6番
「さて、と」
海人は一人ごちると、ちらっと後ろを見た。視界の隅で何かが慌てて物陰に隠れる。馬鹿め、さっきから気配で気付いてたわ。
――角にあるミラーで気付いただけ、だけどね
海人が再び前を向くと、ミラーにその人の影が再びちらっと映った。帽子で顔を隠しながら近付いてくる人影。空じゃない。だとすれば、家から弟が尾行してきたか。
――えぇい、あいつしつこいぞ
海人は心中で毒づき、突然走り始めた。後ろで「あっ」とかいう声が聞こえた。とことん馬鹿な奴と思いつつ、海人は角に飛び込んだ。下手なミステリードラマのように、その人影も走り急いでついてきて、正面から海人にぶつかった。
「こんのぉ、馬鹿がぁああ!! ついて来てんじゃねえよ!!」
抑制して叫んだつもりだったが、尾行の主は心臓が止まるのではないかと思う程に肩を震わせて飛びあがった。
「ひ、ひいいいい!? ご、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
あれ、弟じゃないと思った時には既に遅し。顔をさらした黒髪お下げの背の低い少女(男ですらなかった)
半泣きでダイナミックにスライディングして土下座してきた。うーん、ダイナミック土下座……等と茶化している場合じゃない。
「あれ、栗原じゃ?」
よくよく見て、海人が聞くと栗原は再び、震えた。どうも、余程の恐怖を与えてしまったらしい。なんだか、こっちがものすごい悪者だ。実際、こっちにも悪い所はあったのだけども。
「うん、はい。すみません」
「おい、すぐに謝るならないでよ。日本人の悪い所だって、ピーター先生も言ってたじゃないか」
因みに英語の先生です。去年母国に帰りました。
「悪かったよ。弟がつけてきているのかと思ったんだ」
「え、なんで?」
そこを話すと混乱とあらぬ誤解を生みそうなのでやめておく。むしろ、栗原が尾行してきた事の方がこちらとしては、なんで? なのだが。
栗原恵美。海人が通っていた中学の同級生。成績は海人等とは違ってクラス一優秀……いや、学年で一番優秀であると海人は噂に聞いていた。本人と話す機会は殆ど無かったと言っていい。接点が少ないし、お互い話そうとは思いもしなかったからだ。
その彼女がなんで……。
――もしかして、密かに好きだったとか――なわけないよなぁ、でも――
そんなわけない。他に後心当たりがあるとすれば、昨日の事だ。
「もしかして、昨日のアレ見てた?」
「え? あ、あぁ……昨日のアレ?」
あ、絶対見てたな。視線逸らしたし。どう考えてもそれ以外で後ろから付いて来られる可能性は思いつかない。何か用事があるなら電話やメール……番号は教えてない。だが、それなら友達から聞き出すなりすればいいことだし、こっそりついて来る必要が無い。
「見たなら、見たでいいんだけどね。どこからどこまで見てたの?」
家からついて来たという事は、恐らく全部見てたのだろうけど。
「いや、そのお店で歌って、でその後、楽器店に行くまであなたについてたよ」
あの場に栗原もいたとは。軽い驚きを覚えながら海人はふと思った。
「え、なんで俺についてきたの?」
「蒼野空の所に行くだろうと思って。ほら、あの人、あなたに聞いてたでしょ」
恐るべし、地獄耳。なんで、自分の周りにいるやつはこうも耳が利くのだろうと、海人は呆れた。そして、何故栗原が自分についてきたのかも、これで分かった。彼女の目的はそもそも自分では無かったのだ。
「あぁ、そうか。栗原って蒼野空のファンなのか?」
でも追っかけはよくないぞという言葉はどうにか呑み込んだ。正確にはその知人を追っかけて……いや、結果的に空を追っかける事になるのか。頭のいい奴がやると、なんともややこしい。
そして、ふと海人はある事を思いついた。それはそれは考えれば考える程にいいアイディアに思えた。
「そうだ、これから昨日の楽器店に行くんだ。そこで、空と会うんだけど、一緒に来ない?」
「え、空さんに?!」
ぱっと明るくなる栗原を見て、海人は一人にやにやしめしめと思った。
――これは名案だよ、孔明だよ
何を言っているのやら。しかし、物事とは軍師が引いた通りには行かないものである。が、神ならぬ海人には分からない。にやにやしめしめと顔を綻ばせたまま(怖い)、栗原に訊ねる。
「でも意外だな。歌とか好きじゃないと思ってたのに」
「うん、確かに流行りの歌はあんまり好きじゃないかな。あのひらひらした48人組とか、へらへらした5人組とか」
