任せたぜ
家老である遠藤直経は考える――今後の浅井家について。
難攻不落である小谷城は簡単に落ちないだろう。しかし、いずれは落ちてしまう。それは南近江国の大名、六角家をあっさりと滅ぼせる軍事力を鑑みれば、北近江国しか領土を持たない浅井家など一蹴される。朝倉家と連携しても――無為に化す。
しかしここで織田信長を討ちとれば、浅井家が生き残る道が見える。
絶対的な主君である信長は後継者の息子がいるものの、今は幼く家中をまとめ上げるのは難しい。
おそらく浅井家を攻めるのは延ばされるはずだ――そこを狙う。
混乱している最中、浅井家と朝倉家で攻勢に出れば、勝ち目はある。
無論、越前国から出陣するのが及び腰な現当主の朝倉義景をどう説得するのかは考えていない。
それは別の人間が考えればいいことだ。
今、自分のやるべきことは――命を懸けて信長を殺すこと。
ただそれだけなのだ。
遠藤は織田家の兵士の恰好をして戦場を歩いている。
既に勝敗は決したので、皆、緊張状態から解放されていた。
だから、少しばかり不審な行動をしても咎められない。
本陣近くまで来たとき、遠藤は持っていた首を高々と掲げた。
そして堂々と言う――
「浅井家家老、遠藤直経の首を獲った! ご確認願いたい!」
無論、偽首である。だが首には自身の兜を着けているので滅多なことでは判明しない。
すぐさま陣中に通された遠藤。本陣にて首の確認をするようだ。
遠藤の鼓動が早くなる。いくら沈着冷静な男でも、大胆な行動を取るときは震えてしまう。
「あの遠藤直経の首を獲ったか。素晴らしい」
首の確認をするのは、池田恒興だった。
その奥に信長がいる――見えた。
遠藤は今、槍を携えている。走って突けば――殺せる。
「――覚悟!」
誰にも邪魔されず、取り押さえられない状況と見た遠藤は、信長に向かって、一直線に駆けた。
反応したのは信長だった。
次に気づいたのは恒興だった。
「殿! 誰かその者を――」
ふん。遅い。
――遠藤は槍を繰り出す!
信長は身構えた――
ズブ、という音が身体に響く。
遠藤は――見た。
己の身体から――槍先が突き破っているのを。
「遠藤殿が討たれたって聞いてよ。手を合わせようって思ったんだが――」
遠藤の背後から聞こえる、残念そうな声。
どこかで聞き覚えのある声――
「やっぱり、あんたはすげえ度胸のある男だぜ、遠藤殿」
槍を引き抜いたのは、利家だった。
遠藤はその場に倒れ込む――だがまだ息がある。
「利家……よくぞ居てくれた……」
信長は荒い呼吸をしつつ、利家を褒めた。
それを「殿。後ろに下がってください」と利家は制す。
「まだ息が残っております――」
そう言った瞬間、遠藤は立ち上がり、腰の刀を抜いて振り回す。
その勢いに周りの兵たちは恐れをなした。
「信長……は、どこだ……!」
致命傷を負いながらも、遠藤は信長を殺そうと迫る。
しかし見当違いの空間を切っている――意識が朦朧としているのだろう。
目もはっきりと見えず、ただ自分の使命を全うしようとする意思だけ残っているのだ。
「……遠藤殿! もう終わりだ」
利家は槍を構えた。とどめを刺そうとする。
しかしその前に、遠藤は力尽きたのか、膝をついてしまう。
「の、ぶな……が……」
「……ごめんな」
利家は悲しげに、それでいて慈悲もなく。
遠藤の後ろから左胸を刺した――
「浅井家家老、遠藤直経……見事だ」
絶命した遠藤の亡骸を見て、信長は唸った。
利家は「実は、この人が殿を暗殺しようとしたのは二回目なんです」と寂しそうに言う。
「初めのときは思い留まってくれました。でも、二度目があるなんて……」
「で、あるか。これほどの勇士を討てたのは、今後の浅井家との戦いで有利に進むな」
信長は改めて遠藤を眺めた。
