殿に懸ける
足利義昭からの書状は成政をひどく動揺させた。義昭が信長を倒そうとしていると分かっているからだ。目的を知っている以上、かの公方の狙いは知れたものだったが、成政は歴史が大きく変わるのを目の前にしてしまった。
「……公方様の書状には信長殿の勝手は許しがたいと書かれている」
使者は別室にて待つようにと成政は丁重に接した。この場にいるのは成政を除いて大蔵長安と可児才蔵だけだった。
「つまり……殿に織田殿と戦えと?」
おそるおそるという風に長安が言うと「正確には徳川家を動かして、だな」と成政は補足した。
「足利家の権威を利用している信長殿は目に余るとも書かれている……ふん、織田家の軍事力を利用しているくせに身勝手なことだ」
「殿はどうする気なんだ? どんな返事をするんだ? 使者をそのまま帰すのか?」
才蔵は成政と信長の関係を知っていた。
だから使者の取り扱いまで言及した。
使者を捕らえて織田家に送る――容易いことだった。
「決まっている。使者を――」
「ちょいとお待ちください。あっしが思うにそれは短絡過ぎます」
待ったをかけたのは長安だった。
いつになく真剣そのものの表情で、成政は「いかがした?」と少し驚きながら訊ねる。
「あっしは……殿なら天下を狙えると思います」
「はあ!? 長安の兄さん、何言ってんだ!?」
「まあ聞け才蔵……殿もお聞きください」
長安は姿勢を正した。
成政も思わず背筋を伸ばす。
「足利家は力が無いものの権威は確かにあります。それは日の本中の民が認めるところでしょう。ですからここでつながりを断つことはよくありません」
「…………」
「あっしは――足利家を利用することを提案しますぜ」
隣の才蔵はピンと来ていない。長安が言葉を選んで話しているからだ。しかし成政には分かる。長安がどのように利用するべきかまで言うのか分かってしまった。
「長安。それ以上のことを話せば――お前自身どうなるのか分かっているのか?」
成政の顔は恐ろしいほど強張っていた。
要は最後通牒である。言葉曖昧に話している今ならば聞かなかったことにできる。しかし核心を突いたことを言えば――成政は長安を処分せざるを得ない。
「……殿。あっしは既に覚悟できております」
無論、自分が成政に殺されるだろうと長安には分かる。しかし長安は自身の命を懸けてでも言わねばならないと決意していた。そうでなければ成政に天下を取らせられない。
自分が奸臣となっていい。佞臣と蔑まれようがどうでもいい。
成政が天下を取る好機なのだ。そのためなら命を懸けられる。何故そこまで覚悟しているのか――長安は成政を尊敬しているからだ。命を懸けるに値する男だからだ。
「足利家を利用して徳川家が織田家に成り代わる。それがあっしの提案です」
長安が言葉を発した刹那――成政は抜刀した。
才蔵ですら反応できない速度だった。
刀は長安の首が斬れる直前で――止まった。
ごくわずかな時の中で起こった出来事だった。
「……殿、どうしてあっしを斬らないのですかい?」
緊迫した空気の中、長安は静かに問う。
あまりのことに才蔵は息を飲むのも忘れて二人のやりとりを見ていた。
「逆に問おう。どうして臆さない? 私が斬らないとでも思っているのか?」
「いいえ。斬られると思いました。でも、それでいいと思っちまったんです」
長安はここで穏やかな表情になった。
心より成政に斬られても良いと思っている。
「あっしは殿に懸けたんです。もし提案を聞き入れてもらえなかったら、死んでもいいとさえ思ったんですよ」
「…………」
「だけど殿はあっしを斬らなかった。それは――期待していいんですよね?」
しばらく長安を見つめて――ふっ、と軽く笑う成政。
刀を納めてから「度胸のあることだ」と呟く。
「言ってみろ長安。お前の考えとやらを」
「その前に、才蔵大丈夫か? 息しているか?」
才蔵はその言葉にハッとして――何度も呼吸を繰り返す。
