因果は巡る
成政の屋敷は三河武士と同じ区画にはない。ゆえに他の武家屋敷から離れたところにあった。家康が本城を浜松城に移してからも同じ場所にあり続けた。
今回の騒動は成政の屋敷がそうだったから起きたのだろう。馬を走らせた成政が見たのは荒れ果てた己の屋敷だった。塀やと柱が壊されていて、外見からも襲撃に遭ったと分かる。
「――はる! 松千代丸!」
大声で喚きながら屋敷に入ると物々しい出で立ちの兵が屋敷を警護していた。成政のことが分からず警戒したが、すぐに「これは御家老様!」と姿勢を正した。
「はる――妻はどこにいる?」
「……奥の間で休んでおられます」
「そうか。子供も無事か?」
「一緒に居ります。ですが――」
兵の言葉を待たずに二人の元へ向かう成政。その後ろを長安と才蔵がついて行く。
屋敷の中も酷く荒らされていて、壁には血飛沫が散っていた。戦闘の跡が見える。
「良かった。二人が無事で」
「…………」
ホッとする才蔵になにも声をかけない長安。
成政はそんなことに気づかない。
ただ二人に会いたい――
「はる! 松千代丸!」
奥の間に成政は入った。
そこで見たのは、五才となった松千代丸を抱きしめて泣いているはるの姿だった。二人は布団に入って横たわっている。
「はる、どうしたんだ……?」
「お前さま……松千代丸が……」
顔中、涙に覆われているはるは松千代丸を見せた。
なんの感情も無い、まるで人形のように空虚な顔がそこにはあった。
「松千代丸、どうかしたのか?」
「目の前で、この子の乳母は……殺されました」
はるが言っていることが成政には遠く聞こえた。
「もうこの子は泣くこともありません。笑うことも怒ることもありません……」
「そ、そんな、まこと、なのか?」
我が子が感情を失くした――その事実は成政を苛んだ。信じたくない気持ちで心が占められている。
「松千代丸、私だ、父だぞ?」
「…………」
何も話さない。
ただ呼吸しているだけ、ただ存在しているだけの子供――松千代丸。
「……武田家の残党は?」
「全員、打ち首になりました。もうこの世にはいませんよ」
答えたのは長安だった。彼もまた蒼白で血の気の無い顔をしている。その横で才蔵は唇を噛み締めていた。よほど悔しいのだろう。
「はる、お前は大丈夫なのか? どこか怪我を負ってないか?」
成政がおそるおそる訊ねると、はるは泣いたまま告げた。
「足を斬られました……」
「な、なに!? 足をか!?」
「腱を切ってしまいました。もう、歩くことは……叶いません」
感情を失くした我が子と歩けなくなったはる。
成政はこの世が壊れたときよりも重い絶望を味わった。
◆◇◆◇
「奥方のこと、申し訳なく思う」
岡崎城で成政は城主である信康と話していた。成政の屋敷が襲撃されていると聞いて、すぐに兵を差し向けたが、一足遅かったようだ。
「いえ、若様のせいではありません……」
成政は本心から信康のせいではないと思っていた。全ては自分のせいだと分かっていた。
自分が武田信玄を討たなければ、敗残兵が三河国を襲うことはなかった。つまり歴史を変えなければ、はるは歩けて松千代丸は感情を失うことはなかった。
歴史の修正力である。
大きく変えれば、その分変えた者の人生を狂わす。そのことを成政は知らなかったのだ。
そして今も――本当の意味で分かっていない。
「私にできることがあれば申せ。なんでもやる」
「若様にお気遣いいただけただけで充分でございます」
「武田信玄を討ち、徳川家を救った英雄に報いたいのだ」
信康は既に少年ではなく、青年になっていた。以前のわんぱくな子供の様子はほとんど見られなかった。その成長は普段の成政ならば喜ばしく思えただろう。しかし今は――何も思えない。
「こんなときに呼び出してすまなかった。下がっていい」
「……御意」
成政は緩慢な動きで部屋から出る。
そこへ家康の正室である瀬名が通りかかった。侍女を伴っている。何を言えばいいのかと迷っている表情だった。
