つかの間の休息
比叡山を焼き討ちした後、信長は将軍である足利義昭と会見している。
鎮護国家を祈る仏教集団を滅ぼしたのは義昭にしてみれば衝撃だった。彼は元々僧侶であり、仏事にも通じていた。だから信長の非道な行ないは恐ろしいものに思えた。
「公方様にはご心配おかけしましたが、これで一安心と言えましょう」
「そうですね……足利の世は盤石になりました。礼を申します」
義昭は心にもないことを述べる。
彼が一連の絵図を描いた張本人だ。本来ならば武田信玄が上洛し、強大な軍事力を背景して政治を行なうのが理想だった。しかしその望みは絶たれた。武田信玄は討たれたのだ。
「今後は浅井朝倉を討つことを優先します。その後は領地を広げ、足利家の天下を確実なものにします」
「…………」
「公方様におかれましては、今後とも織田家のお引き立てをよろしくお願いします」
信長も義昭が自身を滅ぼす包囲網を作ったのは重々分かっている。
だがしかし、それでも足利家の権威を利用しなくてはいけない局面があった。
それゆえ、全てを許したのだ。
「私も織田家の力を頼もしく思っております」
義昭もまた信長の意図が分かっていた。
自分の正統性を利用されることに不満はあるが、それでも頼らなければならない。
自身の力の無さを痛感する。
こうしてお互いの立場を再認識したところで会見は終わった。
信長が義昭を弾劾しなかったのはまだまだ利用価値があるからだ。
大義名分――将軍を補佐する立場は信長が諸大名を従わせるために必要だった。
釘を刺した形になったのは致し方ない。これで義昭がおとなしくなってくれればいいと信長は判断した。
「――誰か使者を頼めますか?」
信長が京を去ると義昭は筆を取った。
家臣の一人が誰を訪ねますかと訊く。
手早く書き終えた義昭はなんとなしに答えた。
「徳川家家臣、佐々成政殿です」
◆◇◆◇
「利家……酷い顔をしていますね」
「ああ。僧を斬ったからな」
久しぶりに岐阜城の武家屋敷に戻ってきた利家を暖かく出迎えたまつ。
利家は比叡山を焼き討ちしたことで心身ともに疲れ果てていた。
うつ伏せになっている彼の背中を按摩するまつはまた傷が増えたわねと思っていた。
「俺が恐ろしいか?」
「恐ろしくありませんよ」
「僧を斬ったんだぜ。俺は地獄行きだ」
「それなら――私も僧を殺して地獄に行きます」
とんでもないことをさらりと言ったまつに「変なことを言うなよ」と利家は笑って流す。
本気だったまつは「いつもいつまでも、一緒ですから」と否定しなかった。
「そういえば、今日は森勝蔵殿が訪ねてきます」
「へえ。あいつ、事前に言うとかできるんだな」
「あの慶次郎と違って、ですね」
「まつは慶次郎のこと嫌いなんだなあ。もっと仲良くしてやれよ」
「利家は私に死ねと言っているんですか?」
蛇蝎のごとく嫌っていると知っている利家は「まあ無理はいけねえな」と話を打ち切った。
「肩が凝っているみたいだ。もうちょっと揉んでくれ」
「はいはい。利家は素直ですね」
夫婦水入らずな空間はまつにとって幸せそのものだった。
しかし例によって例のごとく邪魔する者が訪れる。
「おーい! 利家の兄さん、遊びに来たぜ!」
「おう! こっちに……あいてて、まつ、爪が立ってるぜ」
不愉快な声を聞いたせいで思わず力を込めてしまったまつ。
そして利家に笑顔で「噂をすれば影ですね」と言った。激怒している。
「お。按摩しているのか。よっぽど疲れたんだな」
「へい、邪魔するぜ」
慶次郎だけではなく勝蔵も来ていた。
利家は「一緒に来たのか」と起き上がった。
「いや、俺は初め勝蔵の家に行ったんだが、兄さんの家に行くって言ったからついでに来たんだ」
「……余計なことを」
まつが思わず睨むと「な、なんだよ」と勝蔵は驚く。
「別にいいじゃねえか……慶次郎は利家の兄さんと親しいんだろ?」
「業腹ですがそうですね」
「……なあ慶次郎さん。あんた嫌われているのか?」
「そうみたいだな」
どこ行く風に振る舞う慶次郎にまつはますます怒りを覚えた。
無神経なのか、度量が深いのか分からねえなと勝蔵は思う。
「そうだな……まつ、酒を持ってきてくれ。勝蔵、お前飲めるか?」
「飲めるけどあんま美味しいとは思わねえな」
