22番
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そして、結局ジュースを買ってくる役を仰せつかった。あれだけの金持ちならば、どこぞの南国の果物を使ったジュースが冷蔵庫にたんまり入っていそうなものだが、冷蔵庫の中は空だった。
そこで、直人から小遣いを貰い、近くの自販機でジュースを買う役目を海人が請け負った(負わされたとも)
春とはいえ夜は寒い。だが、あのカラオケ部屋で火照った(主に羞恥心で)体を冷やすには丁度良く、心地も良かった。雲の合間から月の光が穏やかに漏れ、海人の今にも暴走してしまいそうな気持を抑えてくれる。
あの後も何度か歌ったのだが、海人が最近の曲に疎いのをいいことに、空や弥生が勝手に選曲した。その大半が変と言うか奇妙と言うか、ネタを狙っているなというのが分かる曲による無茶振りで海人は四苦八苦した(奇妙な事にというか、不名誉なことにというか、点数は何故かかなり高くでた)
――色々ありすぎた1日だったな
もう、ここに来て何度も思った事を改めて思う。こんなに濃い1日は恐らく一生のうちでも今日だけだろう。そして、まだ1日は終わっていない。海人にとっては最大の難関が物理的に近づいて来ていた。
「父さん」
暗がりから蛍光の下に現れた影を認めて、海人が呼びかけると果たしてそうだった。
「海人か……ここで何を?」
「ジュース買いに。叔父さんに頼まれた」
そうかと、幸人はあっさりと納得した。何か言うべき事がある筈だろうに何も言わないし表情も変わらない。が、それを言うならば海人だって同じだ。どうしたらいいのかが分かった筈なのに。いや、ともかく、何か話をしないとと、海人は話題を作るきっかけを探し、目の前にある自販機が自然と目に留まる。
「えっと飲む?」
「着いたらな。なんでもいい」
――会話終了……
自販機に1000円札を入れ、適当に数種類のジュースを選ぶ。父の好みはと考えて、父は特にジュースが好きではない事を思い出した。下戸の甘党で、家で酒を飲む事は殆どない。その代わりというか、中毒なまでにコーヒーが好きだ。因みに母の佳織は紅茶派。海人自身は日本茶派で弟は麦茶派と同じ家族ながら、ここまで好みが違う。
コーヒーを買おうかと一瞬、迷い止めておいた。空き缶やペットボトルのコーヒーは味の調整が、適当でどれが、幸人の舌に合うかもわからない。直接聞けば、わかるかもしれないのだが、それを言い出すのもなんだか億劫。
これではまるで他人。いや、他人以上だと海人は思う。必要以上にお互い干渉し合わない。
――男は背中で語るとかなんとか言うけどもさ
多分、父と自分の関係はそういう格好いいものとも違う。例えるなら、自分で録音した声を自分で聞くような感覚。鏡に向かって話しかけて、鏡から返答を貰うような感覚。
親密を通り越して、自分と重なって見える大人に対して、果たしてどんな言葉を掛けたらいいのだろうか。
ジュースを取り出すと、海人はそれを抱え、歩き出す。その後ろから幸人も続いた。
――何も言わなくても通じる関係とはこういう事を指すのだろうか。
だとしたら、ひどく寒いものだと海人は思う。言葉を言い繕い過ぎるのも良くないのかもしれないが、何も言わな過ぎるのはもっとずっとひどい。
「あのさ、叔父さんから話聞いたの?」
「何の話だ。具体的に言いなさい」
上からしつけるように言われて、海人は押し黙る。日常会話ではいつも、語尾に~しなさいが付く。
「叔父さんの家にお邪魔している理由」
「聞いた。まさか彼女が、有名な歌手だったとは驚いた」
本当に驚いているのかどうかわかない。表情もさっきから1ミリも動いてないように見えるし。そして、彼女では……ないようなと海人は思う。まだ、付き合うとかそういう話はしてないし。
「海人も男らしくなったもんだ」
「まぁ……」
幸人がどこまで知っているのか分からないので、返事も曖昧になる。
「それを言いに来たわけ?」
「いや、明日は誕生日だろう。だからだ」
ますます分からない。明日祝えばそれでいいじゃないのかと海人は思う。そして、ふとある予想が頭に浮かんだ。
