無知とは罪なのかもしれないけど知らんもんは仕方ない
玲央に言われるがままに歩いてきた拓馬は目を丸くした。
「こんなとこに店あったんだ」
「隠れ家的でいいでしょ?」
もともと街に出ることも少ない拓馬にとって山奥の喫茶店というものは未知のものであったし、物語の世界にしかないような現実味のないものであった。
空の端が橙に染まり始めた下で、竹林の暗闇に浮かび上がるポーチライトがちらちらと揺れている。人の声がざわめく代わりに竹林が大声でざわめいた。
スクールバッグを肩に掛け直し、拓馬はたった今来た道を振り返る。急斜面の坂の上からは街だけではなく、隣町の山々や巣に戻るカラスたちの小さな影も見える。境川学園は位置関係だけで考えるなら見えてもいいはずだが、間に住宅地を挟んだ結果、両者のよい目隠しになってしまっている。
「瀬良くーん」
背後から呼ぶ声がする。ちらと横目で確認すれば玲央が店のドアを開けて手を振っていて、その振動で鈴が絶え間なく低音の控え目な音色を奏でている。
拓馬はもう一度街を見下ろし、深く息を吸った。冷たくて乾燥した空気が湿っぽい肺を乾かしていく。喉に詰まっていた何かが一時的に外れる気がした。
「先に入りますよー?」
「ああ、今行く!」
そして彼は閉まっていく店の入口に足早に向かった。
鈴をけたたましく鳴らしながら店内に入ると、近くのテーブル席にスクールバッグを置いて座る玲央の姿がすぐに目に留まった。アンティーク調の店内を見回しながら足を踏み出すと、小さく床の軋む音が低音の洋楽に溶け込んでいく。
メニューを開く玲央の正面に拓馬も座り、彼女に倣ってスクールバッグを隣のソファに落ち着かせた。支えのなくなった持ち手が力なく落ちて軽い破裂音を響かせる。縮こまっていた拓馬の心臓が大きく跳ねた。
「お、おい、高そうな店だけど平気なのかよ」
「大丈夫です!」
「あー、胃がキリキリしてきた」
「失礼な!」
「そう言ったってお前、会員制とかじゃねーのか。こんな山奥に構えてるなんて。つーか、誰もいねーけどやってんの、これ」
テーブル席は拓馬と玲央の使っているものの他にひとつだけ、観葉植物で区切った隣に設けられている。客席よりゆったりとした空間を大事にするスタイルなのか、まだテーブル席も作れそうだが置かれていない。主な椅子席はカウンター席らしく、こちらも席と席の間にはゆとりを持って設置されている。ただテーブル席と通路を挟んで向こう側には個室があり、ドアもある完全個室のせいで中がどうなっているのか確認できない。客がいないと思っていても各個室の中には誰かがいるのかもしれなかった。
拓馬が身体を捻って個室を眺めていると、ふと最奥の個室から視線を感じた。ドアの上部に長方形のガラス窓が嵌め込んであるだけで、誰もこちらを見ている様子はなかった。それにガラス窓は人の目線の高さではなく、ただ光を取り込むための役割になっている。
「瀬良くん、どうかしたんですか」
「え、ああ、なんでもない」
「私はクランベリーのタルトとミルクティーにします。瀬良くんはどうします?」
「あー、コーヒーあるか?」
「ありますよ。じゃあ、コーヒーと紅茶のシフォンケーキで」
「おい、シフォンケーキのシの字も言ってねーぞ」
「大丈夫です、私が食べますから!」
「まじで信じられねえ」
吐き出すように言った拓馬に、玲央は照れた様子で舌先を出してみせた。肩を竦めて笑い、他のメニューをキラキラとした目で追いかける様はデート中の女子高生にしか見えない。
再び拓馬を得体の知れない気持ち悪さが襲ったが、玲央は全くそれに気付いていないようだった。
「千鶴さーん!」
「千鶴さんって?」
