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青空に歌えば  作者: 瞬々
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2番


 店員は再生ボタンを押し、前に出過ぎている野次馬共に「もう少しおさがり下さい」とやんわりと告げる。海人のいる席は元々窓際だった。席を変えろというのは流石に不躾すぎると思ったのか、店員は何も言わなかった。


 つまり、今ここにいる海人の位置が特等席となるわけだ。この雰囲気からして、少女は歌手なのだろうか、等と考える間もなく前奏が始まった。


 静かな音色に合わせ、リズムを取るように少女の顔が小さく上下に揺れる。青空を背景にして、その小さな唇が言葉を紡ぐ。


 それはとても静かな歌声。静かだが、芯のある声。少女が歌う度に部屋に春の風が流れ、時が穏やかに進むようだった。歌と歌の合間のさりげない息遣いは、甘く薄らとしている。


――なんて、綺麗なんだろう。


 夢心地になった海人は、今度こそ、その少女に見惚れてしまっていた。歌詞は昔、親が持っていたCDの曲とよく似ていた。英語の歌詞でどんな内容だったかは、分からないが曲のメロディと雰囲気がそっくりだ。



 ふと少女と視線が合った。その少女は海人を見てフッと笑う。ほんの一瞬の事だったが、それは歌の雰囲気とはまったく逆の、勝気なお転婆娘を思わせた。びくっと肩を震わせ目を見開く海人に、少女はお茶目にウィンクした。海人は顔から湯気が出るかと思った。なんだろう、いや、単なる気まぐれに違いない。何しろ、この中では一番目につく位置にいるし。


 と、海人は過剰に否定しているが、単なる気まぐれだと思ったならここまで考え込まない。否、その否定している事の逆の事こそが、海人が望んだ「何かおもしろい事」なのだ。勿論、現実は少年が抱く微かな期待通りにはいかないものだ。少女はそれから一度も海人の方には振り向かず、それなりに沢山いる客を左から右へと流すように視線を送る。


「流石だ、蒼野空の歌声は」


「本当、ラッキー。最近はテレビにも出なくなったからなぁ」


 そんなひそひそ声が、海人の耳に届いた。右斜め後ろ辺りに立っている大学生くらいの男達の声だ。すると、その噂を聞いたのか、別の場所で女性がポツリと呟く。


「あぁ、あれ空さんなんだぁ。恰好でわかんなかったけど。通りで上手いわけね」


――蒼野空って言うんだ。


 名前を知る事が出来た事に、感動を覚える海人。名前を覚えるのは苦手だが、この名前だけは一生忘れそうにない。


 学校の授業でもそうだが、一度ざわつきが始まるとそこから波紋が広がるように、周りに伝染していき、気が付くと全員分のひそひそ話で五月蠅くなるという意味不明な状況に陥るものだ。ましてや、ここにいるのは退屈な話しか出来ない教師ではない。皆の憧れである歌姫だ。


 一言も誰も喋るなという方が無理な話だった。曲の終わりの方になると、本当か嘘かも分からないような噂話が飛び交い始めていた。


「テレビに出なくなった理由だけどさ、所属している事務所と上手く行かなくなったとかじゃなかった?」


「あぁ、ネットで見たけど――」


「なんで、こんな店で歌っているんだろうね――」


 聞いていると、どうもマイナスな事ばかりで、海人は気分が悪い。それは、空に対してではなく話している本人たちに対して、だ。


――何故、こんなに感動できる歌を前にして、くだらない世の中の話をするのだろう。そんなものを超えた空の上の出来事を歌っているのに。


「追い出されたからさ。こんな所で歌っても注目が再び集まるなんてことないだろうにね」


 客の小さな言葉は果たして聞こえたのか。空の瞳が一瞬だけ細まったのを海人は見逃さなかった。それは怒りでも悲しみでもない。そんな単純な喜怒哀楽を超越しているかのような表情。


 歌は、程なくしてラストへと差し掛かる。どこまでも柔らかく、決して高過ぎず、低くもなり過ぎない。若者向けの曲にありがちな気持ちのいい疾走感も無い。ただただ、温かい手の中に呑み込むような感じがあった。そして、歌は優しい言葉と共に締めくくられ、全ての時が止まる。


