蜜月
「すまなかったな。名を借りてしまった」
「構いませぬ。これが私なりの忠義であり、一向宗だったことのけじめですから」
成政が二人だけで話しているのは、松平家家臣で一向宗の門徒だった、本多正信である。
彼らは岡崎城で成政に宛がわれている部屋で話していた。
既に夕刻になっているのは、成政の事後処理に時間がかかってしまったのが原因だ。けれど正信はたとえ明日になっても成政を待っていただろう。それぐらい、成政に返しきれない恩ができてしまった。
「それに私の名を貸すぐらい、なんてことありません。偽りの濡れ衣ですから」
「そう言ってくれて助かる。実のところ、心苦しかったのだ。正信殿の名を濡れ衣に使うのは」
三河三ヶ寺に小火を起こした下手人――成政が伊賀の忍びを使ったのだが――と見なされていたのは、正信だったのだ。彼は熱心な一向宗の門徒で、一揆の中心人物である本證寺の空誓は、武士側の頭として彼に軍を率いてもらおうと考えていたくらいだった。
そんな正信が一向宗を見限り、松平家のために濡れ衣を着た理由は――ひとえに家康に忠義を示すためと相応の見返りのためだった。
「殿に正信殿を『勘定奉行』に任ずることを承諾してもらった。これであなたは松平家の財政を牛耳ることができる」
未来の役職である勘定奉行。戦国の世にはなかったものだ。
それを逆輸入して現在に持ち込み、正信に就けたのだ。
その利点は複数ある。まず正信に財政を任せることで松平家の銭の動きを監視させ、健全化させる。正信は算術などに長けているため適任だった。
次に正信を松平家から離れさせないこと。いずれ帰参するとはいえ、戻り新参として家中の評判を落とすよりも長年家康を支えていたという実績のほうがよろしかった。
また成政の負担を減らすことにもつながった。工場経営により莫大な銭の管理をしなければならないが、家老の成政が兼務すれば他の仕事が滞る。
「補佐として私の家臣、大蔵長安を付けよう。しかしあまり重用してはいけない」
「それはどうしてですか?」
「評判の悪い私の家臣ということもあるが、陪臣が力を持つと松平家の均衡が崩れる」
正信は不思議そうに「佐々様が力を持つことになるのが、不都合なのですか?」と問う。
「あなたは松平家の筆頭家老になりたくないのですか?」
「それは酒井殿か石川殿に任せればいい」
「……分かりました」
正信は内心、成政が表立って権力を握るのではなく、裏で実権を持つことを選んだのだと悟った。酒井や石川の顔を立てて、自分が松平家を仕切るのだと分かった。その意味で彼は『分かりました』と言った。成政の考えをべらべら喋るほど彼は愚かではなかった。
だが成政は自身の目的を悟られたことは分かっていた。聡い正信ならばすぐに分かるだろう。けれど敢えて考えを晒すことで自分の恐ろしさを表すことを選んだ。上司は目下の者に敬わられなければならない。同時に恐れられることも重要だ。
「それと下手人と見せかける証拠品を返そう。確認してくれ」
「あ、失念しておりました。では……」
成政が紫の包みを正信に手渡す。
その中身は正信の家紋が入った着物だった。
「佐々様は策略家ですね。一手先を常に読んでいる。私には途方もなく思えます」
「随分、気を使った言い方だな。素直に悪巧みが好きだと言えばいい」
二人は和やかに笑うが内容は悪人そのものだった。
そして成政は思い出したように言う。
「ああ、そうそう。勘定奉行の立場を使って私腹を肥やしても構わないよ」
「……普通はしないようにと釘を刺すのでは?」
「刺しても引っこ抜いてしまうだろう? 無意味なことはしない。それに正信殿なら誰にもばれないようにできるしね。私の目を欺くなど容易いことだ」
正信の首筋に冷や汗が噴き出た。
私腹を肥やすことが頭に過ぎらなかったと言えば噓になる。しかし実際にやろうとは思っていなかった。
しかし、実際に地位に就けばやってしまう可能性もあった。それを見通しての発言に慄いたのだ。
「……恐れ多いことです」
正信はそう返すのが精一杯だった。
成政は満足そうに、実に悪そうに、笑った。
◆◇◆◇
「冷や冷やしたぞ。家臣に『去りたければ去れ』などと言うとは」
「家臣一同は殿に忠節を貫いております。去る者などいません」
翌日。成政は家康と話していた。
小姓はおらず、膝を突き合わす距離での会話。
無用心に思えるが、それこそ無用な心配だった。
家康は成政のことを信頼している。成政も家康を心から慕っていた。
「正信を勘定奉行とやらに任じた。しかし財政を任せるのは、いささか危険ではないか?」
家康が危惧するのは当然だった。
未来の幕府のような巨大な機構であれば、いくつもの監視機関が存在する。しかし今の松平家にはそれがない。
成政も重々分かっていた。だから勘定奉行の決裁を自分が確認するように取り計らっていた。激務ではあるが自分以外にできる者は少なかった。
「ご安心ください。本多正信は忠義者。一向宗の教えを捨てて松平家に尽くすと誓ってくれました。その証拠にこたびの策が成功したのです」
「そのための試金石だとは分かる。初めにそなたの策を聞かされたときは正気を疑ったが、万事解決できて何よりだ」
家康は少年のような笑みを見せた。昔を思い出して成政は嬉しくなった。
「三河三ヶ寺を滅ぼしたおかげで、東三河の城を攻めることができる。そなたの功績は大だが、褒美や加増は要らないのか?」
「家中には私を良く思わない者もおりますゆえ」
「……考えなしであった。許せ」
家康が頭を下げたので成政は慌てて「何を謝るのですか!?」と驚いた。
「そなたが松平家で苦労するとは思わなかった……いや考えもしなかった。私はただ、そなたと共に歩みたかっただけなのに」
「そのお言葉だけで、苦労は報われます」
「言いたくはないが、私は考えなしの若者だ。短気なところもある。もしかすると、私は間違って――」
爪を噛みながら自分を否定しようとするのを、成政は「言ってはなりません」と止めた。
家康は噛むのをやめて成政を見つめる。
「主君が自分を間違っているなどと軽々しく言ってはなりません。あなたが正しいと思えば正しいのです。黒いものでも白になるのです。そうでなければ、家臣はついていけません」
「成政……」
「あなたは織田家の人質ではないのです。松平家の主君、岡崎城主であり、三河国の主になろうとするお方なのです」
成政が苛烈な君主論を言ったのは家康に自信を持たせるためだった。
いずれ天下人になるのだからしっかりしてほしかった。
だからこその諫言だったのだ。
「感謝いたす、成政」
家康は悩みが無くなったような晴れ晴れとした表情になった。
「私はこれから弱音を吐き続けるかもしれん。その度に諫めてくれると嬉しい」
「かしこまりました」
家康は成政のことを一切疑っていなかった。完全に信用していた。
それは幼き頃から自分を敬ってくれることもあるが、それ以上に成政の施策が的を射ていたからだった。
きっと信長に鍛えられたのだと信じて疑わなかった。
成政は自分を信頼してくれる家康を尊敬していた。
前世では両親にも信頼されていなかったのだ。
それが今では信頼どころか期待もされている。こんなに嬉しいことは無かった。
このように成政と家康は相手のことを誤解していた。
少しだけずれていたのだ。
それが今後の二人の関係にどう影響するのか。
継続するにしても、破綻するにしても、いずれは分かってしまうときが来るだろう――