現実を見据えて
信長の予想通り、安祥城は今川家の手に落ちた。一度は退けたものの、二度に渡る猛攻には耐え切れなかったのだ。
「親父。兄貴は見殺しにするべきだ。人質交換に応じる必要はない」
すぐさま末森城の評定の間に訪れた信長は、父の信秀にそう進言した。それほど、竹千代の抑止力としての価値は重要だった。
「ならん。信広と竹千代は交換する」
これもまた信長の予想通りだが、信秀は断固として交換に応じる形を取った。身内に甘いなと信長は思ったが、ざわめく家臣たちを余所に「理由を聞かせてくれ」と言う。
「信広を見殺しにすれば、織田弾正忠家に信義が無くなる。信義の無い者について来る領民や家臣はおらん」
実に信秀らしい言葉である。邪魔な上役や主君を直接的に害そうとするやり方を良しとせず、他国との戦に勝って勢力を伸ばそうとする方法で上に立とうとする。それは信秀の美しさであり、限界でもあった。
「信義? そんなものは強大な力の前では何の役にも立たん!」
信長が憤るのは当然のことだった。家臣が主君を凌駕し、国を牛耳るのがまかり通っていた下克上の世の中に、信義などありはしないと彼は知っていた。人間が道徳的に生きるものであれば、そもそも戦国乱世などありえない。
つまるところ、信長は信秀に無いものを持っていた。従来のやり方への疑問視とそれを改善できる柔軟な発想だった。それは理想主義とは違うものだった。言うなれば現実を見据えた改革者だった。
「言葉を慎め! お前、自分が何を言っているのか、分かっているのか!」
信秀は怒鳴るだけでは飽き足らず、上座から下りて信長の前に来て、思いっきり殴った。
信長はたたらを踏んだが倒れることはなかった。しかし衝撃は大きかった。殴られたことではなく、自分が倒れなかったことが原因だった。
「お、親父……」
「下がれ! お前の顔など、見たくはない!」
息を切らした信秀と対照的に静かな信長。親子はじっと見つめ合って――
「……御免!」
信長はそのまま、踵を返して去っていった。その様子を見ていた家臣たちはざわめく。
「やはり噂どおり、うつけであったか……」
「後継ぎはやはり、弟君の信行様のほうが良いではないだろうか?」
「然り。このままだと織田弾正忠家は滅んでしまう……」
口々に言う家臣たちを叱咤することなく、信秀は内心、信長の意見が正しいことを認めていた。長男を取り戻さずに領民や家臣に離れられるよりも、竹千代が今川家に行くことのほうが危ういと分かっていた。今川家が三河国を併呑してしまうきっかけになるからだ。
「……老いたな。わしも」
その呟きはその場にいる家臣の誰にも届かなかった。
◆◇◆◇
「若様。いかがでしたか?」
信長のお供をしていた内蔵助が、末森城から出てきた信長に首尾を聞いた。信長は内蔵助が用意した馬にまたがり「親父は俺の意見を聞かなかった」と端的に答えた。
「竹千代は今川家に送られる。残念だ」
「……そうですか」
「しかしそれよりも残念なことがあった」
内蔵助は信長の表情がいつもよりも暗いことに気づいた。深く落胆していて、まるで喧嘩に負けた子供のようだった。
「何が残念だったのでしょうか?」
「さっき、親父に殴られた。だが俺は倒れなかった」
内蔵助は殴られたことが残念ではないと分かっていた。だから信長の次の言葉を待つ。
「普段なら床にぶっ倒れて、顔も青痣ができていた。しかしそうならなかった」
「……お屋形様の体調のせいですか?」
信長は「察しがいいな。素晴らしい」と手放しに内蔵助を褒めたが、決して笑顔ではなかった。内容が自分の父親の体調の悪化なだけに、普段のように楽しげな雰囲気にならなかった。
「病がちになっているのは分かっていたが、あそこまで弱っていたとは……」
「…………」
「内蔵助。もし、お前なら兄を見捨てるか?」
内蔵助はしばし考えて「親しい者を見捨てる決断はなかなかできぬと思います」と答えた。
「しかしながら、若様のおっしゃること、お考えになられることは、理解しております」
「で、あるか」
「時には非情にならねばならぬことも……若輩者ではありますが、分かります」
その結果、兄が死んだとしてもやるべきことはやったと信長は思うだろう。決して褒められることではないが、少なくとも国や領民を危険には晒さないやり方だった。
「……内蔵助。ついて来い」
信長はゆっくりと馬を走らせた。内蔵助も馬にまたがって「いずこへ参られますか?」と問う。信長は無表情のまま「熱田へ行く」と短く言った。
