笑顔のタイミング間違えると相手の逆鱗に触れることってよくある
いつの間にかすべての授業が終わっていた。
拓馬の机の上には教材や筆記用具、間違えて持ってきたテレビのリモコンが入ったスクールバッグが鎮座している。かろうじて、ニュースを聞いたあとで置いた記憶はある。問題なのは置かれたスクールバッグが記憶にある通りの様子であることだった。
俺は今日一日をどう乗り切ったんだ。
横目で周囲を見ても、帰りの会の挨拶が長い担任に向かって野次を飛ばしたり、机に置いたスクールバッグに顔を埋めて肩を上下させていたり、前に座るやつの背中に隠れて端末をいじったり、担任を凝視しながらも机から肘をずり落としたりしているクラスメートばかりだ。拓馬もスクールバッグに顎を乗せた。
「最後に。眠り姫連続殺人事件の犯人は未だ捕まっていない。みんな、街で遊び呆けるのもほどほどにして、自分や周囲の子の安全に気をつけるように」
眠り姫連続殺人事件。
自然環境、社会環境を注視する平和な世の中で、人々を震撼させている唯一の事件と言ってもいいだろう。犯人は未だ逃走中で警察もお手上げ状態の事件だ。名前にある眠り姫とは、女性ばかりを狙うから、という意味ではない。
その死体は限りなく美しい状態で発見される。
まるで童話に出てくる登場人物のように、死んだように眠っているのではないかと疑いたくなる状態で発見されるのだ。もちろん、死んだように眠っているのではなく、眠っているように死んでいるのだが。
姫と名のつくのは偶然にも一人目と二人目の犠牲者が女性だったせいだろう。三人目は男性で、姫と言うには体格の良すぎる中年だったはずだ。
いずれも死因は究明中のままであることを拓馬以外にどのくらいのクラスメートが知っているだろう。
疎らに教室から出ていくクラスメートの姿を見て、悶々と考えていた拓馬も重い腰を上げた。重いのは腰だけではない。
「瀬良くん、瀬良くん、瀬良くーん!」
共に知り合いの名前をニュースで読み上げられたはずの相手が教室の入口で大きく手を振っている。人懐こい彼女の笑顔に加え、クラスメートたちの好奇の視線が彼から無視するという選択肢を奪い去った。
床にへばりつく足を引きずるようにして、拓馬はその少々迷惑な来訪者を黙らせに向かうのだった。
「勘弁してくれ。世界終われ」
「ご期待通り、盛大に笑い飛ばしてあげますよ」
「なんなの、お前」
「今にも自殺しそうな瀬良くんにデートのお誘いです。美味しいスイーツはいかが?」
強烈な吐き気が拓馬を襲った。全身に通う血が一気に冷たく感じ、胃を握り潰され、肺にセメントを流し込まれたようだった。息苦しさと感じたことのない恐怖、目の前にいる相手への嫌悪感が増幅していく。ここから逃げ出したい、消え去りたい、意識を失ってしまいたい、死んでしまいたい。楽になりたい。
視界がぐるりと一回転しても、拓馬の身体は立ったままだった。目の前の彼女も笑ったままだ。
震える冷たい手で口を覆い、不安定な視界に居座る彼女を精一杯の力で睨みつける。
「俺、は」
思えば、そのとき彼はようやく目の前で笑っている筒尾玲央の顔を直視した。
彼女の顔は今や陶器のように透き通っている。辛うじて口角は上がっているものの、目元は軽い痙攣を起こし、頬は少しも上がっていない。顔に走る血管を青白く透視できる様子は彼女が尋常ではないことを示している。
拓馬の中で暴れていた、どうしようもない気持ち悪さのうねりが収まっていく。不思議なことに、今も玲央に笑いかけられているというのに心は落ち着きを取り戻していく。