酷い言われようだ。そして48人組とか言われても違和感が無い。一昔前にその言葉使ったら、運動会の競技か何かと思われた事だろうけど。
――まぁ、気持ちが分からないでもない
実際、海人自身も流行物には一歩引いて見るような所があるが、空の歌には心を奪われた。それに空が誘ってくれた事も、そのやろうとしている事自体には共感出来た。流行に呑まれるのではなく、自分らしさを最大限に生かした事をやろうとしているのには。
だけど、やるなら他の人を巻き込むべきだろうに……なぜ、自分と思わないでもない。
「で、昨日は何を誘われたの?」
「え、それは聞いてなかったのか。うーん、説明しづらい」
栗原に尋ねられ、海人は迷った挙句、一から説明した。ともかく、あった事を全部。
「つ、つまり、それって誘われたってこと? 空さんが結成しようとしている音楽グループに!!」
「うーん、そうなる、かなぁ」
海人は首を捻って考えた。本人もそう言っているし、栗原の言っている事は間違ってないのだが、なんというかその言い草が、偉業の始まりに立ち会っているかのようで、大袈裟に聞こえる。まぁ、実際に空のグループが偉業を成さないとも限らないので、なんとも言えないけども。
「す、すごいなぁ」
べた褒めである。まぁ、その称賛は空のグループに入れることであって、海人自身に対する物とはちょっと違う。それに羨望の眼差しでもって見られても、困るのである。海人自身は受ける気がないのだから。しかし、それをここで言っても五月蠅くなりそうなので黙っておく。
2人は歩いて商店街に出る。昨日はあんなに輝いて見えた景色が、今は馬鹿馬鹿しく感じる。単に騒々しいだけ、誰も彼もが何かに興味を向ける事もなく過ぎ去っていく。昨日、空がこの街で歌ったという軌跡は跡形も無く消し去られていた。
「遅い!」
それでも、彼女の存在はそこにある。あの楽器店の前で蒼野空が腰に手を当てて仁王立ちしていた。口元に可愛い笑みを浮かべ、栗色のふわりとした髪を春風になびかせながら。
「すみません、遅れました……て、1分しか遅れてないじゃないですか」
「これから、そんな言い訳は通用しないわよ。この私のグループではね」
――……もう、入った事にされているよ……、おぉい。
空は、ふと首と腰を曲げて、海人の後ろを覗き込んだ。
「そちらさんは?」
空に聞かれて、海人は慌てて後ろにいた栗原を押し出し、紹介する。
「あー、中学の時の知り合いですよ。空さんのファンだって言うから連れて来ました」
ファンだと言われて嫌な顔をする歌手はいないだろう。空もまた、戸惑いながらも恥ずかしそうに笑みを浮かべた。不覚にもその笑顔に海人は包まれそうになった。まともにその笑みの直撃を受けた栗原は気絶しかけ、背中から海人の方へと崩れ落ちてくる。
「ぬおい! しっかりしろよ!」
海人に呼びかけれれて、栗原はびくりと肩を震わせ我に返る。良かった。返って来なかったら救急車を呼ぶところだ。
「あ、あの蒼野さん!」
「空でいいよ。彼は最初からそれで呼んでくれたし」
改めて、そんな事を言われると恥ずかしくなる。その方が呼びやすいからそう呼んだだけだと言うのに。
「空さん、長倉君があなたのグループに入るって本当ですか?」
「長倉君? あ、君の名前かぁ」
今更だけど、自己紹介してなかった。二人だけだと、あなた、君、私、俺だけで会話が進行できるから怖い。
「はい、今更すぎますけど、俺の名前は長倉海人です」
「海人君ね。うん、で、もう知っていると思うけど私は蒼野空。あ、空ってのは両親がつけた名前だからね。私がつけたんじゃなく」
ロマンに欠けるというか間抜けさが際立つ自己紹介。それを可笑しく思ったのか、空はくすくすと笑った。目の端で悪戯っぽく問いかける。
「それ、で。なぁんで、教えたのかなぁ? 昨日の事」
「あ、いえ……」
しどろもどろになる海人を庇うように、栗原が慌てて付け加える。
「私のせいなんです! 私が海人君から無理に聞き出しちゃったから」
「あの、なんで名前呼び?」
海人はどうでもいいだろうと思いつつも、聞き返すと、栗原はなぜか拳を握りしめ言う。
「空さんがそう呼ぶから」
張り合うな。いや、この場合は親を真似る子どものような心境なのかと、海人は考えた。
「ふん、聞き出されても巧みに避けるというのが芸能人というものよ」
もう、芸能界デビューですか。夢の……まぁ、普通の少年少女にとってはそうなのかもしれないが。
「あ、でも、この人空さんの大ファンなんですよ?」
