宗滴の教え
朝倉家は浅井家を救援するために出陣した。そこには斎藤龍興も従軍していた。彼は内心、今回の戦は厳しいなと感じていた。何故なら筆頭家老の朝倉景鏡らが兵を出すことに反対し、一万の兵しか出兵できなかったからだ。
「山崎殿。こたびの戦の焦点は大嶽砦だ。そこをいち早く獲り浅井家と連携せねば負ける」
「弱気なことを申すな――と言いたいところだが、おぬしの言うとおりだ」
北近江国への道すがら、馬上にて龍興は朝倉家家老の山崎吉家と話していた。
両者とも優れた戦略眼を持っている。だからこそ今回の戦の勝負所を分かっていた。
「もし大嶽砦を占領されたらどうする?」
「退却するしかないだろう。結果として浅井家は見捨てることになる」
「三代に渡って交流のあった浅井家が滅ぶのは心苦しいな」
山崎の感傷に対し「仕方なかろう。朝倉家のためだ」と龍興は言い捨てた。
「私は朝倉家の家臣ではないが――信長に勝つまで戦う所存だ」
「そういえば、未だに客将なのだな。どうして殿にお仕えしない?」
龍興が土壇場で逃げるような人間ではないと山崎は知っていた。
だから純粋な疑問で訊ねたのだ。
「国を追われた大名が英朗な主君に仕える……聞こえが悪いし縁起も悪い」
「気にするのは景鏡様ぐらいだろう」
「だとしてもだ。私にも世間体を気にする気持ちはある」
この場合の世間体とは自身のではなく、朝倉義景のものだ。
改めて義理堅い男なのだなと山崎は見直した。
「私は朝倉宗滴様の教えを受けた人間だ。窮地に追い込まれたら自害よりも一人でも多く倒して死ぬ。その気概で戦に臨んでいる」
「どうした? そんなことは分かっている」
「龍興殿。もし、私が殿より先に死んだら……殿を守ってくれぬか?」
「…………」
二人とも胸騒ぎを感じていた。
山崎が言わなかったら龍興が同じようなことを言ったはずだ。
先を越されたなと龍興は苦笑した。
「承知した。必ず守る」
◆◇◆◇
浅井家の本城、小谷城の近くにある山本山城の城主や兵が織田家に寝返った。
木下藤吉郎の調略である。これで背後を気にせず小谷城を攻められる。
知らせを受けた信長はすぐさま出陣を決めた。三万の軍勢である。
その中には赤母衣衆筆頭の利家の姿があった。
これで浅井家との因縁に決着が着くと気合が入っていた。
虎御前砦に入った信長は朝倉家が大嶽砦に入るのを阻止した。
両者は互いに攻めることをせずに睨み合いとなった。このまま膠着状態になると思われたが――深夜、大雨が降った。
「好機である。大嶽砦を攻め落とす」
信長は大事な戦のとき天候が大雨や嵐となる傾向があった。
そしてそれが信長の有利となることが多かった。
神に愛されていたのか、はたまた彼自身の天運なのかは定かではない。
「殿。軍勢をまとめる時間が限られております。現在、動かせるのは赤母衣衆と馬廻り衆のみです」
側近の堀秀政が進言すると「構わぬ。それだけいれば十分だ」と信長は笑った。
「大嶽砦の兵の数は少ないからな」
「で、ですが――」
堀が止める間もなく、信長は近くに控えていた利家に「行くぞ」と告げる。
利家もまた「承知しました」と笑った。
「最近は大軍勢で攻めることが多かったので、こんだけ少ないのは久々ですね。尾張国を駆け巡っていたあの頃を思い出しますよ」
「であるか。俺も懐かしいと思っていた」
利家率いる赤母衣衆と馬廻り衆は一気呵成に大嶽砦を攻めかかった。
激しい戦闘になる――そう思われたが、あっさりと勝負がついた。
守将は信長が三万の大軍勢で攻めたと思い込んでしまったのだ。これでは勝ち目はないと降伏を申し出た。
すると信長は降伏した将と兵を解放した――朝倉義景に警告するためだ。
大嶽砦は落ちた。
次はお前たちだと――
「義景は愚かではない。大嶽砦が落ちたと知れば撤退するだろう」
信長の予想通り、闇夜に乗じて朝倉家は越前国へと撤退し始めた。
そこを狙わない信長ではない。利家率いる赤母衣衆と馬廻り衆をすぐさま追撃に向かわせた――
「殿は先々を見据えている……まったく敵わねえな」
