それぞれの別離
斎藤龍興は考える――おそらく山崎吉家は死んだだろう。名誉ある討ち死にを果たしたのだ。それは奴にとって幸せなことだ。
翻って私はどうなのだろう。美濃国を追われて朝倉家の客将として朝倉家にいる。このまま朝倉義景を見捨てて逃げて、織田家を討つために戦うのも悪くないだろう。雑賀衆の雑賀孫一とも誼を通じている。この場から離脱して紀伊国に向かうのも一つの策だ。
だが――それはしない。というよりできない。
何故ならば私は朝倉義景と山崎吉家に恩義があるからだ。
元国主とはいえ、流れ者の私に屋敷をくれ、武将としての体裁を作ってくれた。
利用するつもりでやってきたが――情が移ってしまったようだ。
それにあの前田利家との決着をつけなければならない。
気持ちの良い爽やかな性格である因縁の好敵手。
信長以上に倒したい――
そう考えた龍興は義景に逃げろと言って刀根崎に残った。
義景はお前も逃げろと言ったが、龍興は返答しなかった。
ただ笑ってその場に踏みとどまった。
「それでは、最後の足掻きを見せよう」
龍興が覚悟を決めたとき、利家は彼が来ることが分かった。
朝倉家の兵を倒しながら、信長を守りながら、今か今かと待っていた。
そして、そのときがやってくる――
「敵の一軍がこちらに迫ってきます! 勢い凄まじく――」
伝令が焦った口調で信長に告げる。
そばにいた利家は「ついに来やがったか」と槍を構え直した。
「殿、俺が出ます。少し待ってください」
「であるか。利家、油断するなよ」
馬上のまま信長はその場に留まった。
下がるつもりはないらしい。それほど利家を信頼していた。
「赤母衣衆! 馬廻り衆! あの軍勢を止めるぞ!」
戦場に響き渡る咆哮のもと、利家率いる軍勢が龍興の軍勢とぶつかった。
殺し殺される空間の中――利家と龍興は出会った。
馬に乗った互いのことを認識した瞬間――突貫した。
利家は迫りくる朝倉家の兵をなぎ倒しながら龍興に迫る。
龍興もまた槍を握り直して、利家に接近する。
言葉は交わさない。殺し合いの末、百を超えたやりとりに勝るものを彼らは共有していた。
最初に槍を繰り出したのは龍興だった。
真っすぐに利家の左胸を突いてきた。当たれば致命傷である。
しかし利家は分かっていたように槍で払ってくる。上から下へ押さえ込むようにだ。
龍興の姿勢が崩れてしまう――利家は槍を素早く横に払った。槍術というより力任せの攻撃である。槍の柄が龍興の腹を強打した。
「うぐ、ふ、が……」
声にならない嗚咽を上げて龍興は落馬した。
あばらの骨が何本か折れている。
利家は馬から降りた。そして槍を構える。
「もう終わりか? ――斎藤龍興!」
挑発ではなかった。
むしろ立ち上がってくれという願いも込められていた。
こんな終わりでは、元とはいえ、美濃国の国主の名に恥じる。
「まだまだ、これからだ――前田利家」
口から血を吐き、満身創痍ではあるが、闘志は漲っている。
彼もまた槍を構え直した。
そこからの攻防は凄まじいものだった。
龍興は重傷を負っていても、利家の槍を見事にさばく。
しかし、それにも限界は訪れる。
利家は叩くように槍を上から振り下ろした。
咄嗟に龍興は槍で防ぐが――みきみきと音を立てて折れてしまう。
利家の槍もまた、衝撃で同じく折れてしまった。
「龍興ぃいいいいいいいい!」
龍興は抜刀するが、折れると分かっていた利家のほうが早かった。
刀を龍興が構えるよりも――素早く袈裟斬りした。
吹き出る血が龍興の絶命を示した。
「もはや、これまでか」
膝を突きそのまま横たわる龍興を無感情な目で利家は見つめる。
喜びや嬉しさ、あるいは悲しみが入り混じって、どう表現していいのか分からない。
「お前さ。すげえよ。よく戦ったぜ」
「…………」
利家は刀を構えた。
龍興は目を閉じた。
「何か言い残すことはないか?」
「……ない。満足だ。私は、満ち足りたよ」
それはかつての斎藤道三の最期の言葉と似ていた。
「左様ならだ、前田利家」
「ああ。また会おうぜ、斎藤龍興」
利家はとどめを刺した。
取った首は満足そうな顔をしていた。
◆◇◆◇
信長が一乗谷城に進軍した頃、朝倉義景は既に死んでいた。
同じ一族の朝倉景鏡に裏切られて切腹したのだ。
これで越前国は織田家のものとなった。
信長は越前国を旧朝倉家の家臣たちに任せてすぐさま南下した。
まだ浅井家との決着がついていなかったからだ。
