32番
携帯のGPSを頼りに、海人と尾田の2人は芹沢の元へと駆けていた。芹沢の足は思っていたよりも早い。走っているのではないかと思う程に。しかし、走っているのではないようだ。芹沢の背中が遠くに見えて、分かった。
「あいつ、歩くのがすんごい早いらしい。1人の時だろうが、同伴者がいようがな」尾田がそう教えてくれた。芹沢は、他人のペースに合わせて、という事を嫌う性格のようで、それは歩くという至極日常的な所にまで及んでいるようである。
芹沢と後ろの2人が今、歩いているのは、駅からも商店街からも……つまりは、AC社がある所からは大分離れた場所だった。尾田に連れて来られた秘密基地の周辺と同じか、それよりも酷い。
立つ家は皆、薄汚れて赤茶色のペンキをぶち撒けたかのように、錆びついているか、煤に塗れたかのように真っ黒な家もあった。しかし、それならばまだいい方で、建設途中のまま、放り出された家や建物、取り壊し途中で止まっている家もあった。時々、建設途中なのか、取り壊し途中なのか、分からない物もあった。
「不良がたむろするには、丁度良さそうな場所だろ?」
尾田が嘲笑気味にそんな事を言った。確かにそうかもしれないと、海人は思った。そして、その責任の一端は大人にもある。建物をところ構わず立てては、放っておくなど。
「あいつ、住みやすそうな所を探しているとかじゃないだろうな」
作りかけの建物を一軒一軒、確認していく芹沢を見て、海人は疑問に思った。
「探してるのは不良組だろうさ。しかし、こんなごちゃごちゃした場所じゃあ、いても探し当てるのは大変だな」
そして、ふと前を歩く芹沢が立ち止まり、一際高い建物を見た。どうやら目的地らしい。突然、尾田が海人を自販機の影へと押した。
「まずい、隠れろ」
何事かと思っていると、芹沢が辺りを見回している。あぁ、そうか。いい大人が、これから不法侵入する様など、誰にも見られたくはないだろう。彼にとっては幸いな事に、この辺りは人の通りも少ない。芹沢はさも、「道はこれで当ってたかな」という感じを装い、辺りを見回した。そして、人がいない事を確認すると、その荒ら屋へと入って行った。
成程、尾田が怪しむのも、無理はないかもしれない。海人が尾田を見ると、彼は頷いた。
――入るしかないか。
不審なおっさんが建設途中の建物の中へと入って行った。これだけでも、警察に突き出すだけの価値はあるかもしれないが、海人達はその先の事を知りたいのだ。
2人は芹沢が入って行った、高く横幅の広い建物の、扉の――正確には扉となるであろう場所の――両側に張り付いた。そっと中を覗くと誰もいない。尾田が入るぞと、首を振って促す。
中は閑散としていた。尾田達が陣取っていた場所以上に何もない。周りは白の壁と、途中で放りっぱなしにされた資材があるだけ。窓が幾つもあるが、どれもガラスが嵌め込まれておらず、外の風に中が風に晒されていた。
やたらと開けていて、そのおかげで何かを見落とす事も無い。
床に散らばった物を踏まないようにと、気を付けながら中を進んでいくと、左端の奥に階段が見えた。その近くには乗用車用の大きな出入口があった。こちらは開閉用の扉がしっかりとつけられている。
「どうやら、ここは駐車場みたいだな」
「ここは小さめのマンションか、アパートか、それとも豪華な一軒家か。そんなところだろうな」
尾田の言う通り、この広さの駐車場に入るのはせいぜい、車5台程。そして今は1台も駐車はされていない。そう、少なくとも車は。
「で、これは無断駐車に当たるのかな? 俺も人の事をとやかく言えないけどさ」
階段の近くに並んだバイクを見て、尾田は自嘲するように言った。全部で10台。これは芹沢がこれから接触しようとしている不良少年達の物なのだろうか。
そんな事を考えているとふと、上の方で何か足音のような物が聞こえた。それも1人2人ではない。10人以上はいる。たまに笑い声みたいなのも聞こえてくる。