息を吸うのも吐くのも忘れるほど緊張してしまったのだろう。
「ぜーはー! な、長安の兄さん! あんた死んでも良かったのかよ!」
「その覚悟がなければ、殿を説得できないだろうよ……それであっしが言いたいのは――」
「裏で足利家と手を組んで織田家に成り代わる、だろう。しかしはたして今の足利家はそこまで利用価値があるのか?」
長安はにやりと笑って「ありますよ」と頷いた。
「二百年、日の本を支配してきた正統性は民にとって輝かしいものです。形骸化したとはいえ、従わせるにはおあつらえ向きです」
「ではどのようにして織田家に成り代わる?」
「徳川家が東国を支配し、織田家に負けないほどの領土を得ることです」
「難しいことを簡単に言うな。織田家は畿内を制圧しようとしているのだぞ?」
とは言うが成政もそれ以外に方法はないと断じていた。
元々、計画として織田家と対等の立場を徳川家がとるために武田家と戦っていたのだ。
東海道を支配し、甲斐国と信濃国を得れば大大名として確立できる。織田家と言えども簡単に攻め落とせないだろう。
はっきり言ってしまえば成政は織田家との共存を願っていた。
織田家と徳川家、両者が対等の立場でいれば自身に起こる不幸――非業の死を回避できると考えていた。
「機内は制圧できるでしょう。しかしそれ以外の土地を攻め入るのは容易いことではありません」
「……うん? ああ、そうか」
長安の謎めいた物言いを解き明かした成政は納得した顔で言う。
「上杉家や本願寺、毛利家に織田家の進攻を食い止めてもらうのか」
「そのとおりです」
二人は納得しているが、戦略に疎い才蔵は「お、俺にも分かるように話してくれよ!」と焦って喚く。
成政は仕方がないなと説明を始める。
「いいか才蔵。織田家が畿内を制圧したら次はどこを狙う?」
「あん? そりゃあ北とか西とか――さっき言っていた大名家か?」
「ああ。しかし今まで滅ぼした大名家と違って領土も大きく兵力も多い。戦って勝つにしても時間がかかるだろう」
「まあそうだけどよ……」
「時間がかかるということは、私たちが領土を広げる時間ができるということだ」
かなり分かりやすく話したおかげで才蔵も理解が追い付いたようだ。
「うん。分かったけど……そいつらが織田家と敵対するって確実に言えるのか? 徳川家みたいに同盟組んだりしねえのか?」
「可能性はあるな。しかし同盟は組まないと思うぞ」
「どうしてだ?」
これには長安が答えた。
「ここで足利家の出番だ。公方様から織田家を討つべしと諸大名を動かしてもらう」
「あー! だから長安の兄さんは利用価値があるって言ったのか!」
「そうだ。織田家に悟られずに大きな包囲網を作ってもらう。公方様はそういうことを好みそうだ」
そして長安は「ここからが重要なのですが」と成政に進言する。
「徳川家が足利家の信任を得て織田家に成り代われば、殿は天下一の大名の家老となります。殿は家康様のご信頼厚く、また若君も同様です」
「なるほど。それが天下を取る方策か」
「さらに言えば殿は武田信玄を討ったお方です。他の家老よりも地位が上になるのは確実でしょう」
長安が弁舌をもって語っていると「でもよ、殿は元織田家家臣だろう?」と才蔵が少しだけ不安そうに言う。
「かつての主君に弓引くことにならねえか?」
「なるだろうな。直接戦わずとも織田家の天下を邪魔するのだから」
「いいのか?」
成政は「長安が命を懸けて私に進言してくれたのだ」と言う。
「最後まで聞いておいて却下などできぬよ」
「へへへ。そりゃあありがたいですぜ」
「長安の兄さん、度胸あるのに言っていること三下なんだよなあ」
そうは言うものの、成政の胸中には別のことが渦巻いていた。
はると松千代丸のことである。
二人が悲惨な目に遭ってしまった。それを取り戻すためには幸せにならねばならない。
自分だけではなく、家族も幸せにならなければならない。
そのためにはかつての主君に成り代わる必要がある――そう考えた。