それぞれの転機 6
夜の大気が湿り気を帯びていた。いつの間にか星が見えなくなっている。
「こりゃあ、一雨来るな」丸顔男が言った。
「向こうに〈灯石〉の灯りが見える!」先頭を走っている背高男が声を上げた。
平原の中をまっすぐに伸びる一本道の先に、ちらちらと青白い光が揺れていた。光はこちらに向かってきているようだ。馬に括り付けられた窮屈な体勢から、マーリーは光に目を凝らした。ララサララは〈灯石〉を持ってはいなかった。しかし、館で手に入れた可能性はある――
背高男が馬の腹を蹴り上げて飛び出していった。しばらくすると、「女の子だ!」との声が聞こえた。傷の男と丸顔男も馬の腹を蹴り上げた。
真っ暗な夜空から、ぽつぽつと雨が落ち始めた。
「なんだ、お前は! 離さぬか! 無礼者が!」
はたして、背高男がララサララの腕を掴み、その顔を覗き込んでいた。
「ララ!」マーリーは馬の上から叫んだ。
「マーリー! そなた、なんだその格好は。今助けて……」
ララサララは背高男の腕を振り払おうとしたが、体格差がありすぎて思うに任せなかった。暴れるララサララの前に、傷の男が歩み寄った。そして〈灯石〉を近づける。
「なるほど。たしかに陛下に似ている。以前、一度見かけたことがある」
「なに?」
「そこの馬泥棒が言ったのさ。自分達は指名手配になっている。捕まるのは構わないが、ふたり一緒じゃなきゃ嫌だとな」
「無礼なことを申すな。余はララサララ・バラオだ」
傷の男は、面白そうにララサララの顔を覗き込んだ。ララサララが睨み返す。
雨が少しずつ強くなってきていた。
「面白い。それじゃあ、その証拠を見せてもらおうじゃねえか」
「証拠?」
「そうだ、証拠だ。俺が、お前は陛下だって納得したら、この場で忠誠を誓ってやる。納得できなかったら、ふたりまとめて州軍に引き渡す」
「……わかった」
「ララ!」マーリーが声を上げた。
ララサララはマーリーを見つめると、自信ありげに微笑んだ。背筋を伸ばし、胸の前で手を握り、雨が落ちてくる空を見上げた。そして、大きく息を吸い込んだ。
――母なる海はいと深く 父なる山は遙かなり
愛しき風は清らかに 頼もしき日の輝ける
誇りは我ら胸に満ち 名は世界に響き行く
ああ、麗しの麗しの アプ・ファル・サル
ララサララが歌い始めると、まず彼女の頭上の雨雲が割れた。雲の割れ目から、淡い萌葱色の光の粒が一つ二つと降り始める。雨雲はみるみる退き、満点の星空が空を覆う。萌葱色の光の粒は、時間と共に数を増していった。
――姉なる川はいと速く 兄なる原は豊かなり
優しき雨に包まれて 静かなる月に導かる
言葉は我ら胸に満ち 人は世界を渡り行く
ああ、麗しの麗しの アプ・ファル・サル
やがて、地面からも、周辺の木々からも、光の粒がふわふわと漂い始めた。龍青玉が魔力を発動するときに発する燐光に似た、しかし色がまるっきり違うそれは、熱くもなく、眩しくもなく、ただ神秘的で、神々しくララサララを包み込む。
――精霊の紡ぐ言の葉と 太古の龍のちから石
祖母の残せし綾模様 祖父の残せし金細工
魔力は我ら胸に満ち 法は世界を支え行く
ああ、麗しの麗しの アプ・ファル・サル
星々にさえ届きそうな凛としたララサララの歌声は、夏の熱気と雨の湿気に澱んでいた空気を、瞬く間に清々しく浄化した。
「〈行幸の御証〉だ……」と傷の男が呟いた。
精霊の秘儀を受けた王だけがなしえるという〈行幸の御証〉。その幻想的な光景を、当のララサララでさえも呆然と見渡している。
「陛下」傷の男が地面に片膝をつくと、深く頭を垂れた。「ご無礼の段、お許しください」
「まず、マーリーの縄を解いてやってくれ」
丸顔男がマーリーに駆け寄ると、大慌てで縄を解く。マーリーは、縛られていた腕をさすりつつ、ララサララの元へと走り寄った。
「ララ。ごめん」
「なぜそなたが謝る?」
「だって、ひとり残してしまって。心細かったんじゃないかと」
「何を言う。そなたこそ、私が助けてやらなかったらどうなっていたことか」
「うん。ありがとう」
ララサララは満足そうに頷いた。
「〈行幸の御証〉始めて見たよ」
「私もだ」
「?」
「通常の行幸で現れる〈行幸の御証〉は、王の示威のために、王宮の魔法使いが魔法で見せるものだ。まあ、一種の見せ物だな。しかし、いつか師に教わったことを思い出したのだ。精霊の秘儀を受け、土地の精霊と契約した王は、本当に〈行幸の御証〉を行えるのだと……。その下地があるからこそ、魔法使いの見せ物も、民達はありがたがってくれるのだとな。やり方がわからなかったから……、そなたや、リルや、この国のことを想って……歌ってみた」
星明かりの下で、ララサララの満面の笑みが輝く。
「上手くいったであろう」
「とても綺麗な歌声だったよ」
マーリーの言葉に、ララサララは一瞬言葉を詰まらせた。何かを言いかけ、そしてやめる。やがて、諦めたようにぷいと横を向くと、男三人に正対した。
「そなた達、余を国王と納得してくれたか?」
「はい」三人が声を合わせて言った。
「ならば、そなた達に頼みたいことがある」
傷の男がわずかに顔を上げた。「なんなりと、お申し付けください」
「うむ、感謝する。我らは、ファル・ベルネの町を経由して王宮へと戻りたい。送っていってもらいたいのだ。もちろん、勝手に使った馬の分も含めて、礼はする」
「承知いたしました」
ララサララが傷の男の馬に、マーリーが丸顔男の馬に乗った。そして三頭の馬は、まだ〈行幸の御証〉の余韻の残る夜の平原を、ファル・ベルネの町を目指して駆けだしていった。




