甲斐の国主
成政の策により、武田勝頼は甲斐国の岩殿城ではなく信濃国の高遠城へ退却した。理由は城主の小山田が徳川家に降伏したからだ。これにより、成政は堂々と武田家の本城、躑躅ヶ崎館に入ることができた。
徳川家の軍勢を甲斐国の民は大いに喜び歓迎した。善兵衛たち忍び衆の働きで徳川家は善政を敷くという噂が流れていた。それを信じた彼らは何の抵抗もなく新しい支配者を受け入れた。
「殿に報告した後、甲斐国の平定を進める。国人や地侍を臣従させるのが肝要だ」
躑躅ヶ崎館の評定の間。
先手旗本衆を集めて今後の方針を成政は話す。
すると榊原康政が「信濃国に攻め入らないのですか?」と訊ねた。まだ武田勝頼は生きている。捲土重来でもされたら事だと考えての発言だろう。
「殿から仰せつかったのは甲斐国の平定だ。勝頼の首ではない」
「ええまあ。道理ですけど」
「まずは足固めだ。甲斐国を豊かにするのだ。そのための策は十二分にある――長安」
末席に控えていた大蔵長安が「こちらをご覧ください」と全員が見える位置に地図を広げた。
「僭越ながら説明させていただきます。かの武田信玄が築いた堤は不完全ですが、改良すれば農地が広がります。また金山にはまだ金が潤沢にございます。これらを用いれば国は栄えるでしょう」
「……ならば何故、甲斐国は貧しいんだ?」
本多忠勝の疑問に一同は頷いた。
服がほつれて痩せこけた百姓が山程いた。商人ですら目抜き通りに奢侈な品物を並べられない。この館でさえ財物は少なかった。
「甲斐国が貧しい……それは米が上手く育たない土地だからか? それとも民の様子を見て感じたことか?」
「……後者だ。民は徳川家の支配を望んでいた。武田家を追い出した我らを歓迎していた」
「そのとおり。棟別銭などの重税に苦しみ、商人が物を売ろうにも買う側の民に銭や米がないため商業が発展しない。商業が発展しないので重税するしか国が成り立たなくなる。この悪循環で徐々に貧しくなっていったのだ」
成政の説く話は算術に明るくない三河武士でも分かりやすいものだった。
康政は「ではどうすれば豊かになるのですか?」と問う。
「先ほどおっしゃった堤や金山を利用すれば良いのですか?」
「まずは税を下げよう。民の暮らしが豊かになることを前提とした政をする」
これには康政も忠勝も、他の武将も拍子抜けした気分になった。
三河国に工場を作った成政にしては地味な内政策だったからだ。
それを敏感に察した成政は「次に行なうのは」と続けた。
「特産品生産の奨励を行なう。長安、甲斐国の名産品は?」
「ははっ。葡萄や梨などを他国と交易しております」
「他にも特産品を作れれば良いが、一先ずはこれで良かろう」
よく分かっていない一同に対して「特産品には税をかけない」と成政は晴れた空を見上げるような口調で言う。
「つまり百姓の取り分となる。それがどうなるのか分かるか?」
「いえ……税を取らぬのなら我らの稼ぎにならないのでは?」
「康政殿。暮らしが良くなれば人は何を望む?」
その問いに康政は何も答えられなかった。
「望むのはより良い暮らしだ。百姓が米や銭を多く持つと商人から物を買う。商人が物を売買できるのであれば人が自然と集まる。その人々を上手に使えば農地や鉱山が開発できる。そして甲斐国という土地に根付くことになる」
もはや一同の理解を超えた話となった。
成政は「殿からの命令を待ってからこれらの施策を行なう」と言う。
「既に書状は送ってある。それまでは皆には治安維持のための見回りや兵の調練、兵糧の確保をしてもらいたい。他に意見はあるか? 無ければ解散としたい」
◆◇◆◇
成政が正式に甲斐国の国主に任じられたのは四日後のことである。
家老の石川数正が家康からの書状を読み上げて、一同に知らせると全員が驚いた。
