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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

体温と手袋〜返歌〜

作者: 在原 功

人が死ぬのは呆気なかった。

部下も上司も、同僚も運がない奴から順番に死んでいく。どうなに優秀であろうとどんなに他人に欲されていようと順列が乱れることはない。ただ、淡白に着実にその時は訪れる。


手にした腕の指先から温度が消えていく。

俺は、あと何度この恐怖を耐えぬかなければならないのだろう。


最後に、名前を呼んでやりたかったし、せめて体温を伝えていてやりたかった。俺は、お前たちを守りたくて、ここにいたのに。何故、人はこうも簡単に。



隣を歩く弟がいつものように優しい声音で尋ねた。


「兄さん、怒ってるの?」


「いや」


横を見ずに応える。テオが小さく笑ったのがわかった。

こいつは昔から気弱そうに笑う癖がある。


「兄さんがイルさんのこと家で喋ってたのバラしたから?」


からかいのような口調が混じる。

二つの硬質な足音が響く。これだけ盛っても弟の背には遠く及ばない。まぁ、相手はそんなこと微塵も気にしていないのは承知の上だが。


「別にそれは」


「じゃあ…あ、さっき転びかけたの笑ったからか。ごめんごめん」


妙に明るい声でその青年は笑う。

思わず溜息をついた。


「…テオ、」


立ち止まって隣を見やる。俺のと良く似た色の、似ても似つかないくらい優しげな瞳と目が合った。

春の光のように柔らかく笑んでいたけれど、その真剣な眼差しに口を閉ざす。

説教をできるような顔ではなかった。


テオは、ゆっくり瞬きをする。


「…兄さん、あのね、これは僕が選んだ道なんだ。兄さんと一緒にみんなを守りたい。兄さんが気負うことは何もないから」


一息をつく。


「だから、大丈夫。ね?」


「俺は、守られていて欲しかったんだ」


ふと、そう呟いてしまう。

足元の石で出来た地面に影が落ちている。


もう、決まったことだ。俺が何を言おうとテオが特務に配属されるのは、戦闘の前線に立つことは覆らない。

こんなことを言うのは間違っている。間違っているけれど。軍人である前に家族でありたかった。父の守りたかったものを自分の守りたいものを、この手で守りたかった。

だから。


「僕も、いつまでも子供じゃないんだよ。少佐」


ふっと軍帽を取り上げられる。つられて視線を上に向けると弟がそれを被るところだった。

俺と同じ黒髪は、緩やかにウェーブのかかった、如何にも優男という風情である。


「ね、どう?似合う?」


戯けたように弟が歯を見せる。

似合っていた。

無理やり笑みを作る。


「あんまり。お前にはまだ早い」


兄さんの意地悪、と頬を膨らませたテオの手から軍帽を受け取る。


このままでいられたら。今度はヴェールにも紹介してやって。俺達よりも年齢が近いから仲良くできるのではないか。いや、ヴェールはそういうタイプではないだろうか、とか。たまに一緒に家に帰って。すれ違ったら話をして。そんな、せめてそれくらいの幸せが、このままであれば。