「そうね」
あれ、反応が薄い。海人は焦りを感じながら、更に言う。
「空さんが求めているような人材じゃないですか」
「違うわね」
きっぱりと空が答え、海人は沈黙した。栗原は事態が呑み込めてないというように、2人の顔を交互に見つめた。
「えっと、何の事でしょうか? あ、もしかして空さんが結成しようとしている? む、無理ですよぉ!」
「ほら、本人もこう言っていることだし」
おい、待て。こちらは何度も無理だって言ってるのに、無視してきたじゃないかと海人はその理不尽さに心の中でツッコミを入れた。
「あ、でも、わたしヴァイオリンなら出来ます」
おい、やめとけと海人は思ったが、栗原はおどおどとしながらも進み出る。
「あ、でもバンドにヴァイオリンじゃおかしい……ですよね……でも」
「もう、やりたいのかやりたくないのか、どっちなの」
その曖昧さにしびれを切らして怒る空。まるで威圧感がないが、栗原はびくっと肩を震わせた。授業中の凛とした姿しか見た事のない海人にとって、それは新鮮な反応だったのだが、勿論空にとっては違うだろう。溜息一つついて、空は訊ねる。
「名前は?」
「え?」
「あなたのよ」
聞かれて栗原は慌てて、姿勢を正した。面接じゃないんだからそんなに畏まる必要も無かろうに。
「栗原恵美です」
「じゃあ、恵美ね。よろしく」
さらっと言われて栗原はぽかんと口を開けた。
「良かったじゃないか、栗原さん。仲間に入れて貰えたんだよ」
――良かった良かった。これで、俺は入らなくて済むよね
「こら、そこ。苗字じゃなくて名前で呼ぶ! それが私のグループでの掟よ」
勘弁してください。海人、心の切実な言葉。そもそもグループなんていつから出来たのか。昨日のあの時からです。
「じゃ、じゃあ恵美さん……で、いいのかな」
「うん、よろしくね、海人君」
「じゃなくて……いや、俺まだ入るって決めてない」
むしろ入らないと決めた! しかし、栗原改め恵美さんもまた、人の話を聞かない質であるらしい。
「でも、ヴァイオリンでいいんですか? エレキギターとかベースとかじゃなくて」
「うーん、打楽器は欲しい所だけどねー。でも別にヴァイオリンが入る事自体は、おかしくもなんとも無いわ。エレキギターね……その手のやつを入れるとやかましい曲になりそうな感じがするし」
そりゃ偏見でしょうが。しかし、空は一体どんな曲を歌いたいのだろうと気になる。
ヴァイオリン、フルート……ジャズ?
「あれ? じゃあ、海人君は何を演奏するんですか? あ、ヴォーカル?」
「そうなったら、即口パク使いますよ。録音を歌っているのも別人。出る意味がまるでないね」
全くその通りである。まぁ、このまま行くとフルートでも似たような事になりかねない。
「じゃ、じゃあピアノ?」
「……一応、三年間一緒のクラスだったんだからさ。ピアノ弾ける弾けないかくらいはわかりそうなもんじゃないか」
そう、クラス替えでも何故か、変わった事がない。それで結局まともに話した事がないのだから、すごい。
「フルートだよ。でも、歌も出来るようにしないといけなきゃな」
「さも、俺が発言したかのように言わないでください」
隣に立って澄ました顔で言う空に、海人は抗議したが、恵美はぱっと顔を輝かせた。
「え、そうなの? 海人君ってフルート出来たんだ!」
いいえ、出来ません。
「これから練習するのよ。でもね、その為には……我々にはフルートが必要だ」
――えっと、俺の意志はどこかに置き去りですか。そうですか
まあいい。フルートが無ければどうにもならないのだから。まさか、空が買うなんて事はしないだろうし。
「そこで私が買う。これで問題は解決!」
おい、待てとばかりに海人は口をあんぐり開けた。彼女が本気なのは、財布に入っている諭吉の数で分かる。
「そ、その流石にそれは駄目ですよ」
「なぜ? 私のお金よ。私が何買うかなんて自由じゃない。フリーダム」
「いや、でもそのフルートって誰が使うんです?」
「君」
駄目じゃん! と海人は心の中に留めずに叫ぶ。空はなんとも面倒そうな顔で、店に入っていってしまう。彼女はなんというか、金銭感覚がないのだろうか。歌手ってそんなに儲かるのかとか、余計な事も考えてしまう。
「いらっしゃい。おや、昨日のお客さんじゃないか」
そこにいたのは、いつものお爺さん店員。昨日もそうだったが、店長はいつも不在なのだろうか。
「おじさん、フルート買う」
「お、おぉう。買うのかい。それはいいんだけど、まさかどれでもいいとか考えてはいないかい?」