「義弟との戦いもこれで終わりだな……」
寂しげに呟く信長の横顔に利家は何も声をかけられなかった。
信長の実の弟である織田信勝のことを思いだしたのだ。
小谷城の本丸まで攻める直前で、信長は使者を出す。
妹のお市を救うためだった。
「不破光治、前田利家を交渉の使者とする」
その決定に諸将は驚いた。
不破光治は何度も浅井家と交渉してきたので、使者として適任である。
しかし外交上手とは思えない利家がどうして重要な場に同席するのか……
「利家。交渉自体は光治が行なう。お前はお前の務めを果たせ」
「……ははっ。かしこまりました」
利家は己の務めがお市と交渉役の光治を命がけで守ることだと思った。
二人は本丸に向かい、浅井家当主である浅井長政とその妻お市、そして家臣が居並ぶ部屋に通された。
「もはや織田家の勝利は目前。お市様をどうかお返し願いたく存じます」
光治は斎藤家に最後まで仕えた骨のある武人だ。
こうした交渉は度胸が無ければ務まらない。
「そう、ですね……お市、ここでお別れです。今までありがとうございました」
「…………」
長政の枯れ木のような声にお市は何も返さない。
利家がお市と会ったのはこれが初めてではない。
毎回、信長の母である土田御前を思い出してしまう。
「織田家の元へ帰りなさい。娘たちのことは頼みましたよ」
「……身勝手な人ですね」
お市はそれだけ言って立ち上がった。
そして長政に向けて乾いた笑みを見せた。
「娘のことは任せてください。それでは」
このとき、利家は違和感を覚えた。
声に悲しみが混じっていない。
もしかすると――
「お市様。それでいいんですか?」
「ま、前田殿、何を……?」
驚いたのは光治である。
せっかく交渉がまとまったときに、唐突に言い出したからだ。
利家は「言いたいことを言わないと後悔しますよ」とさらに続ける。
「言いたいこと? そのようなことはありません」
「本当ですか? ……なら浅井長政って男はたいしたことなかったんだな」
その言葉に浅井家家臣たちはいきり立った。
部屋中が殺気立つ。
お市もまた「……どういう意味ですか?」と声を強張らせた。
「奥方にあっさりと見捨てられるような男だって言いたいんですよ。今生の別れなのに泣かれもしない。後を追いますとも言われない。情けねえ男だ。ま、政略結婚だから仕方ねえか」
「……黙りなさい」
「それもそうだよな。殿を裏切って姉川ではボロ負けして、挙句の果てには浅井家を滅ぼしちまったんだからよ。呆れた大名だぜ――」
ぱあんと、お市が利家の頬を叩く音が広がった。
はあはあと呼吸を乱して、お市は――泣いていた。
「黙りなさいって言ったでしょう!」
「それは聞けない相談ですが……どうして泣くんですか? 言いたいことはないのでは?」
「言いたいこと? ……あるに決まっているじゃないですか!」
お市は長政に向き直り「別れたくないです!」と縋りついた。
「今からでも兄さまに助けてもらいましょう! 一緒に生きてほしいのです!」
「お市……」
「私は、あなたと共に生きたい! それが叶わないのなら、一緒に死にたいのです!」
長政は悲痛に満ちた顔で「それは無理です」とお市の頭を撫でた。
「義兄上は決して私を許さないでしょう。それに死んでいった家臣たちのため、ここにいる家臣たちのために死なねばなりません」
「そんなの、嫌!」
「私は、お市と出会えて幸せでした。今もこうして愛されていると実感できて嬉しいですよ」
泣き崩れるお市を抱きしめて「あなたに感謝します」と利家に言う。
「お市の本音を引き出してくれてありがとうございます。言わなかったら彼女は後悔していたでしょう」
「いや。余計なことしちまったよ。だけどさ、俺はあんたのことすげえと思っているんだ」
「ほう。どうしてですか?」
「一度は殿を追い詰めたからな。あんな窮地は尾張国を統一する前にもなかったんだぜ」
お市が泣きやむまで利家と光治は待った。
そしてお市が「ご無礼しました」と利家に頭を下げた。
「いえ、俺のほうがご無礼しました。申し訳ございません」
お市は泣きはらした顔で微笑んだ。
この人はこれから幸せになってほしいなと利家は思わずにいられなかった。
お市と三人の娘が本丸から出ると、信長は総攻撃をかけた。
浅井長政は切腹し、浅井家は滅んだ。
こうして信長は強大な二つの大名家を滅ぼして畿内における存在感を示した。