「あ、ここの人。ちっづるさーん!」
落ち着いた空間をぶち壊す玲央に冷や汗を掻いた。いよいよ場違いな気がした拓馬の視線が揺らぐ。無意識にドアの方を見てしまうのは帰りたいと思っているが故か。
だんだんと音量を上げて店内にゆったりと流れる洋楽をも掻き消してきた玲央を完全に無視し、彼は帰り道の方を遠い目で見ていた。小さな鈴は全く動かない。ドアのすぐ近くにある大きな振り子時計は年季が入っているように見える。この店にあるなによりも古いのではないだろうか。よく手入れされた光沢のある木目の奥から確かな時を刻む音がしていた。
その時計を眺めながらぼんやりとしていたときだ。不意にその木目に刻まれた筋が目に飛び込んできた。余程古い傷なのか、色もほとんど同化していて一見しただけでは気付かなかっただろう。深く、長くて細い傷だ。
「あら、そちらは玲央ちゃんの彼氏かしら?」
落ち着いた声によって拓馬現実へ引き戻された。
いつの間にかカウンターの奥で若い女性が微笑んでいる。男性の平均身長くらいはありそうな背丈を持ち、どこか中性的な声色が女性的な言葉を流れるように紡ぐ。
「わざわざ挨拶に来たということは、もしかして将来を誓った関係?」
「あ、あの」
「いやだわ、最近の子ったら本当にマセてるんだから。お母さん許しませんよ!」
「つ、つつお」
藁にもすがる思いで玲央に視線をやると、彼女は得意げに胸を叩いて立ち上がった。力加減を間違えて噎せるところが格好のつかない原因ということを彼女は自覚しているのだろうか。
観葉植物の上から玲央がカウンター奥の女性に呼びかける。
「落ち着いて、千鶴さん!」
「なによ、落ち着いてるわよ。結婚式は和装もするのよ、最初はドレスでも構わないから。でも着る色は伝えてね、被らないように考えなきゃいけないから」
「うん、そっち方面に落ち着かないでほしいです。あのね、こっちは瀬良拓馬くん、私の友だちです!」
玲央は続けて拓馬に向き、びしりと千鶴を指差した。
「ちょっと変わってるけど優しいから!」
「ああ、うん、分かったよ」
「はあい、拓馬くん。あたしは能部千鶴。この喫茶『ほおむ』の店主をしているの。玲央ちゃんがお客さんを連れてくるなんて珍しいからびっくりしちゃったわ」
ちらと千鶴の視線を受けた玲央が肩を震わせた。
唇を尖らせてあらぬ方向を向いた玲央は声を上ずらせながら、カウンターから二人をじっと見つめる千鶴にメニューを伝える。
「あ、あの、コーヒーと紅茶のシフォンケーキのセットとミルクティーとクランベリーのタルトのセットひとつずつで!」
「いいわ、事情があるのね。飲み物は両方ホットかしら?」
「せ、瀬良くん、ホット?」
「あ、ああ」
「両方ホットでお願いします!」
千鶴はカウンターに背を向け、さっさと調理に移った。真っ白のシャツに覆われた背中の上で、束ねられた黒髪が退屈そうに左右に泳いでいる。長い腕が広い食器棚のあらゆるところからカップや皿などを出してくる様は職人技だ。
拓馬はそれに目を引かれながら、脱力してソファにへたりこんだ玲央を横目で見た。
重いため息がこれほどまでに似合わない人物がいるだろうか。
いつも明るく元気で丁寧な玲央が肩を落としてため息をついている。心なしか、大病でも患ったかのように頬が痩けて見える。先程まで連れのデザートまで食べようと息巻いていた者と同一人物とは思えない。
「お前さ、本当にシフォンケーキまで食う気?」
「それは、瀬良くんが食べれなかったら貰おうかなーって」
「何か隠してるだろ」
「え」
「普通、幼馴染が襲われたやつにあんな誘い方しないし、つーか腫れ物扱いが当たり前だろ。声なんて絶対かけねーから、普通」