前を歩く弟を見つめ、そう願うことしか出来なかった。



理解した瞬間、世界が止まった気がした。

負傷した部下を戦陣から引き下げるために戻ってきた、そのタイミングだった。


とある非戦闘員が叫んだ指示。


「そこ、アルデカ大尉の止血に回って!」


思わず、足が止まる。ぶつかりかけた青年が、俺の顔を見上げ、あっと声を上げる。


「少佐…あちらに大尉が」


「…この兵の治療を頼む。さっき傷を受けた。まだ間に合う」


思っていたよりも低いトーンの声が遠くで指示を出す。

肩を貸していた兵を押し付ける。青年がよろめいた。

兵士が肩で息をする。


「あ、ですが」


「早くしろ!」


青年は眉を寄せて口を噤んだ。何故か、彼が泣きそうな表情をしていると思った。


兵士を連れて行く。あの様子ならなんとか助かりそうだ。

見送って背を向けると、あたりは負傷者だらけだった。血の匂いが蔓延している。もう慣れた匂い。

先程のとは他の青年が走り寄ってくる。

何を伝えにきたのかはなんとなくわかっていた。前線に出る兵士に話しかける非戦闘員。つまりはそういうことだ。


悲壮な顔をした青年が、息をきらしながら告げる。


「少佐、大尉の容態は思わしくありません。恐らくこのままでは、もう…」


「俺は、戦陣に戻る」


言葉を遮って、短く答えた。足を踏み出す。酷く重たい。体が、泥人形に置き換わったみたいだ。控えめに抑えた声が追いかけてくる。


「…大尉は、もってあと何時間かという重傷です」


「だから、なんだ。残れと言いたいのか。俺が前線から抜けたら俺の部隊が動けない。あいつらを殺すことになる」


足を止めて息を継いだ。喉の奥から血の味がする。息をするのが苦しい。息を止めてしまいたい。


「それに負傷は大尉の問題に過ぎない。俺の私情で部下を殺すなんて、軍人失格だ。彼処には、俺が行かないといけない」


目が異様に乾く。

もうこうしている間も時は過ぎていっているのに。

動けない自分がいる。


「少佐、」


目を強く閉じる。ここで、私情に流される訳にはどうしてもいかなかった。


でも。


できるなら。


出来ることなら、今すぐにでも。


「……っ、テオを、頼む」


泥を蹴る。走り出して向かう先、そこには既に一人の守るべき家族は居なかった。



その日のうちに殉職の知らせを聞いた。戦闘が終わって、撤退したところだった。


「お会いになりますか」


返事もせずに黙り込んでいたら、医師が手招きをした。

連れていかれたのは、粗末な医療道具に囲まれた敷き布しかない野営の一角。


礼も言わず、一つの死体の前に膝をついた。腕を取る。まだ温かい。話しかければ目を開けそうだ。しかし身体に殘る血痕が明らかにその可能性を否定する。あまりに穏やかな死に顔だ。


あの時残れば死に際には会えたのだろうか。死の瞬間、彼は何を思ったのだろうか。俺がそばにいれば少しは。少なくとも一人で死んでいくことはなかったはずだ。側にいたのに。すぐそこに生きていたのに。


手を握りこむ。背の割には小さい手だった。まだ、温かい。まだ温かいから、大丈夫。

暗示をかけるようにひたすら手を握り続ける。

冷たくならなければ目を覚ましてくれる気がして。目を開けて、なんでこんなとこにいるんだろう、と、僕頑張ったでしょ、と笑う気がして仕方がなくて。どうしようもなく、この現実を否定して欲しくて。


まだ、大丈夫だ。


月光が強く刺す。顔の半分を青白く染める。それがテオを死人のように見せている。

まだ、


祈るように手を組んでいた。弟の手を握りこみながら両手で。行かないでくれ。俺は、まだ何も。

確かにそこにあった体温は徐々に消えていく。熱を与えても保てないくらいすり抜けていく。完全に、それが熱を失って、『弟』でなくなるまで。


手を離すことができなかった。体温が、無情に奪われていって、何にもなくなる、それまでずっと。



あまりに負傷兵が多過ぎた。まともに歩くことのできない兵を連れて帰るには、死んだ兵を置いていくしか手がなかった。


仲間の死はいつになっても慣れない。それに、今回は。


死体から髪を取って持って帰ることしか許されなかった。連れて帰らせてくれと泣く声も聞こえたが、それを許さなかった。連れて帰りたいのは、誰も同じだ。誰も、残していきたくなんかない。誰かの友人で、誰かの恋人で、誰かの家族だ。