海人が天井を見たまま、固まっているのを見て尾田も、耳を傾けた。
「芹沢のやつだな。恐らく」
「どうすんだ? ここの不法占拠だけでも警察呼ぶには十分だと思うけど」
「いや、これだけじゃ駄目だ。あいつはなんとでも言い逃れするだろうさ。いつもそうだ」
いつも。その言葉と尾田の苦々しそうな表情に引っ掛かりを覚えて、海人は聞いた。
「いつも?」
「あぁ。前にな。やつが自分のブログの中で、アイドルは自分達の奴隷であるみたいな事を書き立てたんだ。それが会社内で問題になりかけたんだが、あいつはその記事を消して、何も無かったかのようにふるまった。そんな事実は無かったと押し通したのさ」
「それで、押し通るもんなのか?」
「あぁ。会社側だって出来れば事を荒立てたく無かったからな。不問にされたよ」
尾田は肩を竦めるのを見、海人はそうかとだけ答えた。恐らくは自分の都合だけを力で押し通してきたタイプの人間なのだろう。そのような人間を海人も、何度か見た事がある――……いや、と海人は首を振る。
――今は思い出に浸っている場合じゃない
ここを通報するだけで無駄と言うならば、もっと踏み込む必要がある。決定的な、芹沢個人では消し去る事の出来ない証拠が。その為には覚悟を決めなければならなかった。
「じゃあ、とりあえず、上の階に行ってみよう。だけど、無茶はなしだ。それで今までやって来た事が無駄になるかもしれないからな」と海人は、尾田に釘を刺しておいた。
「わかっているさ」尾田は答えた。とても冷静な口調で。――だが、だからこそ、海人は心配になる。しかし、これ以上言った所で、煩わしがられるだけ。海人は内心の不安を出さずに「よし」と頷く。
2人は階段を上り、上の階へと向かった。階段に見張りがいる事も警戒し、慎重に足音を立てずに上る。海人の心臓は咽喉から飛び出してしまいそうな程に、激しく鳴っていた。腰を屈め、顔を半分覗かせて、上の階を覗く。
壁の素材の独特な臭いが鼻を突き、海人は顔をしかめた。上の階はまだ骨組みだけの部分が多い。が、やたらと開けた空間があり、端から端まで横長に広がるガラスの無い窓が見えた。その場所で高校生位の少年が10人程、屯していた。どうやら、ここはスポーツジムのようだ。正確にはなる筈だった場所か。
芹沢の姿は無い。建物は少なく見積もっても5階程の高さだった。彼は更に上の階にいる可能性もある。
「これ以上進んだら見つかるな」尾田が耳打ちし、海人は頷いた。
「しばらくこのまま、様子見だな。そのうち、上から降りてくるだろうし」
「お前ら、そこで何してんダ?」
突然、下から声を掛けられて2人は飛びあがった。瞬間、2階にいた少年達の視線が2人に集中した。テリトリーに侵入してきた余所者に、少年達は獣のような唸りを発して威嚇する。
「オイオイ、なんだ、てめぇらはあ!!」
「人様の家に土足で入り込みやがってェえ!!」
お前が言うなという言葉を進呈したい。しかし、海人も尾田もそんな反論を言うだけの余裕が無い。固まっていると、階段を駆け足で昇ってくる音が聞こえた。
考える間もなく、2人は2階へと飛び出した。少年達がある者は拳を握り、ある者は自ら木を削って作ったものか、粗雑な木刀を握った。流石に鉄製の武器やナイフを握る者はいない。無意識なのか、或いは意識的なのか、怪我をさせると殺すの一線だけは超えないように心掛けているようだ。
それを感心すべきなのか、呆れるべきなのかは判断に迷う。大体、例え拳であっても当たり所や状況によっては、人を殺してしまう事だってあるというのに。そして、少年達の殆どが素人だ。拳の構え方は、ただただ相手を殴る事だけを意識しているようだし、木刀の構え方に至っては、打つのではなく、振り回す気満々だ。