「母さんに言われたんじゃないの。2人で話でもしてみたらとか」
今度は幸人が押し黙る番だった。図星のようだった。
「母さんだけじゃない。彰浩も直人も陽子もだ。なんでなんだ」
――そりゃ、普段話もしないし、話す時は何故か他人越しだったりするし
傍から見たら、喧嘩でもしているのだろうかと思われるかもしれないが、それが普通の関係となってしまっている。本人達は別に互いに嫌悪しあっているわけではない。
「父さんの方が頭いいんだから、自分で考えなよ」
しかし、つい海人も返答がぶっきらぼうになってしまう。自分と父親はよく似ている。だが、それでいて父は化学薬品を扱う会社で研究員をやっていて、理数系の苦手な海人は、コンプレックスを感じていた。そして、今のような言葉を掛けてしまうのだ。そして返答はいつも同じ。
「お前は父さんよりも読解力がある」
そして、結局海人が考える事になる。
「人越しじゃないと会話出来ないのは、変だからだろ」
「そうだな、確かに」
これまた、ちゃんと考えているのかいないのか分かったものではない。段々と海人も苛々として、それが言葉に出た。
「もっと、感情込めて喋る事は出来ないのかよ」
「出来ない」
はっきりと答えられて、海人は言葉を失った。手に抱えていたジュースを地面にぶちまけたい衝動に駆られたものの、それはどうにか抑えた。
「どうして」
「そうだな、どうしてかは気になるよな。怒るのも分かる。だが、そのジュースを地面に叩きつけるとかはしないで欲しい」
――全部見透かされてるー……。
怒りは出た時と同じ位早く萎んだ。実にどうでもいい事で怒ったなと思うと同時に後悔が生まれる。3年前の大喧嘩も最初に怒り出したのは海人の方だった。あの時は素直な気持ちというよりも、感情的な気持ちを拳でぶつけ合った。
「吹奏楽部に入ると言った時、喧嘩したよな。あの時位じゃないか」
「そうかも」
「お互い殴り合ったよな。怒鳴り合ったりもした。そうなるのが父さんは怖い。だから、あまり感情は込めないようにしている」
海人は再び黙った。すると幸人は乾いた笑みを漏らした。やっと表情に変化が見えた。
「おかしいか。そうだよな。普通じゃないのも分かる。なんで、こんな事を恐れるのか」
「それはなんで?」
「それはだな」幸人は実に言いづらそうに視線を地面の上に這わせる。
「父さんの父さん、つまりお前から言うと祖父さんだ。父さんは昔、よく祖父さんに殴られたんだ。海人と喧嘩した時よりももっと些細な事で、だ」
「そう、なんだ……」
海人はなんと声を掛けたらいいのか、分からなかった。祖父は海人が陽子のお腹の中に出来た頃、亡くなってしまい、彼がどんな人だったのか実感が湧かないからだ。が幸人は気にしなかった。
「そこで父さんは気が付いた。殴られないようにするには、なるべく従順に、感情を込めないようにすること。これが一番だとわかったんだよ。しかし、後々に思い返すと腹が立つ事もあった。もっと反抗しとけばよかったんじゃないかと、変な後悔……とも違う、悔恨みたいなのも生まれた」
「つまり……人と対立したり、喧嘩しているとその感情が噴き出るってこと?」
「すまなかったな。父さんは不器用だ。感情を抑えるべきところと、入れるべきところの切り替えが出来ない」
悲しげに言う父の顔が、実年齢よりも老けて見えて、非常に衝撃的だった。それに今聞いた話も初耳ではない。父がよく祖父から殴られていた話は母から聞いていた。だけど、それは昔ならよくある事だとも母は言っていた。今のように体罰だなんやと騒がれてはいなかった時代だったから。
「それにな、やっぱり怖いんだよ。いつだったかな。父さんが高校生になる頃か。祖父さんの知り合いの高校教師がな。教え子を蹴って死なせる事件があったんだ。テレビでも報道されて当時としては大きなニュースになった。その子は元々体が弱かったらしいが、それでもその事件は衝撃的だった。事件を起こした後、その教師と祖父さんは一度話した。何を話したのかは知らん。が、祖父さんはそれ以来父さんを殴る事は無くなった。同時に話す事もしなくなったがな」