酷い事を言っている。


酷いと知りながら自分がいつも通りに指示を出している事を不思議に思う。


案外薄情なのかもしれない。

そういえば、弟が死んだというのに涙ひとつ流していない。そうか、俺はこんな情のない人間だったのか。

遠い意識でそんな事を考えた。



葬式は遺体のない状態で行われた。空の棺を見て、久々に会う家族は表情を凍らせる。

家族は皆同席していた。


「…これ、どういう事だよ」


三つ年下の弟が震えた声で尋ねた。彼、リオはテオとは特に仲が良かったし、軍に入ってからも連絡を取り合っていたと聞いていた。

目を上げていたくないが、下は向かない。真っ直ぐに見据える。


「今回の戦闘は負傷者が多かった。連れて帰ることはできなかった。すまない」


頭を下げる。

弟の血が上ったのが見て取れた。


「…なんで、だって家族だろ!」


襟首を掴まれた。容赦なく締め上げられる。

それを苦しいとも感じなかった。

父親似の青い瞳は、俺とテオと同じ色をしている。


「それを、あんたは置いてきたのかよ、あんたが守ってくれるんじゃなかったのかよ!」


寧ろ、このまま殺してくれればいいのに。本気でそう思った。約束を守れない俺は、これ以上生きていたって。


「それを、死んだって、しかもちゃんと弔ってやることもできないって、意味わかんないよ!なぁ、答えろよ!」


息が苦しくなってきた。俺の知っていた頃より弟の力が、強くなった事を知る。俺の知らない間に、こんなに大きくなっていたのか。


「リオ、やめて」


「落ち着きなさいリオ君、手を離して」


妹やシルヴァ先生が間に入るのが分かった。しばらく揉み合った後に手が離れると、急激に空気が流れ込む。

思わず激しく咳き込んだ。首に手をやる。やはりそれくらいでは死ねないらしい。シルヴァ先生が背に手を乗せ、大丈夫かと尋ねる。無言で頷いた。


母や妹に留められた弟が怒りを含めた視線で見下ろす。


「父さんだって、兄さんだって、嘘吐きだ。あんたがテオを殺したんだ」


台詞を聞いた群衆が騒めく。ここには軍の人間もいる。

滅多なことは言えない。こんな騒ぎを起こしただけでも十分迷惑だろう。だけど。


「…その通りだ。本当に」


シルヴァ先生の手を退ける。彼は心配そうにゆっくり後ろへ下がっていった。優しい先輩のことだ。もう一度リオが俺に摑みかかろうものなら何度だって助けようと割って入ってくれるのだろう。


「俺が、テオを殺したようなものだ」


リオの目の前に立つ。


「もう会ってくれなくても、家族だと思ってくれなくても良いんだ」


跳ね除けられるのを恐れながら、手を伸ばす。手袋越しに体温が伝わる。やっぱり、怖い。この体温がなくなるのは、恐ろしい。


「すまない」


頭だけ抱き寄せる。僅かに抵抗されるのを押さえつける。


「だから、どうか、軍人にだけはならないでくれ」


弟にだけ聞こえるように、そう告げた。



人肌に触れられない、と気づいたのは軍服を脱いだ初めての時だった。部下からものを受け取ろうとして、僅かに触れた手を思い切り振り払ってしまったのだ。


どうやら人の体温に触れると反射的にそれを払いのけてしまうようになった。弟であろうと妹であろうと例外ではない。それくらい、自分が思っていたよりも弟の死というのは俺の一部に浸食していたらしかった。

心当たりなら、あれしかない。

遺体もない弟。そんな弟の残した形のない痕跡。そんな気がしてしまって、こんなことであってもどうしても忌々しくは思えなかった。


シルヴァ先生に話したところ、手袋を常時つけるよう提案される。それ以来、全てに手袋越しに触れるようになった。はじめのいく日かは布越しでも人肌に触れるのは強い拒絶を伴ったけれど、次第に手袋をつけていれば以前のように触っても支障はなくなった。


体温を感じると、それがなくなることを考えてしまうから。死んでしまう時を想像してしまうから。その自己防衛なのだろう。



部屋へ戻ると、電気はついていなかった。ほっとするような、落ち着かないような。


服を着替えて本を手にする。懐かしい本だった。今の今まで忘れていた。『大事な人の死んだ様は肉片に見えない』。その通りだ。テオは、きっと肉片にならないまま戦闘の後の残るあの場所に横たわっている。そうしてテオのまま腐って形をなくしていく。


扉が開いた。

同室の友人は驚いたような顔を見せる。表情を見るに、テオのことは聞いてきたのだろう。


「何処に、行ってたんだ。」


努めて明るい声を出そうと思った。上手くできていたのかは、イルの反応を見れば分かる。


「…ディオ、手どうかしたの?」


友人は手袋に迷いなく視線を注ぐ。不安げな声音に、隠さなければならない、と感じた。


「…なんでもないんだ。」


不安な気持ちにさせたくない。ただでさえ気を使いやすくて、苦しみやすい彼だから。俺がイルを不安にさせるなんてあってはいけない。そうありたくない。


意図して笑った。


「……なら、いいんだけど。」


もし、イルが死んだら。それを考えてしまう。俺はその時こそ泣くのだろうか。案外普通に生きていけるのだろうか。そんなことを思って、やっと自身の手が震えていることに気づく。

