甲州攻略、開始
織田家が浅井家と朝倉家を滅ぼした数ヶ月後、成政は甲斐国を攻めるため駿府城に入った。二万四千の大軍勢で一気呵成に攻め落とすつもりだった。無論、家康の許可は出ており、他の家老からの反対も無かった。
理由は武田信玄が死に後継者が定まっていない状況だからだ。最有力とされている武田勝頼には反対勢力が多い。敵対していた諏訪家の出ということや本人の性格も由来しているようだ。攻めるには好機であると誰もが思った。
「まず甲斐国の南にある下山城を攻め落とし、攻略の拠点とする。そこから本拠地の躑躅ヶ崎館を狙う。各々万事油断なく務めを果たしてもらいたい」
成政の徳川家の武将に指示をする手順に淀みはなかった。手慣れていると言ってもいい。信長のそばで軍議のやり方を見続けていたのが活きている。
また武将たち――本多忠勝や榊原康政、他の諸将も素直に聞き入れていた。
武田信玄を討った実績が大きいが、これまで成政が行なったことに間違いがないことも原因である。三河国を工場で豊かにしたことも、成政の策で遠江国と駿河国を手中に収めたことも彼らの評価に値するのだろう。
「長安と才蔵。それと善兵衛も来てくれ」
駿府城の奥の間に三人を呼び出した成政は着座するやいなや「お前をはじめとした忍び衆にやってもらいたいことがある」と善兵衛に告げた。
「噂を流してくれ。徳川家が甲斐国に攻め入る。そのため武田家はさらに税を課すと」
「ありゃ? 武将の仲を裂くのではなく、民を離反されるのですかい?」
長安が不思議そうに言う。
有効ではあるが、実際に攻めやすくかどうかは微妙だと彼は判断した。
「まあ待て。続けて徳川家の領地は少税であり、仕事や農地が有り余っているとも流すんだ」
「もしかして、民を引き抜くおつもりですか?」
「以前、お前と出会った頃は民が重税で苦しんでいた。今もそうならば食いつくだろう」
長安は「流石にあくどいですね」と愉快そうに笑う。
才蔵はよく分からない顔をしている。
善兵衛は張り付いた笑顔で聞いていた。
「民こそが国の根幹だ。それを奪われるのはさぞかし痛かろう。それに徳川家が攻めることは真実だから重税のことも信じるに決まっている……やってくれるな、善兵衛」
「へえ。お任せください。他に任務はございますか?」
「今のところはない。噂が十分浸透したと思ったら帰ってきてくれ」
聞き終えると「かしこまりました」と頷いて善兵衛はすっと姿を消した。相変わらず凄まじいほど素早いなと成政は感心した。
「長安は今のうちに内政策を考えてくれ。どうすれば甲斐国が豊かになるか、町割から草案してもらいたい」
「良いんですかい? 家康様はご承知なんですか?」
「これは内々の話になるが……甲斐国を治めるのは私だ」
いきなりの報告に長安と才蔵は目が点になった。
しかし才蔵が「国主になるってことか!?」と大声を上げた。
「そいつはすげえ! おめでとう、殿!」
「気が早い。まだ攻め落とせていないぞ」
「その割にはあっしに町割を決めさせるんでしょう? 殿も才蔵のこと言えないですよ」
長安のおどけた言葉に「それもそうだな、あっはっは」と成政は笑ってしまう。
「そんで俺はどうするんだ? めでたい話をするためじゃねえよな?」
「才蔵には私の補佐として甲斐国を攻めてもらいたい。ま、黒羽組の総指揮を任せたいのだ」
思いの外の重役だったが、才蔵は怯まずに「良いぜやるよ」と二つ返事で引き受けた。
「よくぞ言ってくれた。これでかなり助かる」
「しかし、甲斐国を攻め落としたとしても家臣が少ないですよ。もっと雇ってもらえませんか?」
「寄騎として本多正信殿を考えているが……そうだな、多いに越したことはない。積極的に登用しよう」