歌いきった後の甘い吐息はいつまでも、世界に残り続けた。


一秒、

二秒、

三秒、


そして、周りにいた客が拍手と歓声を送ろうとしたその時。


「空っちゃん!」


 突然、どこからともなく聞こえたのは、テノールの声。


 海人が驚いて振り向くと、そこには背の低い少年が汗だくになりながら、膝に手をついて立っていた。背の低さと顔がどことなく幼いので年の程は分からないが中学生位か、小学生高学年といった所か。褐色ぽい肌と、黒い前髪がでこの前で重力に逆らうように上を向いているのが特徴的だ。そして、眼鏡を掛けているのだが、これはサイズが大きい為か鼻から少しずり落ちている。


 肩で息をしていることからもわかる通り、ここまで全力疾走してきたらしい。しかし、その少年はその事にも気を留めている風では無く、真っ直ぐ空の前まで臆することなく歩いていくとその手を掴んだ。


「あんのマスゴミ共がこっち来てる!」


 いきなり、マスゴミかい。少年は相当気が立っているのか、周りの反応も憚らずに、空をぐいぐいと引っ張っていく。その勢いに負けて、空も大人しくついていく……かと思いきや、空はその手を思いっきり払いのけた。


「なんでよ。あいつら、他のアイドルのスキャンダル追っかけるのに、夢中で私はのー・まーくだったんじゃないの?」


 やたらと日本語っぽい英語で空は、少年に詰め寄った。こちらはこちらで、周りの反応を気にするという神経を持っていないらしい。駄々漏れだ。特に傍に座っている海人には、全部しっかりと聞こえていた。


「大体、私はもう、芸能界の人間じゃないのよ?」


「最高だね。じゃあ、あいつらにそう言ってやるといいよ」


 やたらと欧米的な皮肉。空はガシガシと歌っている時からは想像もつかないような、粗暴ぶりで髪を掻きあげる。そして、あー、もうと若干脱力気味に叫んだ。


「もう、やめやめ。ここで数日、歌おうかとも思ったけどなしなし」


「ちょ、空っちゃん!?」


 面喰ったように少年は口をあんぐりと開けた。しかし、空は悪びれる様子もない。


「いいのよ。私は客寄せの役目を十分に果たした。後は、ここにいる連ちゅ……人達が、何か注文すれば、この店の味の良さに気が付く筈だし」


 どころか開き直っている。後、聞き捨てならぬ台詞。言いなおしたけど遅すぎる。


「大体、こんなの数日もやってたら興醒めよ。実際、私はもう少し飽きかけてるし」


「……その短気さが、芸能界追放の原因の一つだって自覚してくれないかな」


 まるで、コント。しかし、素の表情がこんな感じだとはと、海人は思った。ギャップの大きさにしばし思考停止中。未だ稼働中の脳細胞をフル活動させてみよう。海人の頭に浮かんだのは、なんとも馬鹿馬鹿しい。この少女のこんな一面を好きになれるかどうか、だった。


 少女の歌は好きだ。少女が歌っている時に見せる表情も。少女が歌う時に漏れる吐息も……若干、最後のが変態っぽいが、ともかく海人はこの歌姫に惚れしてしまったのである。


 馬鹿にも程があるとは、自覚もしているのだが、なんといっても目の前にいて、目の前で歌ってくれたのだ。それでいて、今海人が感じているのは、大のファンがアイドルと握手出来て大喜びする感覚とも、どこか違う。


 それは表現するならば、恋と言っても良いのだが、それを認めるには恥ずかしいお年頃。傍から見てのろけ顔になっている海人の前で、口元の端で笑う空。


「でもね、収穫もあったのよ。新たなファンが出来たみたい」


 そして、突然海人の腕をぐいっと引っ張り上げた。


「な、ななな?!」


 心臓が止まるかと思う位に驚いた海人は、言葉どころか声にすらならない物を喉の奥で発した。


空の表情は優しいが、何を考えているのかわからず怖い。何より、周りの視線が怖い。初めは呆気に取られていた観客達の視線が、次第に敵意と嫉妬へと変わっていくのを海人は全身で感じ取れる気がした。


「ねえ、君。この後時間ある?」


 耳元で囁かれて、耳から湯気が出るかと海人は思った。新たなファンとは自分の事か。だとすれば、それは間違っていない。彼女の見る目は確かだろう。それに、話しかけて貰えたのは、願い叶ったりと言ったところだろう。ただ、願った事以上の、望んでいた事の2つ3つ先を行くような言葉に、海人は反応が追いつかなかった。

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