3番
「な、ないです」
その気魄に怖気づいて、ついそう答えてしまった。空は、そうっと呟くと手を離した。特に残念そうでもない。その回答も予想していたというように。そして、一度興味が引くと彼女は、バッサリと切り捨てられる性格なのだろう。未練等まるで無いように、にっこりと微笑んだ。営業スマイル。
「残念。ごめんね、突然」
そして、そのまま来た時と同じように、堂々と階段の方へと歩いていき、階段を下って行った。先程まで言い争っていた少年も慌てて、その後を追っていく。
嵐が去った後のように店内は、静まり返った。誰も彼もが、彼女が去った方向を眺めている。海人は呆然としたまま、すとんと椅子に腰を下ろした。酷く疲れたような虚脱感があった。
周りの客たちは、次第に誰からと言うでもなく、話し始め喧騒を取り戻していく。野次馬達の大半は店から出て行ったが、数人が残った。この店の食事を取る為ではない。海人の座る席をぐるりと取り囲んだ。
「よお、お前、空ちゃんに、何言われたの?」
少年達は特に柄が悪そうとかいう事もないのだが、やたらと小馬鹿にするような口調だった。年は海人よりも少し上といった所か。多分高校生だ。
「何だっていいだろう。どっち道断ったんだから」
海人は言うと、立ち上がり少年の肩を押しのけた。少年たちは安っぽいバトル漫画っぽく殴り掛かってくるなんて事は無かった。あくまで茶化すように後ろからへらへらとついてくる。殴りたいその笑顔。
「へえ、お前みたいなのが、声掛けて貰えるなんてなー。世の中理不尽に出来てんなぁー」
「そーですねー」
海人は少年の声を真似て、なるべく小馬鹿にしている風を装うが、内心では苛々と恐々した感情が共存していて、声も自然震えてしまう。少年達は1階に降りても付き纏っていた。歩き方がへらへらとしていて、前にプレイしたゲームに出てくるゾンビを思わせた。
――何がしたいんだ、こいつら。
1階で勘定を済ますと同時、海人は走り出した。
「あ!」
少年達は完全に不意を突かれたようで、出遅れる。その隙に海人は走った。走って自分のシャツの胸ポケットに手を入れた。そこには小さなカードが入っていた。白と薄い桃色の柄のカード。そこには細い字でサインがしてあった。
――私の歌に新鮮な反応を示してくれた者に送る。THANKS
何気なく裏返してみた時、後ろの方でさっきの野次馬共の罵声が上がった。「待てコラ」だの「おいおいおい」だの、ロマンティックとは程遠い。語彙を増やせと、海人は思った。だから、ゆとり世代はだの、なんだの言われるんだと。しかしながら、いつの時代の馬鹿もやたらとカッコイイ言葉は知っていても、語彙数は少ないのが普通なのである。
路地の横道に身を翻し、じっと息を殺して待つ。少年達は海人の目の前を罵声を上げながら走り去って行った。まるで、漫画か安っぽい映画の中の追手みたいだ。
ふうっと一息。「逃げるが勝ち」と海人は勝ち誇って言った。幕末の桂小五郎か、お前は。
それから、路地に出ると元来た方へと引き返し始める。ただし、行先はあの喫茶店ではない。ちらっと見たが喫茶店には、ペンやらメモ帖やら写真機を持った人が数人集まっていた。なんともわかりやすい構図だ。彼らは肉を取り逃がした獣みたいに辺りをうろうろしている。
店にいた人と話している記者もいて、海人の足は自然、早くなる。あれは週刊誌とかの類の新聞だ。自分が蒼野空と一緒にいた事がばれたら、何を書き立てられるやら。まさか、店の人の話だけで、特定される事はないだろうけど。
適当に歩いた道のりだが、改めて通るとなんでもない。どこにでもあるような道路だ。両側にはビルが立ち並び、車や人が忙しなく通り過ぎていく。こんな道を通り過ぎて何かが起こると思っていた自分が恥ずかしい。これは外に出ると毎回思う事だった。それなのに、次にまた外を歩く時は「何か起きるんじゃないか」と思ってしまう。
――まぁ、今回は実際に何かが起きたわけだけども。
その何かは海人の想像を大きく上回っていた。彼女の存在感は、自分なんかよりも壮大で、それこそ空の上の人間のように思える。自分のようなちっぽけな人間はただ、それを見上げるだけしか出来ない。
――多分、世の中の人間の殆どがそんな感じなのだろう。
それなら、何故海人はこんなところに来たのだろうか。
「あの爺ちゃん店員の言った通りになったな」
今、立っているのは楽器店の前。3年前と同じく。
「俺は入って何をしたいんだろうか」
カードの裏に書いてあるのと同じ名前の店。
「ま、ともかく入ろう」
窓から見えるのはあの少女の顔だった。