「奥方様。ご機嫌麗しゅうございます」
「……無理をなさっていますね」
瀬名の指摘に「ええ、そのとおりです」と成政は頷いた。
「あなた様には隠し事はできませんね」
「私、佐々殿になんて申せばいいのか分かりません。そう賢い女ではありませんので」
何をおっしゃる――そう言おうとして止まった。
瀬名は静かに泣いていた。
「己の無力さを恥じ入るばかりです。佐々殿は私を救ってくれたのに、同情しかできないのですから」
「……おやめください」
「そして武田信玄を討って殿を救ってくださったのに、私は泣くしかできない」
周りの侍女がおろおろする中、瀬名は成政に「もう我慢しなくて良いのです」と促した。
「つらい思いをしたならば悲しんで良いのです。耐えきれなくなる前に、吐き出しなさい」
「……それは命令ですか?」
成政の消え入りそうな声に瀬名は黙って頷いた。
ゆっくりと膝をつき――成政は大声を上げて泣いた。
「うわああああ! ああああああああ!」
自分が武田信玄を討たなければ、はると松千代丸は悲惨な目に遭わなかった。
その思いがぐるぐると彼の心を渦巻き苛んだ――
◆◇◆◇
「殿。俺は武田家が許せねえよ。はるさんと坊っちゃんをあんな目に遭わせた野郎は死んだけど、怒りが消えねえ。むしろ燃え上がっているぜ」
屋敷に帰るなり、部屋で待っていた才蔵が成政にそう告げた。
主君に仇名す者は皆殺す、そういう武士の在り方を才蔵は備えていた。
「良い。復讐など考えるな」
だが成政は逆に穏やかに返答した。
同じく部屋で待っていた長安は「どうかなさったんですか、殿」と驚いていた。
「殿のことだ。てっきり武田家を滅ぼすと言い出すと……」
「そんな短絡的な人間ではないよ、私は。いや……少し良く言い過ぎたか」
どういう心境だろうと長安と才蔵は顔を見合わせた。
そんな二人に「私は武田信玄を討った」と改まって言う。
「それが巡り巡って私に不幸をもたらした。それを痛感したよ」
「それは少しばかり弱気じゃねえか? 巷の因果応報を持ち出すなんて」
才蔵は己の心がもやもやするのを感じた。
彼にとって成政は強い主君だった。それが今は見る影もない。
それに成政に憧れてもいた。いつかあのようになりたいと願っていた。
「そう、だな。私は弱っている……もうしばらく待ってほしい」
「おいおい、殿。待ったら戻るのかよ――」
「才蔵。そう急かすな……分かりやした。殿が元気になるまで、あっしたちが支えます」
長安は才蔵を押さえつつ励ましの言葉を投げかけた。
出会いはあまり良かったとは言えない。それでも成政は三河国を豊かにするという生きがいをくれた。心のもやもやは晴れないけれど、成政ならばいずれ元気になると考えていた。
「すまない……礼を言う」
そう言い残して二人から離れて奥の間に行こうとする――
「殿。ご使者が参られました」
下男がふすま越しに用件を言う。
成政は「誰からだ?」と一応問う。
「それが……名乗らずに殿に会わせてほしいとのこと」
「おいおい。まさか武田家の残党じゃねえだろうな?」
殺気立つ才蔵に対し「いいだろう」と成政は頷いた。
「部屋に通せ。丁重にな」
「かしこまりました」
下男が去ると「お疲れではないのですか?」と長安が気遣った。
「うろんな輩を相手にしたほうが気が休まる……お前たちも同席するか?」
二人とも成政のことが心配だったので一にもなく頷いた。
通された使者は案外身なりのいい男だった。
気品にあふれていて仕草も礼法に敵っている。
「お初にお目にかかります。このたびは――」
「挨拶はいい。それよりどなたからの使者だ?」
男は口上を遮られたことを気にせず「こちらの書状をお読みください」と掲げた。
長安が受け取って成政に渡す。
そして中身を開くと――
「なに? 公方様からだと――」
ここから成政は歩み始める。
大きく曲がった道を――