拓馬の言葉を聞いている間、玲央は丸い目をさらに丸くしていた。
異文化の話を聞いているかのような玲央の様子に思わず拓馬は口を閉じた。非常識なのは自分だと言われている気がして、それ以上言葉にすることは躊躇われた。
しかし玲央の方は真剣な面持ちで視線を落としている。ぴかぴかに磨かれた机上には何もない。ただ凹凸を失った木目が天井を仰いでいる。
「普通って私たちが思ってるより、すっごく変わってることなんじゃないかなって思うんです」
「はあ?」
「だって、戦時中の子供たちは竹槍持って飛行機を落とす訓練を真面目にやっていて、それが普通で当たり前のことでしたよね。今の私たちから見たら、おかしなことだって分かりますけど」
「戦争は壮大すぎるだろ。桁違いだ」
「その桁違いが普通になってたんですよ?」
玲央の言葉はあまりにも切実だった。いつもの口調は崩れていないし、激昂しているわけでもない。しかし彼女の中の何らかのスイッチを拓馬が押してしまったことは事実だった。
くるくると輝く丸い瞳が拓馬を真っ直ぐに見つめる。
「当事者は渦中にいるから分からないだけで、離れて見てみたら異常だと思うこともあると思うんです。たとえば、えっと、たとえば──」
「ないのかよ」
「ありますよ!」
「ふうん?」
「えっと、そう、“生存戦争はフィクションである”っていう普通は異常です!」
何言ってんだ、と拓馬が言うより早く、店内で二人分の吹き出す声が聞こえた。
玲央と拓馬が同時にそちらへ顔を向けると、カウンターから出ようとしていた千鶴が何とか盆の上の注文の品を死守しているところだった。
「千鶴さん大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。驚いただけよ、あなたが急にそんなことを言うから」
「私のミルクティーとタルトとケーキは無事ですか!」
「やっぱ最初からケーキまで食う気じゃねーか!」
「バレちゃったじゃないですか、千鶴さん!」
「あらあら」
穏やかに頷くだけの千鶴はテーブルまでやってきて盆を置いた。
拓馬の前にホットコーヒーと紅茶のシフォンケーキを、玲央の前にホットミルクティーとクランベリーのタルトを並べていく。湯気と共に立ち上る香りは豊かで深みがある。シフォンケーキの傍に控えるホイップクリームは雲のように繊細で、クランベリーなどは宝石のように滑らかな輝きを放っている。
すぐさまフォークを構えた玲央がタルトの皿を引き寄せた。溢れんばかりの笑顔の彼女の口から涎が垂れていないことだけが不思議だった。
「あの、能部さんが一人で作ってるんですか?」
「ええ、そうよー。お口に合うといいのだけれど」
「大変ですね」
「そうでもないわよ、コツさえ掴めればね。で、何かお持ち帰りするの?」
え、とケーキから千鶴へ視線を移した。
「その幼馴染の子のお見舞いに行くんじゃないの?」
雲に実体がないことを不思議がる子供のように、千鶴はこちらを無邪気に見下ろしている。恐ろしいほどに黒い瞳がぱちくりと瞬く。
拓馬がそれに答えられないでいると、その黒い瞳はタルトを頬張る玲央に向いた。
「玲央ちゃん?」
「あー、えっと、瀬良くんの幼馴染って朝のニュースの子なんです。雪村沙織ちゃん。目覚めたってニュースしてないですか?」
一瞬、不自然に千鶴の動きが止まった。
しかしそれは本当に一瞬で、違和感を感じる前に彼女は再び動き出した。
「そう、あの子だったの。まだ良いニュースは入ってないわね。でもお見舞いには行った方がいいわ」
千鶴は再び拓馬に視線を戻し、静寂に満ちた瞳で彼の瞳を見つめた。
「怖いかもしれないけれど、知ることは大事なことよ。いいことも、悪いこともね」