馬を走らせて朝倉家を追う利家の呟きに、同じく馬を走らせていた赤母衣衆の佐脇良之が「孫子の教えにあるぜ」と言い出した。
「彼を知り己を知れば百戦危うからずってな。義景の性格や考えを完璧に読んで、殿が他の者にどう思われているのか知っている。だから予想がついたんだろうな」
「洒落たこと言いやがる……見えたぜ。敵兵の灯りだ」
利家は馬を止めることなく「全軍、かかれ!」と号令した。
まさか織田家が追撃してくるとは思っていない朝倉家の兵は恐慌状態に陥った。
それは自分たちではなく孤立した浅井家を攻めると思っていたからだ。
奇しくも浅井家を見捨てる決断をした義景は、その裏をかかれて今、滅ぼされそうになっている――
「あれは……しんがりだな。よく防いでいやがる」
利家が注目したのはこちらの攻撃を懸命に防いでいる兵の塊だ。
あそこだけ混乱しているように見えない。おそらくしんがりの指揮官がいるはずだ。
利家は槍を持ちそこへ突撃した。
「おらぁああああああ! 槍の又左推参! 雑兵では相手になんねえぞ!」
大声を上げて名乗ったのは恐れて逃げ出すのを煽るためだった。
その効果は絶大で、利家の姿を見て兵たちは脱走した。
しかし、しんがりの指揮官の周りだけは逃げなかった。
「へっ。よく率いていやがる――すげえな」
逃げ出さないのであれば倒すしかない。
槍を振り回し、迫る兵を寄せ付けず、利家は指揮官へと近づく。
「貴様が! あの前田利家か!」
指揮官――徒歩の山崎吉家が槍を利家に向ける。
他の数十の兵も一斉に向けた。
「おい! 筆頭を死なせるな! 全員でかかれ!」
佐脇が大声を張り上げて利家を援護する。
乱戦となった今、利家は馬上から「俺のことを知っているのか」と訊ねる。
「ああ。龍興殿がお前のことを語っていた……宿敵であると」
「そいつは光栄だな。俺もあいつを認めている……降伏はしねえか?」
一応訊ねる利家に対し、山崎は「悪いがな、私にも譲れないものがあるのだ」と槍を構え直す。
「譲れないもの? それはなんだ? 矜持か? それとも意地か?」
「我が主君、朝倉義景様の期待だ」
「なるほど。そいつは譲れねえな……名乗ってくれや」
利家も槍先を山崎に向ける。
「我が名は山崎吉家! 朝倉家家老の山崎吉家だ!」
「家老自らしんがりか。覚悟ありと見るぜ」
山崎は「わが師、宗滴公はおっしゃった!」と言って、利家に突撃する。
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候! 今、その教えを体現するとき!」
雄叫びを上げながら山崎は槍を繰り出す。
利家は巻き込むように払って――山崎を突き返す。
ざしゅ、という音とともに山崎の頬から血が噴き出した。
「おのれ――なあ!?」
山崎が驚愕するのは無理もない。
槍を握り直した利家は、そのまま――投擲した。
迫りくる長槍を山崎は間一髪躱せた。
何故、武器を捨てた?
奴の狙いは何だ?
その刹那の思考が山崎の命運を分けた。
利家はいつの間にか馬上から降りていた。
そして――山崎の身体にぶつかるようにして組した。
「く、組手、甲冑術――」
「悪いな。あんたができる男だって分かっちまった。だからこの方法しかなかった」
利家は脇差を抜いて――山崎の鎧の隙間を刺した。
身体中が痙攣し、そのまま仰向けに倒れてしまう。
利家は地面に突き刺さった自分の槍を引き抜き、倒れている山崎に向けた。
「俺の勝ちだ。その首もらい受ける」
「……最後まで、油断しないのだな」
「ああ。近づいたら脇差で俺を刺すつもりだろう」
喧騒が次第に小さくなる戦場。
決着はもうついている。
「辞世の句を詠むか?」
「ふ、ふふ、要らぬよ……」
山崎は目を閉じた。
そして若き日の自分と存命だった宗滴のことを思い出す。
「無念だが、悪い人生では、なかった……」
山崎吉家、刀根崎の戦いにて――討ち死。
利家は見届けた後、ある予感を感じていた。
「……斎藤龍興との決着が近いな」