部屋の不良達から、そして階段下から上ってきた少年からも、距離を離すように2人はぐるっと壁に沿って回り、さりげなく階段へと近づいた。
海人はちらっと横を見た。身構える尾田もここにいる不良達と大差なく、隙だらけだった。喧嘩慣れしていない上に、相手の方が数が多い分、不良達よりも不利だろう。
海人自身も特に喧嘩慣れしているというわけではない。これまで絡んできたのは、せいぜい三人組のようなへらへらした感じの、からかうだけが目的の不良ばかりで、ちょっと脅せばすぐに引っ込んでくれた。彼らが同じように引っ込んでくれるとは思えない。
「ここにおっさんが入ってくのを見て、不審に思ってついてきただけだ。君達がいるとは知らなかったんだ」と海人は真実半分、嘘半分な事を言って誤魔化そうとした。
不良の1人が反射的に口を開き、「ア? おっさん? 芹沢さんの事かぁ?」
「おい、馬鹿!」と隣にいた不良が小突いた。確かに馬鹿だ。
「いるんだな?」声のトーンを落とし、海人は訊ねた。決して臆しない。これが集団相手の時に肝要となるところ。決して相手が、有利だと思わせてはいけない。
「へいへーい、何、身構えてんだよぉ」不良の1人がへらへらと挑発する。そいつに向かって行こうとした尾田を海人は引き止める。
「いるのか、いないのかどっちなんだい?」
「いるとも」その声は、階段下より聞こえてきた。
先程の少年達を押しのけて、芹沢は現れた。
その手にはよく見慣れたニット帽が握られていた。
芹沢がそれをこれみよがしに掲げ笑い声を漏らす。
海人の口から冷たい息が吐き出され、拳が震えた。
衝動に操られ、振り上げられる拳。
少年達の合間を縫って、海人は駆けた。瞬発的なその動きに、不良達の拳や木刀が遅まきながら動く、しかし当たらない。
海人が一気に間合いを詰め、その動きに芹沢は目を見開いて驚き、逃げようとした。
海人はその頬を思いっきり殴ろうとし、ある事に気づく。刹那、頬桁に向かう腕の軌道を捩じりこむようにして修正し、胸倉を掴んだ。そのスーツを引き千切らんばかりの勢いで。
「ハハハ、どうした。怖いか?」芹沢が息を絞り出すように笑う。それが虚勢だというのは、その場にいる全員が分かった。少年達から笑みが漏れたが、海人に対してというよりも、芹沢の及び腰に対してだ。
「その頬、誰に殴られた?」海人は芹沢の左側の頬に視線を落として訊ねる。
「あの小娘さ。取り押さえる時にな。少し元気があり過ぎる所があるが、それがファンにも受ける」
「何の話だ」
「自分達でバンドを作るだと。そんなくだらん事はさせん。多くのファンに恵まれたのは誰のおかげか今一度、思い出させてやろうと思ってな」
海人はその胸倉を更に強く締め上げた。世の中にこれ程、醜悪な人間がいるとは思ってもみなかった。しかし、この目の前の人間は、尾田の言う通り危険な男だ。
「金か? 金の為なのか?」海人が訊ねると、芹沢は哄笑した。
「金か? ここにいる少年達をその気にさせるのに、どれだけの金を払ったと思う?」
その穢濁した瞳に一瞬、信念とまではいかない――彼を衝き動かしている物を見てとれた。確かに金の為であると考えると無理があった。この場にいる少年達を動かし、その気にさせるのに、どれだけの金が必要なのだろう。海人には想像もつかなかった。
「最初はな、もっと年上のヤクザ連中を使おうと思ったんだがな、大人は複雑な事を考え過ぎる」
「もっと操りやすい駒が良かったわけだ」と海人は嘲笑する。何のことはない。自分よりも遥かに強い者を相手に交渉が出来なかったというだけだ。
「彼らの気を落とさせるつもりなら、無駄だぞ。――君達、何をしている。さっさとこの暑苦しい奴をどけろ」
周りにいた少年達は我に返り、海人を捕えようと輪を狭めてきた。チッと海人は舌打ちした。不信を植え付ける意味もあって、告げたのだが、まともに聞いている奴はいない。
――2人位なら大丈夫か?
