ババカタラ王 4
小さな丸いその部屋の、窓という窓が目張りされた。床には、魔法文字がびっしりと刻まれた金属板が敷き詰められている。
「レーヌ。あなた、随分前から準備をしていましたね?」
ババカタラに睨まれて、レーヌは肩を竦めた。
「使うことになるとは思いませんでした」
部屋の中にいるのは、ババカタラとレーヌのふたりだけだった。時刻は明け方近いはずだったが、窓が塞がれているため、外の様子はわからない。松明の頼りない灯りの中、ふたりは向かい合って立っていた。
「よろしいのですか? 陛下」
「大丈夫。あの人と息子達には話をしました。でも、魔法が成功すれば、忘れてしまうかも知れませんね……。それに、もし失敗しても、日が昇ればゲルニスが降伏の手続きをするでしょう。それよりも、あなたは良いの? レーヌ」
「何がですか?」
「国を横断するような強力な魔法……あなたの体とて、保たないでしょう」
「さあ、それはやってみなければわかりません。何しろ、誰も試したことがないのですから」
「本当に、試したことがないの?」ババカタラはレーヌを睨み付けた。
「……さすが、隠せないですね。結晶化は、二度、人で試しました」
「なんてことを」
「罪人です。もちろん、結果は芳しくありませんでした。事前に操心魔法で王国の平和を願うようにしていたにもかかわらず……です。心からの願いでなければ無理ということですね。それに、陛下は精霊の秘儀を受けておられる。きっと、精霊の力も引き出せるのではないかと思います」
ババカタラは、自分の首から首飾りを外した。銀製の下げ飾りの中央に龍青玉があしらわれた〈魔法返し〉の首飾りだ。ババカタラは、それをレーヌの首にかけた。
「陛下?」
「強大な操心魔法は、成功すれば、あなたの心も操ってしまうかも知れません。これは、お守りです。それに、これから魔法にかかる私がつけていては困るでしょう?」
レーヌはその下げ飾りを裏返してみた。〈蒼天を駆ける紅き風へ〉と掘ってある。三十年以上前に、まだ若かりしレーヌが、ババカタラへと贈ったものだった。当時は、ババカタラは王ではなかったし、レーヌも大司教ではなかった。
「お互い、随分遠いところまで来ましたね?」ババカタラが言った。
「守るものも、失うものも何もなかったあの頃が懐かしいですね」レーヌが言った。
ふたりの盟友は、しばし、思い出に身を浸し、お互いを見つめ合った。
「さあ、レーヌ・ファブナック大司教。始めて頂戴」
振り切るようにババカタラが言い、部屋の中央に立った。昼間と同じドレスを着ているが、革の鎧はつけていない。髪は綺麗に結い上げられ、額には龍青玉の額飾りが光っている。
レーヌは部屋の隅まで下がると、足を肩幅に開いて仁王立ちした。
「我はレーヌィース・ファブナック。金翠の父母と我が名において願い奉らん。この地に従たる命の炎を、輝く青き力に換えん。先ずは集えよ! 精霊達よ!」
部屋中に敷き詰められた金属板が、緑がかった金色に光った。魔法文字がレーヌの詠唱に反応したのだ。そして、ババカタラの額の龍青玉が青白い光を帯びる。ババカタラは手を胸の前で握り、目を閉じた。
丸い部屋の外側から中心に向かって、金翠の光の波が幾重にも集まる。それは、水に石を投げ入れたときにできる波紋と、ちょうど逆の流れだ。集まった光は次々とババカタラに降り注ぎ、彼女に吸収されていく。一方、ババカタラの額の龍青玉は目映く輝き、その青白い光がババカタラの体を包み込み始めた。
頃合いと見たレーヌは、左右に大きく手を広げて胸を張り、そして叫んだ。
「結べよ!」
ぱんっ! とレーヌが胸の前で手を打ち合わせた。それに合わせて、ババカタラを包んでいた青白い光が弾けた。部屋を青白い光が満たし、何も判別が付かなくなるほどの輝きに包まれ、そして、それは唐突に一点に収束した。
レーヌが、思わず瞑ってしまった目を開くと、部屋の中央には、青く輝く龍青玉の像があった。それは、手を胸の前で握り合わせた祈りの態勢のまま、魔力を湛えた龍青玉と結晶したババカタラの姿だった。
レーヌは、胸につるした首飾りを握った。そして、いったん目を閉じて気持ちを落ち着けると、ババカタラへと近づいた。
「ババカタラ……さあ、行くよ。我々の国を守ろう」
レーヌは像の前に立つと、胸の前で手を組み合わせた。
「我はレーヌィース・ファブナック。金翠の父母と我が名において、命を賭して願い奉らん。青き力眠る白き山と、大いなる海に見守られし、この豊穣の大地に、民達の安寧が永久にもたらされんがため、母なる王ババカタラ・バラオの想いを形になせ! 言の葉を司る音の精霊達よ!」
光が弾けた。
ババカタラを中心に広がった魔力を乗せた光の波が、王宮の壁を抜け、王都を越え、州を越え、国を超えて広がっていくのを、レーヌは感じた。一方で、レーヌは、自分の頭の中が、何かに探られているような不快感を覚えた。それは、術者にさえも効力を及ぼす強大な操心魔法が、確かに発動した証だった。レーヌは、目の前の龍青玉に、自分のすべてが吸い込まれていくような錯覚を覚えた。体力が急激に抜け、立っていられなくなり、膝から崩れ落ちる。
(レーヌ……レーヌ)
動くこともできないほど憔悴したレーヌの耳に、ババカタラの声が響いた。
(レーヌ。魔法は上手くいったわ。でもこれは……想像以上に……)
「……想像以上に? なんだ?」レーヌは呟く。
(大地の精霊から力が流れ込んでくるわ……これは、この先何十年も続きそうなほど大きな……)
「……何十年? ……ババカタラ、君は意識があるのか?」
(……ええ)
レーヌは愕然として、うつろな瞳をババカタラの龍青玉へと上げた。
「君は……、何十年もそのままで……」
(レーヌ。でも、これで王国は救われるわ。ありがとう。私はここから、この国を見守ることにする……)
「……」
(この魔法の事実には、あなた以外誰も気が付かないでしょう。今回の戦いの記憶さえ……国内ではいずれ消える。レーヌ、だからあなたは西へ行って。魔法が切れるまで何十年かかるかわからないけれど、この記憶を語り継いで頂戴。そして、いつかまた魔法が切れた頃に戻ってきて、子供達に真実を伝えてくれると嬉しいわ……)
レーヌの足下には、龍青玉が砕けた首飾りが落ちていた。〈魔法返し〉は、間違いなく効力を発揮したようだった。
「ババカタラ……」
レーヌは辛うじてそれだけ呟くと、そこに突っ伏して気を失った。金色の髪が、真っ白になっていた。
アプ・ファル・サル王国暦十九年。長月十一日。
その日、まだ日が昇る前に、王国全土で、空が青みがかった金色の光で満たされた。それは一瞬で、唐突に現れ、唐突に消えた。
日が昇ると、マーテル王国軍は粛々と撤退を始めた。アプ・ファル・サル王国の人々は、それを当然のように見つめていた。
戦の復興は速やかに行われ、王宮では、サカスルス・バラオが二代目アプ・ファル・サル王として即位した。ババカタラ王の退位については、誰も何も言及しなかった。
王の〈瞑想の間〉は封印された。そこで発見されたレーヌ・ファブナックは、衰弱著しかったが、一命を取り留めた。そして、体力が回復すると、一族を率いて王国を後にした。
そして、戦の記憶は失われた――