なんで震えているのだろうと霧のかかった頭でぼんやり予測する。


「昔読んだSF小説に出てくる、軍人が言ってたな。」


大事な人の死んだ様は肉片に見えない。


「痛感、した。」


イルがどんな表情をしているのか分からなかった。目線下げていたから。彼が死んだら、どうなるのだろう。考えたくもない想像が、頭を占める。


お前は、急に死ぬなんてことないよな。


声に出せない懇願。

ふと、イルの気配を近くに感じた。いつものように手を伸ばす。


本当に、反射だった。


「触んな。」


一瞬の後、やってしまったと思う。まだ説明していない。きっと聡い彼は気づいただろうが、話す前に振り払うなんて、傷つけただろう。

言い訳がしたいけれど、思いつかない。


どういう顔をすれば良いのだろう。俺は、自由に選べるほどの表情を持っていない。


「…すまん、イル。」


「…そう、思うなら笑ってんじゃねえよ!」


空気を震わせるほどの大声。驚いた。こんな声を出すのを見るのは、初めてだ。萎縮する程の。


彼の事だから泣くのではないかと思っていた。名前を呼んだはずなのに、声にならなかった。


「俺には、わかんないから!血の繋がった家族を亡くしてもディオの気持ちはわかんないから!」


彼の家庭については聞いている。俺の家族を羨ましがっていたのも知っている。

彼が、なぜこんなに怒っているのか分からずにただ呆然と見上げる。


イルは構わず続けた。息継ぎ無しにまくし立てる。

その声が震えを含み始めた。


「でも、ディオは違うんだろ!?哀しくて、苦しくて、怖くて、俺に触られるのも怯えるほど怖くて仕方ないくせに笑ってんじゃねえよ!!なんでっ……」


イルが言葉を止める。両方の瞳から流れた雫を戸惑ったように手ですくう。


「あ……あれ、なんで……っ、」


泣き止もうとして再び顔を歪める。

手を引いて抱きしめた。そうしたいと思った。


「…なんでも、お見通しだな。」


イルには隠し事ができない。全て見抜いて、引きずり出して、俺に突き付けて、なんとかしてしまう。俺を引っ張り上げてくれる。


「優しいお前が俺の気持ちをわからないわけないだろう?」


悪いな、泣かせて。

そう言うと、友人は腕の中で首を振った。まだ涙を流しているようだ。


一つ一つ、呟くように語った。何があったのか。どうしてこうなっているのか。


多分、イルにも触れない。


「布越しなら、まだ平気なんだ。だから、すまん。」


「なん、でっ…あやまる、」


「お前に触れなくなる。」


イルが顔を上げる。今の顔は、見られたくなかった。どうせ酷い顔をしているだろうから。


「よかった。お前が泣いてくれて。俺は、どうやら泣けないみたいでな。」


泣いてくれて、良かった。俺は、代わりに泣いて欲しかったんだ。


「っ…わらうなっ…そんなかお、で、」


命令口調の癖に、涙は流しっぱなしだ。


「ディオ、壊れちゃうからっ……笑っちゃ、だめ。」


俺に縋りつつそう言う。壊れる訳ないだろ、と一蹴するにはイルの声は真剣だった。

強い命令だった。


「拒絶、なんて、慣れてるから……触ってもらえなくてもいいからっ…自分の気持ちに、嘘ついちゃ、だめ。」


お前は、なんで俺の為に泣いてるんだよ。


「っ……馬鹿だろ、お前。」


自然と腕の力が強くなる。

体温が伝わる。布越しでも温かさは伝わってくる。生きている。生きた人間だ。


失いたくない。もう失いたくない。

だけどそんなこと無理なのは嫌というほど分かっている。


精一杯、守らせて欲しい。頼むから、手の届かないところで消えないで欲しい。


「っ、ディオに言われたくない。」


笑おうと思ったのに、溢れたのは嗚咽だった。

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