海人は拳を構え、自問する。2人は左右から、へらへらと笑みを浮かべながら迫ってくる。心情としては、負けられないという思いがあるが、勝てるかどうかは別。
と、その時、左から迫ってきた少年の体が、逆くの字を描いて、吹っ飛んだ。海人は驚き、その援護が自分の見知った友達の物ではない事を見てとり、更に驚いた。
「てめぇら、まさか本気でやるとは思ってなかったぞ」
そこにいたのは、あの公園にいた金髪少年だった。キックをかましたままの態勢で、彼の顔は不機嫌そうに歪んでいる。その後ろに空と恵美、そして3人組がいた。
彼女の栗色の髪がざわっと風に吹かれて揺らめいた。その芯のこもった声が、腹の底から放出される。
「あんた、私の友達に何してくれちゃってんのよ――!!」
彼女が突き出した手の中には、真っ黒な棒のような物が握られていた。それは良く見ると刀の柄のような物が付いている。
「助けに来たんだぜ!」と伊藤、加藤、佐藤の3人。その後ろから身を乗り出すように恵美も。
「大丈夫? 海人君」
そのよく訳の分からない状況に、不良や芹沢だけでなく、海人までもポカンと口を開ける。
「あ、あの、空さん。そいつは?」
「え? 彼は野口英世君。ね、医者みたいな名前でしょ?」
「いや、医者みたいなというか日本史上有名な医者の名前そのもの――ってそうじゃなくて!」
コントしてる場合じゃないというのに。しかし、空は野口という名の少年を警戒している様子はない。
「こいつらが、馬鹿な誘いに乗ってるって聞いて、止めに来た。それだけだ」
野口はそう言って、不良少年らを睨みつける。かつて仲間であったのであろう、彼らはぎくりと後ずさった。
「俺達は大人を信じない……大人を信じられないっていう考えで集った筈だ。それがなんだ、なんでもって、そんなクソったれな大人が出す金に釣られて、こんな事をしてやがる?!」
彼らは皆無言であった。無言のまま、野口にも向かってくる。
「ふん、そんなお金で釣るような奴についていくのは、止めておきなさい。ろくな目に合わないわよ」
空は腕組みして、周りを睥睨する。すると、集団の中から芹沢の声が上がった。
「何をしている。全員やってしまえ! 容赦はするな!!」
海人は軽く笑った。自然、野口と目が合う。
「すまないな。殴り合うより他にないみたいだ」
「気にするな。あいつらの目を覚まさせる必要がある」
野口のその返答を得て、海人は振り返り、空に促す。
「空さんは早く逃げてください。いつまでもここに――」
「馬鹿ね、元ちゃんを置いて行ける筈がないでしょ! 彼どこにいるの?」
――元ちゃんね
その微妙な呼称の違いに気が付いて、海人は奇妙な気持ちになった。嫉妬にも近い気持ち。それをどうにか振り払って、海人は答えた。
「上の階に。ほら、足音が聞こえませんか?」
「だったら、猶の事、帰れないわね」
そう言って、彼女は動かなかった。そう、尾田の事は海人も心配だった。上の階からは、ばたばたと荒々しく、ばらばらな足音が聞こえてくる。尾田はどうやらどこかに隠れているらしい。
この場の相手は7人。数では拮抗しているが、恵美と空は女の子だ。とても戦え――
「殴り合い? だったら、まず最初に私を殴りなさいよ!」
恵美は海人と野口の2人を押しのけて前にでるとそう宣言した。澄んだ凛とした声が、辺りに響き渡る。少年達はその思わぬ行動に後退った。
空が獰猛な笑みを浮かべてそれに続く。
「そうよ! やれるもんならやってみなさい!!」
ひゅっと柔らかそうな剣を振るい格好よく構える。
そう、恰好だけみりゃ格好いい。
しかし、なんというか…………――当たっても痛く無さそうである。そして、何かが飛ぶ音が聞こえた。
「え、あ、あー!!」
空が叫ぶその手元で、剣がみるみるうちに萎んでいく。まるで空気が抜けたように……。
「空気が抜ける!!」
――空気だった。
本来、ここは笑う所なのかもしれないが、その場の誰も笑う事は無かった。笑いの起きないギャグほど、寒い物も無い。海人はすぐさま動いた。3階への階段に向けて。反射的に動いた1人の少年に肩からタックルをかまして、吹き飛ばす。そのまま、駆け足で階段を上る。後ろから誰かが続いた。
――しつこい!
