それは六本の腕を持つ
式典の日は午前中で学園が終わるから好きだ。
玲央はまだ日も高いうちに街へ繰り出していた。始業式の日は課題提出とクラスメートとの顔合わせを済ますだけで、他には何もやることがない。彼女のようにさっさと学園から出る者もいれば、教室でまだ騒ぎ立てている者もいる。一部の生徒は教員に追い出されるまで居残るだろう。
街には境川学園の制服が溢れている。街にはパンケーキ屋、映画館、ブティック、雑貨屋など、目新しいものから安定の看板が並ぶ。そのどれもが境川学園の生徒に目をつけた店で、そのどれもが戦略を見事に的中させていた。
しかし玲央は賑わう大通りから一本、二本と裏道へ入っていき、山を切り拓いて造られた住宅街を抜け、急坂の細い路地を前のめりになりながら上っていく。
息の上がった彼女の前を一匹の黒猫が横切った。
「あ、ハルさん」
ブロック塀の上へ飛び乗ろうとしていた黒猫がのろのろと振り返った。自らの長毛に埋まりそうな潰れ顔には二つの美しい金色の瞳が嵌め込まれている。
「図書館に戻るんですか?」
玲央は肩にかけていたスクールバッグを地面に置いた。
黒猫のハルは図書館で飼われているマンチカンだ。そこまで脚が短いというわけではないが、普通の猫よりは短い。よって猫界での跳躍力が平均以下ということになる。本棚から別の本棚に移ろうとして落下している様子が何度も館長の耳に入っているのだから間違いない。もちろん、玲央も目撃者のひとりだ。
「塀の上に乗りたいんですか?」
そう言ってハルに手を伸ばしたときだ。
「心配しなくてもハルちゃんは自力で帰れるわよ」
「え」
頭上からの声に驚いて手を止めると、ハルはするりと玲央の影から出て軽々と塀の上に跳んだ。
口を開けてそれを見上げた彼女のもとに先程の声がくすくすと笑った。その声は男にしては高く、女にしては低い。
玲央はこれから自分も上るはずの道へ顔を向けた。
「ほらね」
「なんで来てるんですか、千鶴さん」
「連絡もせずにこんなところに来ようとするから迎えに来てあげたんじゃないの」
白いワイシャツに黒いスラックス姿の若い女性は穏やかに彼女のことを咎めた。艶やかな長い黒髪がゆらりと彼女の歩みに合わせて揺れ、細められていた目がだんだんと開いていく。
彼女の瞳に映ったのは玲央が道に置いたスクールバッグだった。細く長い腕がそれを軽々と持ち上げる。
「千鶴さんは心配し過ぎですよ。私、もう子供じゃありません!」
「あたしから見ればまだまだ子供よ」
頬を膨らませる玲央に一言だけ返すと、千鶴は彼女のスクールバッグを持ったまま坂道を上り始めた。
慌てて玲央もそれを駆け足で追いかける。
「それは、そうかもしれませんけど。でも、千鶴さんと比べたら誰だって子供じゃないですか」
「そうね」
「それに連絡入れてないのにどうして迎えに来れるんですか?」
「さあね」
「もしかして見張ってます?」
「まさか」
言葉数が少なくなっている玲央は足の運びも遅くなっている。それでも止まらず、決して千鶴に待ったはかけない。
先を歩く千鶴は玲央が離れすぎれば振り返って一旦止まり、追いついたら再び歩き出すことを繰り返している。決して急かしたり、応援したりすることはない。
額に汗を浮かべた玲央がブレザージャケットに両の手をかけた。
瞬間、彼女の背中を押すように突風が吹いた。汗ばんだブラウスに風が通り、籠っていた胸元の熱が風に攫われていく。
はらりと纏めていた髪も解き放たれてしまい、玲央は髪の毛に手を伸ばす。風上に向いて結び直そうと、坂道を振り返る。
ジャケットの内側に入った風が背中を大きく膨らませた。髪はさらに乱れ、スカートは何の抵抗もせずに巻き上げられる。瞬時に下げられた手が叩き落とすようにプリーツ部分を押さえた。
「あ、あの、千鶴さん?」
「はあい?」
恐る恐る振り返ると千鶴が首を傾げている。
すぐに視界が黒髪に覆われて、緩慢な動作でそれを掻き分ける。もたもたと手こずったにも関わらず、千鶴は先程一瞬確認できた格好のまま微笑んでいた。
その姿は絵画のようだった。
顔は小さくて、背もすらりと高い。手足は細くて長く、肌は健康的な白さで、髪はいつも雨に濡れているように艶やかで人の目を引く黒色をしている。その長い黒色はただ後ろへ流されているだけなのに、うっかり持ち主の視界を塞ぐこともしないし、風に煽られて顔面に毛先を叩きつけることもしない。
「今、スカートの中──」
今、風が千鶴の髪を撫で上げた。大きく巻き上がったそれは自然と左右二つずつの束に纏まり、やがて風が去ると背中へ落ち着いた。
「ごめんなさい、玲央ちゃん。よく聞こえなかったわ」
「あ、ううん」
どくりと大きく拍動していることを感じつつも、玲央は深く考えないようにして千鶴の側へ駆け寄った。前髪も分け目も跡形もなくなっていたが、油断すれば転がり落ちるであろう坂道を駆け上がるのなら些事である。
玲央は千鶴の細腕にしがみついた。
「あら、なあに?」
しかし、その細腕はびくともしなかった。決して重くはないが、女子高生の平均体重はある玲央が助走をつけてしがみついたのにも関わらず、である。
美しいその人は涼しい顔をして玲央を見下ろしている。
「甘えてくるなんて珍しいわね?」
「千鶴さん。今日って、新月じゃない、ですよね?」
すうっと微笑みを消し去った千鶴の目が玲央の目を射抜いた。
真っ黒の瞳に僅かに紫が浮かんでいる。それは雲か煙のようで、見えないときは見えず、見えたとしても次の瞬間には見失ってしまう。
玲央はその紫から目を離せずに見つめていた。
「ええ、新月じゃないわ」
「そう、ですか」
「もしかして怖かった?」
「そ、そんなことありません!」
「あらそう」
それは少し複雑な気持ちだわ、と呟いた千鶴は玲央の手を取って歩き始めた。