「まさか、佐々様に甲斐国の一職進退を与えられるとは……」
「国主、つまり大名ということではないか……凄まじい」
皆がざわつく中、石川は「大した出世だな」と成政に告げる。
「外様から一国の主。ま、徳川家に尽くした功績を鑑みれば妥当と言える」
「ありがたきお言葉」
うやうやしく成政は頭を下げた。
「それで、殿のご命令はいかに?」
「甲斐国の領土発展、および守備だ」
「ほう。信濃国に攻め入らなくてもよろしいのですか?」
「分かり切ったことを聞くな。甲斐国を押さえたとしても、信濃国を攻めとるには不十分だ。当分は内政に力を注ぐがいい」
成政の傍で控えていた長安だけが気づいていた。
全て成政の思い通りになっている。
甲斐国を手中に収めただけではない。その後の方針まで意のままに操っている。おそらく家康にあてた手紙に頼んであったのだろう。
自分の主君とはいえ、恐ろしいと長安は改めて思う。
主従関係を超えた信頼関係を築いているだけではない。
もはやどちらが主か従か分からなくなっている――
「承知いたしました。甲斐国を豊かにしてみせます」
「与力として本多正信が来る。その者と共にこの地を発展させよ」
聞いた成政はにやりと笑った。
石川は実に悪い顔だなと身震いする――
「……佐々殿。一つ訊いてよろしいか?」
「はい。なんでしょうか?」
「何故、民に恨まれていないのだ? いや、武田家が重税を課していたとはいえ、慕う領民もいるはずだ。それなのに、怨嗟の声が全く聞こえぬ」
その発言に一同はハッとした。
今まで数日、甲斐国で過ごした彼らは丁重に民から扱われていた。
徳川家との戦で親兄弟を亡くした者も多いはず――
「私も不思議に思っています。武田家は甲斐源氏の名門。慕われる理由は百を超えるでしょう」
「答えになっていないな……貴様、何かしたのか?」
冬山のように険しい顔の石川に対して「風の噂ですが」と成政は飄々と言う。
「我らの支配を受け入れなかった商人や国人は――謎の病で寝込んでいるそうですよ」
「……なんだと?」
「中には峠を越えられなかった者もいるとか。何とも私たちに好都合なことですね」
そんな偶然あるか――言いかけて石川は己の口を塞ぐ。
成政には腕の立つ忍びが大勢いる。
その者たちに命じたのだと石川は気づいた。
かつて、今川家の武将である朝比奈泰朝を暗殺したように――
「私、その者たちの見舞いに行こうと思うのですが。彼らは歓迎してくれるのでしょうか……」
「き、貴様は、なんということを……自分が何をしたのか、分かっているのか!?」
一同の中には気づいていない者もいる。だから理解できずに怪訝そうにしていた。
石川のように気づいた者もいるが、口を噤んでいる。明言すれば自分がそうなるかもと臆しているからだ。
「石川殿。質問は一度ではないのですか?」
「……この悪鬼め! いいか、貴様に言っておくぞ! そのやり方を続けるのなら、いずれ大きな天罰を下ることになる!」
「あははは。それは楽しみですな」
成政は愉快そうに笑った。
一同は底知れない成政の悪辣さに声を出せなかった。
薫陶を受けた忠勝と康政さえ、擁護できなかった。
ただ一人、長安だけが恐怖ではなく安心を覚えていた。
非情にならねば一国を治めることはできない。
苛烈な判断を求められる局面でも成政ならば下せると確信した。
背筋にうすら寒い感覚を覚えながらも、長安は己の主君が見据えた未来を作ろうと心に誓った。
まずは期待に応えるため、農地を拡大し民の暮らしを豊かにするのだ。
「この身に天罰が下るのならば幸いです。徳川家に降りかかる厄災は全て私が引き受けましょう。そして乗り越えてみせます。何故なら――」
実に悪そうな笑みのまま、成政は告げた。
「――私には一切を息災とする力がありますから」