新たに方針を定めて満足げな成政に「だけどよ、このまま攻めてもいいのか?」と才蔵が柄にもなく弱気に言う。
「勝頼が武田家家中をまとめてないとはいえ、四名臣は健在なんだろ? そいつらがいる限り、武田家の脅威はあるんじゃねえか?」
才蔵は年若いが武人である。それに四名臣の一人、山県昌景とも戦っている。ひしひしと彼らの強さを感じ取っていた。
「戦のことになると鋭いな。お前の言うとおりだよ。四名臣はかなり厄介だ」
「それなら長安の兄さんが言ったみたいに噂を流すとかすればいいだろ」
「それよりも効果的な一手がある」
成政は悪そうな笑みを浮かべた。
長安と才蔵はまた出たよと呆れている。
しかしこの顔になればぴたりと策がはまることも知っていた。
「四名臣が各々擁立した当主を立てようとしている。それも徳川家と組んで――そう言った内容を書いた書状を送るのだ。もちろん、武田家家臣の名を騙ってな」
「そんなもん、信じる奴はいますかね? それに勝頼の耳に入るかどうか……」
「信じて勝頼の耳に入れる者がいるのだ」
未来知識があるゆえに確実に成るであろう策略だと成政は知っていた。
「長坂釣閑斎――あの男ならば必ず讒言するだろう」
◆◇◆◇
それからさらに数日後。
成政は駿府城から出陣した。
すると道中、民が群れをなして軍勢に助けを求めてきた。
もう武田家にはついて行けない、家を焼いて出てきた、どうか徳川家の領民に加えてくれと泣き叫ぶ声でいっぱいだった。すぐさま成政は民を受け入れ、とりあえず駿河国へ案内させた。もちろん、暴動が起こらぬように兵を同行させるのも忘れなかった。
「信玄の言葉に『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』ってありますけど……これは酷いですね……」
成政の隣で馬に乗っている長安は呆れた顔で言う。
彼もまた武田家の者だったので心中複雑なのだろう。
「善兵衛、やるではないか。褒美を取らせないとな」
「それもそうですが、殿のお考えも凄いですよ。噂だけで民を手に入れたんですから」
「長安、あの日私は言っていなかったが、どうして四名臣の噂を流さなかったと思う?」
ふいに訊かれた長安は腕組みをして「長坂に書状を送ったことで十分だったからじゃないですか?」と答える。
「下手に噂を流すと信じられませんし。出どころ不明の噂ほど信憑性はありません」
「そうだ。民ならば出どころが不明でも、実際に私たち徳川家が出陣することで信じるだろう。しかし、四名臣の噂が民から流れるのは不自然だ」
「誰から聞いたんだって話になりますからね……ああ、なるほど」
長安はぽんと手を打った。
「市井の噂になっていないからこそ、長坂の讒言は効くんですね」
「勝頼はおそらく民の間で流れている風評をこちらの策だと見破るだろう。だがそれならどうして自分と家臣の離間を促すことしないと疑う。そして長坂の言葉が真実だからこそ、そういった噂を流さないのだと――信じてしまうのだ」
「…………」
馬に乗りながら長安は改めて自分の主君に畏れを抱いた。
同時に自分の命を懸けてまで進言したのは間違いではなかったと思えた。
必ず、殿は天下を取る――その思いが強くなる。
そして思い出す――足利家の使者に提示した成政の策のことを。
自分が考えた策よりも悪辣で残酷で卑怯だった。
どういう人生を歩めばそのような考えが浮かぶのか……恐ろしい。
「意外とあっさり、武田家は滅ぶかもしれないな」
「……そうですねえ」
成政の呟きに長安は頭の中で町割を早めに決めねばならないと考えた。
甲斐国の下山城は徳川家の軍勢を見てすぐさま降伏を申し出た。民も降っている状況では勝ち目はないと思ったのだろう。
もはや成政の勝利は揺るぎないものになりつつあった。