「え? うーん、買える範囲ので。10万とかするのは流石に無理だし」
吹く本人の意見を聞かずに楽器の売買の話が進むというのは、なんとも滑稽な話だ。海人自身はまるで面白くはないのだけど。
「しかし、楽器は安すぎるというのも問題でね。ほら、耐久性とかの問題もあるし、それに音が酷いのだってある。……何々、まるで吹いた事がない? つまり初心者向けか? うーん、ならば、まずはこいつかな。とりあえずどんな人にも合うだろう。悪く言えば、没個性というか癖の強い上級者向けではないがな」
「じゃあ、それ」
――あれ、やっぱり、俺の意見は無視ですか、そうですか
もう、勝手にしてくれと海人はそのやり取りを見つめる。あっという間にお買い上げまで進んでしまう。いいのか、それで。しかし、神は海人を見捨てなかった。
「ふふん、ここに5人の諭吉が……え、あれ? 6万……ですって?」
「いんや、正確には62,800円」
「諭吉と英世がいない!!」
そりゃ、いないでしょうよ、もうとうの昔に死んでいるのだから。それに、いないというより、足りないと言った方が正しいのだが……。空の叫びを聞いて、海人はそっと胸を撫で下ろした。少し残念な気もするが……いやいや、6万もするようなフルート買われたら、大人になるまでの年月を、全て空に捧げなくてはならなくなるに違いない。大体、親に何を言われるやら。
「うーん、そりゃ残念だね。いやいや、100円、10円とかだったら、なんとかしてあげようと思うけど。流石に」
流石にね。1万と千円も足りないのでは。
「ところで、吹くのって誰?」
今更のように聞くお爺さん店員。普通、最初に聞くべき事だろうと海人はツッコミの眼差しを向ける。それに気が付いたお爺さんは何を勘違いしたのか、神妙に頷いた。
「そうか、君か」
「間違ってないけど、間違ってます。空さんが勝手に言っているだけでして。俺は吹く気ないですからね」
驚いたのは、恵美である。だから、人の話を聞かない奴というのは……と、海人は思ったが口に出すのはどうにか思いとどまる。
「え? え? だって、空さんのバンドに入ったんじゃ?」
正確には入れさせられたですが。そして、空の強引さを助長させたとは決して気付かない恵美。無意識だとすれば、非常に怖い。
「いや……、俺には無理ですよ。フルートは」
改めて口に出すと、いかに情けない言葉なのかが、自分でも分かる。無理だから。つい3年前に言われて腹が立った言葉を、今は自分が使っている。しかも、それは技量的な問題だとか、練習する暇がないとかいう事ではない。今は春休み。練習しようと思えばいくらでも出来るだろう。本人にその気持ちがあれば。
「ふうん、なんだか分からないけどね。空さん、駄目だよ。やる気がない人に楽器を買おうなんて思っては」
「やる気を出す為に買おうと思ったんですよ。やる気なんてものは後から付こうが先に付こうが、大した違いはないもの……ま、どっち道お金無かったら、買えないけどね」
がっくりと本当に残念そうに肩を落とす空。ただ、それは買えなかったからというよりも、海人自身のやる気が出なかった事を悔やんでいるようだった。勝手に期待されている事に、海人は怒りを覚える……べきなのだろうが、逆に申し訳ないような気持になる。
「すみません。でも、俺には出来そうにない」
海人は言い残すと、踵を返して店を出た。だが、遠くにまで逃げ出す事も出来ない。それが、呼び止めてもらいたいからの行為だと思うと、自分で自分が嫌になる。
彼の思惑通り或いは裏腹に、恵美が店から出てきた。ちらっと店の中を覗くと空はまだフルートに視線を落としていた。お爺さん店員がその後ろで何かを喋っている。慰めか、もしくは説教染みた事かもしれない。そういえば、彼女は3年前もここに来て、フルートを眺めていたとお爺さんは言っていた。もしかしたら、フルートとは彼女にとっても思入れのある楽器なのかもしれない。
「大丈夫?」
恵美はそんな言葉を投げかけてくる。大丈夫といえば、大丈夫だし、そうでないといえば、そうではない。この曖昧な気持ちは、多分本人にも分からない。
「さぁ、どうかな。空さんには失望されたかもしれない。元々、なんでそんなに目を付けられたのかも分からなかったけどさ」
「空さんはしばらくこの店で待っているってさ。ちょっと歩こうか?」
言いつつ、恵美は歩きはじめる。やけに親切だなと、海人は思いながら後に続く。これまで接点など皆無に等しかったというのに。