美人が怒ると普通の人が怒るより三割増しで怖い
街を一望できる山の頂付近、竹林に閉ざされたそこに玲央の目的の場所があった。
一見すると何の変哲もない二階建ての木造古民家だが、小さく玄関先に出たカフェボードがそこを喫茶店であると主張している。真っ白なチョークがお手本通りの文字で店名を綴っている。
喫茶『ほおむ』
玲央はこの素朴かつ無愛想なボードを見るたび、心が擽られたような気持ちになって口角が上がってしまう。これを書いた人物を知る前は見向きもしなかったのに。
先を歩く千鶴がドアを引くと、二人の頭上で鈴がからんころんと短く来店を知らせた。思いがけず低い音は歓迎しているのか疑わしい。
「あれ?」
耳に入ってきたスローテンポの洋楽に、ボードから顔を上げた玲央は千鶴を見上げた。
「音楽つけっぱなしで来ちゃったんですか?」
「鍵だって開けっ放しよ」
「だめじゃないですか。戸締り用心、火の用心、ですよ!」
「玲央ちゃんはしっかり者ね。さあ、入って?」
千鶴はそう言うと開けたドアを身体で押さえ、芝居掛かった仕草で店の中を手で示した。未だに玲央のスクールバッグを持っているというのにも関わらず、そのしなやかな動きは熟練の執事を思わせる。
それに頬を染める玲央は口を尖らせながら足を踏み入れた。
玄関先の大きな振り子時計が小さく音を立てた。厚みある赤絨毯が一面に敷かれた店内ではアンティーク調の家具たちが寡黙に客人を待つ。右手は列車のコンパートメントをはめ込んだようなボックス席に占拠され、左手は四人掛けのテーブル席が肩身が狭そうに並んでいる。各テーブル席の間には背の低い観葉植物が置かれ、控え目に葉を揺らして来客を喜んでいた。
玲央の背中を押して入ってきた千鶴は近場のテーブル席に玲央のスクールバッグを置いた。柔らかなソファがぐにゃりと重みに耐えきれず変形する。
「ただいま。あたしのいない間にお客さんは来た?」
「おかえり。誰も何も来てないから安心して閑古鳥鳴かせていろ」
店内最奥のカウンター席に黒いフードコートを着た若い青年が座っている。足をぶらぶらと退屈そうに揺らし、カウンターに肘をつきながら入り口で立ち尽くす玲央へ視線を向けた。
顔も四肢も覆われた姿では視線を向けられているかどうかなど定かではないが、玲央にはそれが不思議と察知できた。慌てて自分の荷物が置かれたテーブル席へと身を滑り込ませる。
「あら、それならわざわざ留守番に名乗りをあげてもらわなくたってよかったのに。珍しくお疲れだったみたいだし」
「これくらいどうってことない」
テーブル席で縮こまる玲央に構わず、千鶴は腰にロング丈のソムリエエプロンを巻いた。長い髪を高い位置で結い上げる。
「何か飲んでいく?」
「いや、今日はもう寝る」
「そう。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
ちらと玲央が顔を上げると、ちょうど黒コートが通っていくところだった。年齢に見合わない年季の入った杖をつき、身体の芯はぶれずに確かな足取りで玄関へと向かっている。
男性にしては小柄な背中を見つめていると、不意に彼がドアの前で立ち止まった。
「玲央」
「は、はいっ!」
「あまり一人でふらふらしちゃいけないよ。例の殺人事件の発生地点がだんだんと近付いているのは分かっているね?」
「あ、ご、ごめんなさい」
「帰りは千鶴に送ってもらうんだ、いいね」
「え、でも千鶴さんはお店が」
言い切る前に黒コートが振り向いた。その視線は玲央ではなく、カウンターの内側にいる千鶴に向けられている。
「千鶴」
「分かってるわよ。こんなときに玲央ちゃんを一人で帰すわけがないでしょ。見くびらないでちょうだい」
「え、でも千鶴さん」
「遠慮しないの。それに和泉に言われなくてもそうするつもりだったんだから。閑古鳥の棲み処のことなんて気にしなくていいのよ」
「あ、はは」
閑古鳥の棲み処、と言ったときの笑みの深さには思うところがあったが、玲央は笑いながらそれを受け入れることにした。
和泉と呼ばれた青年も、この喫茶の店主である千鶴も、玲央のことを小さな頃から知っている親戚のようなものだ。その二人が意味もなく玲央に強要することなどない。
からんころん、と鈴の音が鳴った。
玲央が玄関を振り返ったときにはもうそこに和泉の姿はなかった。
「驚いた?」
カウンターの下で何か作業をしながら千鶴が歌うように尋ねた。
「いえ。和泉さんが素早いのは知ってますから」
「そうじゃなくて」
「え?」
オレンジジュースとお菓子の詰め合わせを持った千鶴がテーブル席に座った。エプロンの小さなポケットから白黒の歪な四角いコースターを取り出し、それをグラスの下に敷いて玲央の前に差し出す。
お菓子の詰め合わせからマドレーヌを抜き取ると、玲央はそのコースターをつついた。小さく口を尖らせ、グラスの雫をわざと指先でなぞる。
「和泉が帰ってきてたことに、驚いたかなと思って」
かちっとグラスと爪が音を立てた。
「まあ、驚くわよね。あたしたちのことを知っているとは言え、ああいうことが実際に起こると、無事じゃないと思うでしょうね」
「私、本当に知ってるだけで、分かってなかったんですね」
「そんなものよ。和泉を見て叫ばなかっただけでも十分だわ」
「でも和泉さんが無事で本当によかったです」
「ああ見えて強いから心配するだけ無駄よ。だからね」
するりと細長い腕が玲央のスクールバッグからぐちゃぐちゃになった通知表を攫った。流れるような動作でそれを開き、玲央の前に突きつける。
それは前年度の成績表だった。担任のコメント欄には急激に下がった成績のことを心配する旨が書かれている。
「無駄に下がった成績が和泉にバレる前に元通りにしましょうね?」
「うう、よ、よろしくお願いします……」
「ええ、期待していいわよ?」
美しい笑みは時に残酷だ。