「竹千代を那古野城に軟禁する。決して今川家に渡さぬ」
「なっ……!?」
内蔵助は心から驚いた。そんなことをしてしまえば歴史が変わってしまう。
しかしついて行くほかない。早足で駆け出した信長を追いつつ、どうやって説得するか、内蔵助は頭を悩ませた。
◆◇◆◇
熱田の加藤家の屋敷。信長は大声で「竹千代! どこにいる!」と言いつつ廊下を歩いていた。すると見張りの者が二人いる部屋を見つけた。
「そこに竹千代はいるな?」
「……若様。ここは通せません。お屋形様のご命令です」
二人が深く頭を下げた。信長は黙ってその二人を見つめて「親父も手が早いな」と笑った。
そして次の瞬間、抜刀して見張りの一人の喉元に切っ先を突きつけた。
「どかぬなら――殺すぞ?」
場が緊張感に包まれる。突きつけられた男の全身から汗が噴き出た。口をパクパクさせて何とかしようとするが言葉が出ない。
「わ、若様――」
「内蔵助!」
もう一人の見張りが思わず短刀を抜こうとしたのを、信長は見逃さなかった。内蔵助は素早くその見張りに近づいて組み伏せた。関節を決めているので、逃れられない。
「最後だ。どけ」
「ひ、ひいいい!? 若様、どうかお慈悲を――」
刀を突きつけられた見張りの叫びを無視して、信長は斬り捨てようとした――
「待ってくれ、信長殿」
がらりと部屋の襖が開いて竹千代が出てきた。顔面が真っ青だった。おそらくやりとりを部屋の中から聞いていたのだろう。
信長は「さっさと行くぞ」と竹千代に命じた。刀は納めない。
しかし竹千代は首を横に振った。
「私は――今川家に行く」
「……なんだと?」
「信長殿は私をどこかに監禁して、人質交換を破談しようとしているのだろう?」
竹千代も自身の進退について熟考していたらしい。その上で信長が取りそうな行動を予測していた。
「……よく分かったな」
「人質となって、信長殿と知り合って二年が経つ。そのぐらい私も読める」
「ならば断った時点でどうなるか、分かっているな?」
「ええ。私を斬るつもりだろう?」
その言葉に内蔵助は「そ、そんな!?」と思わず声をあげた。
「若様! それは――」
「三河国を今川家のものにするくらいなら、私を斬ってしまえ。そう考えている」
「そうだ。以前は殺さぬと言ったが、気が変わった」
竹千代は「しかし私を斬れば、松平家は復讐のために今川家に味方するかもしれない」と冷静に言った。顔には汗一つかいていない。
「まあ信長殿のことだから、その対策は打っているとは思うが」
「……やはりお前は面白い」
信長はそう言って、切っ先を見張りではなく、竹千代に向けた。見張りはとっくに腰を抜かしていた。
内蔵助は必死になって考えた。竹千代を生かしておく理由さえあれば、信長は斬らないだろう。しかしその理由を内蔵助は未だ見つけられない。未来を知っているから、ここで竹千代が将来、織田家の助けになることをそれとなく言わねばならない。しかしだからこそ、伝えるのが難しかった。それに信長は筋道を立てて話さねば納得はしない。
自分の持っている前世の記憶を使って、内蔵助は考えた。そして刹那に等しい極僅かな時間で、極限状態の中、導いた結論は――内蔵助自身予想だにしないことだった。
「ここで竹千代様を殺せば、若様は家督を継ぐことはできません!」
その言葉に信長と竹千代は注目した。内蔵助は早口で語る。
「ここでお屋形様の意に反して竹千代様を斬ると信広様も処刑されます! さすればお屋形様が激怒なさるのも必至! 若様を廃嫡なさって別の者に継がされるでしょう!」
言葉がつっかえたら竹千代や自分が殺されると思った内蔵助。
信長は「……それはお前の推測ではないか?」と無表情で言う。
「そうなると決まったわけではない」
「しかし可能性はあると思います! どうか、ご一考願います!」
内蔵助は見張りの者を離して、その場に土下座した。
これしか方法が無かった。必死に哀願するしか――
信長は竹千代と内蔵助を交互に見た。
そして出した結論は――
「なるほど。確かに道理である」
信長はどこまでも現実を見据えていた。だからこそ、内蔵助の言葉がありえると分かった。刀を納めて、それから竹千代に言う。
「すまなかったな。殺そうとして」
「…………」
「竹千代。お前、今川家に行って何をするつもりだ?」
竹千代は深呼吸した。流石に今のやり取りは緊張したようだった。
そして彼は言う。今川家へ行く目的を――