海人は壁に張り付いた。追手の出鼻を挫こうと腰を沈める。
慌ただしい駆け足がすぐ傍まで近づき、そして――。
「わっわぁあああ!!」
海人の目の前でこけた。
その間抜けな追跡者に制裁を加えようと拳を振り上げ、海人は気が付いた。
「痛いなぁ……海人君、行くなら行くって言ってくれなきゃ。それだから君はいつも……」
いつも何なのか、その先は尻すぼんで行ってしまい、聞こえなかった。
下は大乱闘となっていた。怒鳴り声や叫び声、木刀が床を叩く音等が上にまで聞こえてくる。冷たい汗が海人の背筋を流れた。
と、その時、下から声が上がった。
「空さーん!!」
「大丈夫ですからねええ!!」
「行ってくださいい!! 恵美さんは守りますからぁあ!!」
あの3人組の声だった。どれが誰だかは、分からないが皆必死である様子が海人にも伝わってきた。
「ほら、早く。下はなんとかするって野口君が言ってた。彼に任せとけば大丈夫よ」
やけに野口を推すな、と海人は訝しげに思いつつ辺りを見回した。すると空は、それを察してかこう付け足した。
「あの公園で話したのよ。そしたら、私のファンだって言うもんだから」
「ファンには甘いんですね……」海人は思わず呆れる。
「ここの不良軍団の元リーダーだったって言うから連れて来たの。最初は拒否って来なかったんだけどね。私達がピンチに陥った時に颯爽と登場したの。すっごく強いから安心よ!」
「へーへー、そうなんですか」少し嫉妬した。先程の登場の仕方といい……格好良すぎる。
「で、尾田君は?」
「この階のどこかにいる筈です」
そう言って海人は改めて見回す。そこはこの建物の中では一番未完成であるらしく、剥き出しになった無粋な鉄骨が幾つも見える。こちらは下の階に比べて入り組んでいて、通り道も狭い。完成した床以外に工事用の足場があり、危険だ。
「足音がさっきまで聞こえていたんですが」と、海人は注意深く歩きながら言う。緊張と焦りで、呼吸がすっかり上がっていた。
尾田はどうなったのだろう。いや、どうにかなったのだとしても、静かすぎる気がした。頭に浮かんだ嫌な予感を、海人は口にせずにはいられなかった。
「空さん、もしかして尾田達は事故に遭ったのかもしれません」
「えぇ、だとしたら、こっそり行く意味が無いわね」
空は言うが早いか、走り出していた。ガタガタと床が不安定な音を立てて、揺れ、海人はひやりとした。今にも床が抜けるのではないかと思ったが、彼女は危険を顧みない。スロープ付きの通路を手放しで走り抜け、振り向く。
「ほら! 何ボサッとしてるの!」
呼びかけられて、海人はええい、ままよと走り抜ける。床は抜けなかった。空の目の前で海人は膝に手をつき、息を荒げた。
「海人君、これ」と空は目の前を指差した。そこにはまた通路が一本伸びている。その両側には壁とドアの無い部屋が幾つもあった。しかし、空が言ったのはその事ではない。
通路の床。そこに、水が張られていた。うっかりと零したかのように、広がっている。その水面に薄らと海人達の顔が映り込む。
「ただの水……ですね。多分」
壁に跳ねた跡があるのを見て、海人は言った。傍にはキャップのないペットボトル水が転がっていた。工事の人間が置きっぱなしにして忘れた物なのか、かなり汚れている。尾田が追ってを撒く為にわざと、落としていったのだろうかと海人は考える。
ふと、通路の向こうから、囁き声が聞こえた。小さく、弱弱しいが、確かに聞こえる。それも3人分。
「あの通路の突き当りの右の角にいます」
「あそこ? あ!」と空が叫んだ。
「靴の先が見えた!」
――靴の先? 倒れているのか?
