5番
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何もかもが上手くいかない。それがもどかしかった。自分には出来ないと心の底では分かっていた。それでも、もがき、あがいて、「あきらめろ」という声の風に抗って。だけど、結局流されてしまった。無難な道を選んでしまった。風の吹き荒れる道ではなく、風も雨も吹きつけない楽な道を。
それが間違っていたとは言えない。だけど、あの時の感動は、もう取り戻せない……。
――午前6:00
カーテンから差し込む光に、海人は目を覚ました。元々、朝は早く起きる性質だったから、この時間帯に目が覚める事に不満はない。しばらく蒲団の中でぼんやりとし、それから裸足の足を掛布団の上に投げ出す。そうして昨日の事を思い返す。夢であったなら、と考えるが、枕元に置いたサイン入りのカードが確かな証拠として残っている。昨日の日の出来事が現実であったと。
――心の底から音楽がやりたくなるように、ね
海人は昨日宣言された事を思いだして、未だにどうしてあそこまで、入れ込まれたのかが分からなかった。仕組まれたドッキリ計画の一端なのではないか、とすら思う。今、こうしている間にもテレビ番組の仕掛け人が、どこか(何故だかホテルの一室が思い浮かんだ)でほくそ笑んでいるのではないか……。
だが、仮にそうだとして、あそこまで個人の内情に入り込んで来たりするだろうか。
――やるなら、事前に言え……て、それではドッキリにならないか。やるなら、別の芸能人か暇な人間に仕掛けろよな。
明らかに昨日は暇だったろうに、海人はそんな怒りを、どこの誰とも分からない番組プロデューサーに脳内電波で送りつける。しかし、だとすれば、一体誰から誰までが仕掛け人なんだろう。もしかして、家族もだろうか? 父と母と弟の彰浩。彼らも「敵」だろうか。そんな疑心暗鬼に海人は陥りつつあった。
じっとしていると怖くて仕方がないので、とりあえずパジャマから私服に着替えリビングへと向かう。長倉家は二階、屋根裏部屋付の一軒家だ。各自の部屋は二階にある。一階はリビングと風呂、そして。
「よ、ゆず。起きてるか」
一階の部屋の一つを開けて海人はにこやかに聞いた。決して、女の子を家にこっそり引き入れているとかそんな事ではない。ゆずと呼ばれたのは真っ黒な毛並みのミニチュアダックスフンド。
海人の足音に起きて、ゆずはケージの中で弾かれたように起きた。柵に前足を掛けて、ぴょんぴょこ跳ねまわる。海人になつきすぎて、恋心を抱いてしまっている……わけはない。
海人が押入れから餌を取り出し、皿に盛りつけると、いよいよゆずの興奮も限界に達し、大きく「ワン!」と吠えた。浮いているのではないかと思う程に跳んで走り、吠えて……。
「はいはい、ほらよ」
海人がケージの中に置くや否や、ゆずは更に口を突っ込ませて餌を貪り食う。その様子を見ながら、海人は思った。
――犬は流石に仕掛け人にはなれないよな
なるなら仕掛け犬。
「餌をもっと多めにやるかな」
そんな事を考えていると、物音と吠え声に気付いてか、二階の方でドアが開く音が聞こえた。慌ただしい足音は、弟の彰浩のものだろう、と海人が思っていると果たしてそうだ。
兄の海人と同じくオールバックっぽい髪型の小学5年生。瞼が半分以上下がっていて、寝ているのか起きているのか分からない。
「おはよ、兄ちゃん。餌は?」
「……起きたか。もうやった」
「えー、なんでだよ。ずりぃ!」
何がずるいのか、さっぱり分からないが、やってしまったものはしょうがない。恐らく、彰浩にはゆずは自分の物であるという感覚があるのだろう。そもそも、ゆずを飼いたいと言い始めたのは弟の彰浩の方だ。
「別にそのくらいいいだろ」
そう返してから、ふと海人は思い出して聞く。
「なぁ、お前。蒼野空って知ってるか?」
「え? 歌手だろ。映画とかドラマの歌で有名。最近は出なくなって、辞めたとか聞いたけど」
あのお爺さん店員と、言っている事に変わりはない。だが、念のため。
「その後、お笑いタレントに転向したみたいな話は?」
「てんこー? あぁ、変わったてこと? ないよ。てか、なんでそんな事聞いてくんのさ」
怪訝な表情になる弟に、海人はぎくりと肩を震わせた。「怪しい」と彰浩は詰め寄る。とはいえ、たかが小学生。何が怪しいのかまでは見抜けない筈。
「そういうの興味ないくせに。あ、もしかして、道端でたまたま出会ったとか?」
されど小学生……何故、ばれたと海人は心の中だけで訊ねる。「そんな都合のいいことあるかよ」
実際あったけどね。そして現実は弟の想像よりも奇なりである。
「いや、でも昨日テレビでちらっとやってたよ。蒼野ちゃんが近所の商店街で歌ったて。チクショウ、知ってたら行ったのになぁ」
はて、弟は空のファンだったのだろうかと、海人は一瞬訝しんだ。だが、彰浩の興味はあっちに行ったかと思えばこっちに行ったりする感じなのでそれほどには気にならなかった。
――まぁ、そんなもんなんだろう。普通は。つい昨日まで自分も似たような性格だったし。彼女に会うまでは。
「え、彼女?」
「は?!」
都合よく目覚めた兄弟の絆によって駄々漏れに! ……とかではなく、単に心の声が独り言として駄々漏れになってしまっただけである。そして、なんんとも希望の無い事に、丁度父と母が二階から降りる所だった。えぇい、いつもであれば、バラバラに降りてくるのに何故今日に限って!