一気に言い終えて幸人はふーっと息を吐き出した。海人は手元にあったオレンジジュースを父に差し出す。幸人は驚きながら、それを受け取った。
「いいのか、これ」
「駄目とは叔父さんも叔母さんも言わないでしょ」
海人がそっけなく言うと、幸人は笑った。海人も笑う。2人きりの会話で笑うのは久しぶりだった。
「そうそう、それでよく慰めてくれたのが、妹の陽子と、親友の直人だった。お前の叔母さんと叔父さんだよ」
「2人とも面倒見がいいもんね」
「良すぎて、口うるさくなるのが玉に瑕だがな……これは美味いな」
幸人はジュースに口を付けて言う。もしかしたら、遠回しに海人の事を褒めているというのが、海人には分かっていた。
「感情の入れる所と抑える所、か」
「……なにか、おかしな事を言ったかな」
幸人が不安そうな顔になるのを見て、海人は笑い出したくなる衝動に駆られたものの、それはどうにか抑えた。
「おかしくないと思う。だけど、家族同士の会話でいちいち考えたりしなくたっていいんじゃないかとも思う」
「そうかな」
「そうだよ。だって今の父さんだって、別に普通に話せてたじゃないか。間違いが怖いからって、何も話さなかったら……そんなのどこが楽しいんだよ」
父の抑圧されてきた数十年の感情。父と祖父との冷めた関係。それらを含めて父の気持ちが分かるかと、問われて海人は安易に分かるとは答えられない。それは父だけが分かる特別な感情だろうから。
だけど、父と自分の間の関係ならば分かる。父は自分の気持ちを素直に言ってくれた。それで自分の気持ちを素直に伝えるその許しを得たかのように、海人も話し始めた。
「俺は、自分が父さんによく似ているのに、頭がそんなによくない。それが嫌だったんだ。クラスの同級生が優秀でも、そんなこと思わないのに。別に父さんみたいに科学者になりたいって思っているわけでもないのに。嫉妬かな」
「嫉妬……」
海人は頷いた。
「多分、自分とあまりにも似ているからこそ、近いからこそ割り切れないんだと思う。でも、それは単なる甘えなのかな」
「そうだな」と答えるかと海人は思った。「もっと、自分らしさを磨け」とか。しかし、父は違った。
「父さんは小言が多い。それは分かっているとも。それは、お前に自分自身が映ってみえるからだ。似たような容姿、似たような癖、似たような過ちもする。同じ過ちをしてほしくないと、父さんは勝手に思ってしまうのさ。危機感からかな。吹奏楽部に反対したのもそういう事だ。父さんは自分が中学生の頃不器用で部活選びに失敗したから、海人にも無理だろうと思っていた。だから反対した。しかしな、それでいて、嫉妬もする。お前は父さんと比べると人と話すのが上手いからな」
またしても一気に言って、ジュースを一口。
「どうだ。案外、父さんもお前と同じ事を思っているぞ」
自信たっぷりに言われて、海人は今度こそ笑い出してしまった。幸人も笑う。親子でこんなに笑い合えたのは多分、初めてだろう。
ひとしきり笑い合った後、幸人は唐突に思い出したように言った。
「あぁ、そうだ。その吹奏楽部で思い出したが、どうだ。高校に入ったらフルートはやるのか? やりたいか?」
「あぁ、実はその事なんだけど、俺空さんや中学校の頃の同級生だった人と一緒にバンドをやりたいって思ってる。そこで、フルートを吹きたい」
父の足が止まった。そしてまじまじと海人の顔を見た。再び無言になる父に海人は、はっきりと答える。
「今度は、反対しても絶対に入るから。そう約束したんだ。あの人と一緒にやりたいって」
「言うようになったもんだな……昔だったら、やりたいとしか言わなかっただろうに」
しみじみと幸人は言った。しかしまだ、やってもいいとは言わない。海人は少し不安になった。
「やってもいいかな」
「高校合格後は、口を出さない。それが約束だろう。さ、叔父さん叔母さんの家に行こう。皆、もう待ちくたびれているだろうから」
意味ありげにそんな事を言われて、海人は続けるべき言葉を見失う。演奏に使うフルートを買って貰えないかと相談するつもりだったのに。海人はがっくりと肩を落として父の背中に続いた。
――ま、いいのかな。ちゃんと話せたし
今の海人にとってはそれが一番の幸せだった。