「そりゃいい酒飲んでねえからだ。尾張国の地酒、持ってきてくれ」
まつは「分かりました」と言ってその場を去った。
慶次郎に不幸が訪れますようにと祈りながら。
「そうだ。俺が按摩してやろうか」
「できるのか?」
「京の按摩に習ったんだ」
慶次郎は利家に按摩する。
その力加減は絶妙ではっきり言ってまつよりも上手だった。
「ところでさ、あの斎藤龍興が一連の騒動を起こした実行犯だってよ。市井の噂になっている」
「だろうな。あの野郎は当世一流の扇動家だ。三好三人衆や本願寺も動かせるさ」
慶次郎の何気ない話題に利家は応じる。
「でも武田信玄は動かせないだろ? 裏に誰かいるんじゃねえか?」
勝蔵の疑問に利家は「そりゃ公方様だ」とあっさり答えた。
とんでもないことを言われたので慶次郎と勝蔵は顔を見合わせた。
「それ本当か? 誰から聞いたんだ?」
「殿から……あれ? これ言っちゃあいけなかったか?」
利家のとぼけた回答に勝蔵は絶句する。
対して慶次郎は「すげえなあ」と呆れていた。
「兄さん。それは言っちゃあいけねえことだからもう言うなよ」
「ああ、分かった――」
「――何をしているのですか?」
男三人が声の主のほうに振り返る。
般若の顔をしているまつがそこにいた。
「ま、まつ? どうした……?」
「利家……どうして衆道など……私では不満ですか……?」
どうやらまつは誤解しているようだった。
状況を整理すると、上半身をはだけている利家の身体を慶次郎がまさぐっているように見えている。
「まつさんは何を言っているんだ?」
衆道どころか、男女のことを理解していない勝蔵はまつがどうして怒っているのか分からない。
まつは「勝蔵殿、今日のところはお引き取りを」と極寒の口調で言う。
「私は二人に話があるので」
「待てまつ! お前は誤解している! ただ按摩してもらっただけだ!」
「そうだぜ。俺たちはそんな仲じゃねえし」
焦る利家に呆れる慶次郎。
まつは「私と利家の仲を邪魔していたのは、そういうことだったんですね」とぶつぶつ呟く。
「私から利家を奪おうとしていたのですね!」
「やべえな。兄さん、俺は逃げる。後は任せるぜ」
短く言い残して慶次郎は脱兎のごとく屋敷から逃走を図る。
まつが「逃がしません!」と酒瓶を放り出して後を追う。
「はあ。後が怖えな……」
「利家の兄さん。どうしてその、まつさんと婚姻したんだ?」
「親の決めたことだけど……どうしてそんなことを聞くんだ?」
勝蔵は彼なりに言葉を選んで「俺は多分、難しい」と言う。
弟の乱丸あたりが見れば驚くほどの気の使い方だった。
「まつは嫉妬深いけど、俺はそんなところも愛しているんだ」
「尊敬するぜ……度量深すぎるだろ」
庭先で騒いでいるまつと慶次郎に「助け船出してやるか」と利家は動く。
勝蔵は転がっていた酒瓶を取ってふたを開けてごくりと飲んだ。
「……うめえな、これ」
◆◇◆◇
「ここまで厚遇してくれるとは思いもよらなかった」
「美濃国の国主に礼節を尽くすのは当然のことだ」
越前国、一乗谷城。
朝倉家家老の山崎吉家と話しているのは斎藤龍興だ。
周りに人はおらず、二人きりだった。
「武田信玄が佐々成政なる者に討たれた。おそらく浅井家を攻めるだろう」
「将軍義昭は動けない。ゆえに我らだけで戦うしかない」
山崎は「勝機はあるのか?」と訊ねる。
龍興は「あるさ」と答えた。
「なければ私はここにいない」
「しかし……筆頭家老の景鏡様は遠征に反対している。兵力は半分しかない」
龍興は「信長を討つとしたら」と腕組みをして言う。
「北近江国に入ったところを浅井家と連携して戦うしかない」
「姉川では勝てなかったぞ」
「地の利を使えばいい。それはここだ」
そう示したのは浅井家の砦――大嶽砦。
浅井家の本城である小谷城と連携が可能な砦だった。
「朝倉家全軍が入れば信長も無理攻めしてこないだろう」
「流石の戦略眼だな」
「いよいよ決着がつけられる。そう考えると血が騒いで仕方がない」
山崎は「信長との決着か?」と訊く。
「それもあるが……他にも決着をつけたい者がいる」
「誰だ?」
龍興は口角を上げて――その者の名を告げた。
「我が宿敵、前田利家だ」