襖を閉めた。
「……すまない。全て私のせいだ」
「お前さま……」
「お前たちに誓おう」
成政ははるの目の前に座って、真っすぐ目を合わせた。
「幸せにしてみせる。お前と松千代丸を。必ずだ」
はるは胸がいっぱいになる。
こんな役立たずの自分を正室のままにしてくれている。
松千代丸のことを見放さずにくれている。
私はいったい、何をしているんだろうか。
自害したほうがいいんじゃないだろうか。
そんな考えが去来する中、はるは自分の夫に嘘をつく。
「ええ。信じていますよ、お前さま」