そこにいるのは遠藤だけだったが。
信長には多くの浅井家の兵が重なって見えた。
「利家。こたびの褒美、何がいい?」
「……遠藤殿の墓を建てる許可をください。それだけでいい」
「いいだろう。この信長を殺そうとした大胆不敵な男だ。立派な墓を作ってやろう」
そう言い残して全軍のまとめに入る信長。
利家はやるせない気持ちを吐き出すように呟いた。
「あんたと飲んだ酒、楽しかったぜ。ずっと覚えているよ」
◆◇◆◇
姉川の戦いは織田家と徳川家の勝利に終わった。
浅井長政は討ち取れなかったものの、大きな収穫があった――それは北近江国の城、横山城である。
横山城は浅井家の本拠地、小谷城と近い。加えて他の支城の連携を阻める要所だった。
「さて。この横山城の城番を猿に命じる」
抜擢された木下藤吉郎は驚きのあまり「そ、それがしですか!?」と素っ頓狂な声を上げた。
信長は「不服か?」とぎろりと睨みつける。
「い、いえ! 決してそのようなことは! されど何故、それがしに……?」
「貴様ならやれると思ったからだ。他の者も文句はあるまい」
信長の確認に異議を申し立てる者はいなかった。
何故なら――横山城を守るという主命はかなりの重責だったからだ。
横山城は要所であり、ゆえに浅井家はなんとかして奪い返そうとする。
他の支城からも攻撃を受けるだろう。
けれど簡単に明け渡すことは許されない。
はっきり言えば難度な防衛を強いられるのだ。
もし異議など言えば自分が任せられる可能性が出てくる。
そう考えると軽輩な身から出てきた藤吉郎に任せるのが無難だろう。
「それでは、我らは岐阜城に帰還する。皆、ご苦労であった」
解散の声が上がり、各々支度をせんと陣へ戻っていく中、利家と藤吉郎だけが残った。
自信なさげな藤吉郎に対し「すげえな藤吉郎」と楽観的な言葉をかける利家。
「殿が重要と考える城を任せられるなんて。随分と出世したじゃねえか」
「……利家。それがし、守り切れるだろうか?」
「分からねえよそんなこと。でもお前なら大丈夫だって。俺も殿も信じているし」
もっと具体的な助言を聞きたいと思っていた藤吉郎。
しかし、利家の気楽そうな声を聞いて、悩みが吹き飛んでしまった。
殿の命令だからやらねばならないのだ。ここでうじうじ考え込んでいても仕方ない。
「殿や利家が信じているのなら、やるしかあるまい」
「おっ。その調子だぜ藤吉郎。いつでも援軍呼べよ。俺、絶対に駆けつけるからよ」
そして最後にぽんっと藤吉郎の肩に手を置いた利家。
「任せたぜ、藤吉郎」
利家と藤吉郎は侍大将で同輩、いや城番を任された藤吉郎のほうが上である。
けれど藤吉郎が織田家に仕えたときより助けてもらっている、いわば兄貴分のような存在である。
そんな利家に任せると言われたのだ。これに応えないのは男ではない。
そしてなにより、藤吉郎は利家に頼りにされて嬉しかったのだ。
「ああ、それがしに任せてくれ、利家」
真っすぐ、何の衒いもなく応じるのが男の流儀だ。
それほど二人は信頼し合っていた。
「殿。横山城の城番を任されたようですが……」
陣中から出た藤吉郎に、竹中半兵衛が声をかけた。
その後ろには家臣の蜂須賀正勝と弟である木下小一郎がいた。
藤吉郎は「半兵衛、正勝、小一郎」と呼びかけた。
「それがしは――あまりいい武将ではない。むしろ頼りがいのない部類になる。だけど――」
藤吉郎は皆の顔を一人一人見て、それから宣言した。
「この主命は身命を賭して全うする。ついてきてくれ」
それは覚悟を決めた男の顔だった。
そんな人間に協力しない選択などない。
「お任せください、殿」
皆を代表して、半兵衛が応じた。
「横山城を守り抜きましょう。たとえ十万の兵が攻め込んできても、守れるように」