ぴくりと玲央の口角が大きく一つ痙攣した。
「筒尾」
名前を呼ばれた玲央が再び気合いを入れ直して口角を上げた。
拓馬も釣られて口角を上げる。緩やかに上げられた手が彼女の頭に伸びる。
決して心に平穏が戻ったわけではない。気持ち悪さが消え去ったわけではない。
彼の指先が玲央の額を思い切り弾いた。
「ばーか」
「痛っ!」
デコピンを受けた額の一部がうっすらと赤くなった。
「何するんですか!」
「お前は世界の終わりどころか、学生の終わりですら笑えそうにねーからだよ」
玲央の脇を通り過ぎると、嘘つき呼びわりされた彼女が首を傾げながらついてくる。もう耳から黒のコードは流れていない。
ワックスの効いた廊下を走る生徒を注意する教師の怒声を聞きながら、二人は会話らしい会話もなく階段を下りていく。終業式の前に生徒たちで懸命にテープ痕を取った壁にはもう部活勧誘のポスターが貼ってある。
テニス部、茶道部、野球部、山岳部、バスケットボール部、水泳部、卓球部、弓道部、美術部、吹奏楽部など、ポップなイラストで活動日時と場所が書かれている。連絡先に顧問の教師の名前と所属も書いてあった。
「まだポスター貼り出し期間前だった気がするんですけど」
「ついでに言うなら掲示板以外は貼り紙禁止だ。生徒会執行部が激昂する様が目に浮かぶ。今年も荒れそうだな、部活予算委員会」
「去年の殴り合いは壮観でしたね!」
「それ、絶対に生徒会の奴らに言うなよ。消されるぞ」
その物騒な比喩に肩を揺らして玲央は下駄箱に近付いた。
拓馬もまた自分の下駄箱に手をかけ、くいと引き開ける。かつては漫画の読みすぎで、バレンタインデーや誕生日に手紙が入っているのではないかと無駄にどぎまぎしながら開けていたものだが、そんな希望も木っ端微塵に砕かれた今はライン作業のごとき手つきだ。
無感情にそこを開けた彼は瞬時に叩きつけるようにして下駄箱を閉じた。
「すっごい音したけど、どうかしたんですか?」
「く、くく」
「八十一」
「九九じゃねーよ! 蜘蛛! 蜘蛛がいるんだ! でかいのが!」
きょとんとした顔でこちらを見る玲央に、拓馬は決して下駄箱には振り向かずに人差し指をたった今開けて閉めたそこへ勢いよく向けた。
刑事ドラマなら様になる指差し方だが、肝心の刑事役は嫌悪感に顔面蒼白していて締まらない。
「はあ、蜘蛛ですか」
下駄箱から距離を取る拓馬と入れ違いに玲央がそこへ立った。のんびりと彼の下駄箱に手を伸ばし、小さな丸い取っ手を掴む。
「おい、待て、開けるな!」
「いないじゃないですか」
「え?」
振り返った玲央は拓馬の靴を取り出し、さらに引っくり返して振りまくる。中からも何も出てこない。
「そんな馬鹿な」
「瀬良くんが思いっきり閉じたときに、驚いて逃げ出してくれたのかもしれないですね。よかったじゃないですか、殺生しなくて済みましたね」
「いや、でも」
「それにしても蜘蛛が苦手だなんて、瀬良くんも可愛いところがあるんですね」
「いや、違う!」
「大丈夫ですよ、誰にも言わないですから」
行きますよ、なんて笑顔で言う玲央はすでに靴を履いて拓馬を待っている。
拓馬は彼女がきっちり揃えて置いた自分の靴を見下ろし、また下駄箱を振り向いた。下駄箱には小さな隙間があり、確かに小さな虫なら出入りができるだろう。
だがしかし、彼は自分が見た蜘蛛が逃げ場のない状態だったことを知っている。
あの狭い下駄箱と同じくらいの大きさの蜘蛛が靴を跨いで待ち受けていたのだから。