空はそこに飛び込むように駆けた。水が跳ね、服が濡れるのもお構いなしに。が、逸り過ぎたのだろう。空の足が滑った。
「わ、あ、あ?」
頭が落ちて、足が上がり、一瞬空の体が浮かび上がる。
「危ない!」
海人は走り寄ってその体を受け止め――切れずに、盛大に水しぶきを上げて背中から転んだ。
「だ、だいじょうぶ?」
海人の体を押しつぶす形になってしまった空は、慌てて起き上がり手を差し伸ばした。
「いえ、それより、尾田は」
痛みと濡れた感覚に、顔をしかめながら、その手を取り立ち上がる海人。2人は曲がり角から顔を出し、慎重に辺りを伺い、そして彼らを見つけた。
「よお、2人とも。遅かったな」大の字に寝転がった状態の、尾田が右手を上げて、弱弱しく笑った。
「元ちゃん!」
空が声を上げ、駆け寄り屈みこんだ。彼を追っていた不良少年3人も床に転がっていた。皆あの廊下で転んだのか、びしょ濡れだった。
「お前達は一体どうしたんだ?」海人が訊ねると少年の1人が自嘲気味に笑って答える。
「盛大に転んで滑ってさ。危うくそこから落ちかける所だったんだ」と、鉄色の壁と廊下の隙間を右手で指差した。そこからは風が吹き、アスファルトの地面が遠く見えた。
「そいつが助けてくれた」と2人目が言い、3人目が頷いている。
「あれは、その……やり過ぎたと思ったからさ」と尾田は空に支えて貰いながら立ち上がった。引っ張り上げる時にかなりの負荷が掛かったのか、右腕が痺れるように痙攣していた。
少年は首を振る。
「自業自得さ。俺達は何の為にこんな事してたんだろうな。野口の言う通りだ。こんなの馬鹿げてるだけで、面白くもなんともない」
少年達は黙り込み、痛々しい静寂が場に流れた。海人は少年達に同情した。
彼らがどういった経緯で仲間となり、どんな事をしていたのかは分からない。聞けば、呆れるかもしれない。或いは眉を潜めるかもしれない。
だが、彼らにとってみれば、それでも楽しかったのだ。
野口が彼らに向かって叫んでいた事を、海人は思い出す。
――俺達は大人を信じない……大人を信じられないっていう考えで集った筈だ
野口は怒っていたが、多分、彼らが大人を信じられないという思いはその時もあったのだと思う。彼らが信じたのは芹沢ではなく、渡された金だ。
芹沢がどんな人間かなんてのは、一切考えなかった……。
「あいつは、芹沢は恐ろしい奴だ。だから――」言いかけて、海人はふと振り返った。
ぬっと現れた人影。
空と尾田が息を呑んだ。
大きな拳が、風を切り唸りを上げて、すぐ手前まで迫る。それでも、海人は身を屈めてそれを躱した。長身痩躯の男が繰り出した力任せのパンチを。
芹沢はよろめき、壁にぶつかった。危うく、不良少年が落ちた隙間に落ちそうになるが、壁で体を全力で支えて、踏みとどまる。
壁についた手を発条にして、再び海人に殴り掛かる。しかし、今度は難なくその腕を躱し、横に受け流し、その頬桁に掌を叩きつける。
「うぶわ!!」
芹沢は無様に尻餅をついて、転げた。海人から距離を離そうと必死に床を這い後ろへと下がる。
「それ以上下がらない方がいいですよ」
「わっわっ来るなー!」
怯えるおっさん。これでは、どちらが加害者なのか分からない。
「いや、本当止めた方が」
「ば、ば、やめろ、この餓鬼が――おわあああ!!」
後ろに壁は無く、芹沢の体が下のアスファルトで固められた地面へと落っこちていく。ここでもし、落っこちて貰うと、寝覚めも悪いのでと、海人はその服を掴んだ。が。
「え、重――」