「なんだ、朝から大声出して」
「あら、おはよう」
そんな事を言いながら降りてくる父上と母上。弟は、兄が制止する間もなく、報告した。
「今、兄ちゃんが彼女に会いに行くとか行かないとか言ってたよ!」
二人の歩みが一瞬止まる……次の瞬間、さっきの注意はどこへやらドタバタと大きな音を立てながら、駆け込んできた。この家も中古なんだからあんまりドタバタしないでと、日頃から注意してきた本人達が、である。
「え、え? 海人ちゃん、彼女出来たの?」
まずはお母様に甘い声で問い詰められる。ちゃんとか止めて欲しい。
――父にちゃん付けされないだけマシかぁ
そんなバグった事を考える。そのお父様は、後ろで苦笑したまま黙っている。何とか言えよと思わないでもない。そして、2人ともどうしてこういうくだらない話題の時だけ、食いついてくるのだろうと思う。
「こいつの聞き違いだよ。ほら、朝ご飯にしようよ」
そう言ってリビングに向かう。これで回避できた……と思ったら大間違いである。
「えー、嘘だよ。俺ちゃんと聞いたから」
「え、で、で、お相手はどなたなの?」
「…………」
「わんわんわん(意味がわからないけど、全員集まったので興奮状態)」
えぇい、喧しいが、最後の一人は何も言わないのかい! と海人は鬱陶しく思いつつ、トーストにパンを、フライパンに卵とベーコンを入れる。家族分。いつもやっているわけではないが、このままだと、朝ご飯をまともに作って貰えまいと思ったからである。
「ねー。お父さんも嬉しいよねー。海人に彼女が出来たら」
「あぁ、そうだね」
母に問われて父答える。生返事に聞こえなくもない。この反応の薄さを海人は密かに嫌っていた。常に母の言いなりだし。自分の意志で息子と話す事が一度でもあっただろうかと、海人は記憶の底を掘り返してみる…………多分、産まれて間もない時から幼児期辺りまでだろう。記憶ないけど。
さっさと朝ご飯を皿に盛りつけ、海人は食べ始める。ないって言ったらないと言うに、この母と弟(後、弟)の無茶振りは執拗さを極めた。
「もう、外行ってくる!」
「彼女逢いにー?」
「あぁ、空気な彼女にな!」
気を抜けば空だ! とか、くだらない事を思いつつ海人は家を後にした。夕方には帰るのよという母の声と弟の冷やかしと父の無言の眼差しを背中に受けつつ。受ける物多いな。
玄関を出て、道を出てしばらく歩いてから、ようやく息をつく。やれやれ、独り言って怖い。本当怖い。
空を彼女だなんて、本人が聞いたらなんと言うだろうか。そもそも、その彼女にバンドに誘われてますなんて、家族に打ち明けたらあんな平和な反応は示さなかったに違いない。きっと別の彼女にしなさいと勧められる。
――彼女まで、部活みたいにとっかえひっかえできるとか思われてたら……いや、部活もとっかえひっかえ出来ないけどさ
神経質だろうかとも思うが、そうならざるを得ないよと、海人は自問に自答する。言い訳のように。