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青空に歌えば  作者: 瞬々
19/34

19番

 着替えるよりも前に風呂に入るよう勧められ、海人は沖浦家のバスルームを借りることにした。バスルームは2階の隅にあり、入り口には湯のマークが書かれた掛け物があった。建物の外があれだけ奇妙なので、もうこのくらいでは驚かない。


 中に入るとそこには着替え用の小さな一室があった。流石に温泉や銭湯程広くはないものの、着替えを置いておくロッカーまで完備してある。そこに着替え(陽子に貰うスーツとは別に)を入れ、傍にあった洗濯物籠に濡れた衣服を入れる。


 それから海人は、タオル一枚を手に持った以外、一糸纏わない姿で風呂への扉を開いた。中がこれまた普通の家庭にあるような風呂よりも一回り程大きい。風呂桶は無理をすれば大人2人位は入れるのではないかという位の大きさ。小型テレビや家内用の電話が備えられている。そして何よりも目を引くのが、天上にある窓だった。


 星や月、太陽の形をした窓から見えるのは、真っ赤に染まりつつある夕焼け空だ。夜になれば、プラネタリウムも見れるらしいが、海人は今まで一度も見たことが無い。


 風呂の外でしっかりと体と頭を洗った。海人は普段からあまり長く風呂に浸からず、時にはシャワーだけで済ます事もあるのだが、今回は流石に湯船の中に足の先から肩まで浸かりたい気分だったので、遠慮なく入った。


 昨日は昨日で、人生の中で一番濃い1日だと思ったものだが、今日は今日でこれ程大変な1日になるとは思ってもみなかった。そして、まだ解決すべき問題が幾つも残っている。正直な気持ちを吐露するのであれば、不安の方が大きい。


 空を付け回す週刊誌等のマスコミをどう回避するか、バンドのメンバーとして楽器をやっていけるのか。そして何よりも、空の力となっていける事が出来るのか。


 だが、あくまでも不安でしかない。海人はもう決めていた。雨の中で空を慰めたその時から。彼女と一緒に歌を創り出したい。その為に、もう決して投げ出しはしないし、どんな反対にあおうとも諦めない。


 父が来るのならば、気持ちを全てぶつけよう。そんな覚悟さえあった。ばしゃっと自分の顔にお湯を掛ける。父とまともに話さなくなったのは、いつ頃からだろうかと真面目に考えた。成績だの受験だのと言い合うようになった時から……中学生に入ってからだろうか。あの時から父は叱る時と喧嘩の時しか息子と向かい合わなくなった。


――まぁ、偉そうに指摘できる立場じゃないけどな


 向かい合わなくなったのは海人自身もなのだから。人はそれを思春期だからというだろう。或いは独立している証だと。しかし、心の中にしこりが出来たのも確かなのだ……。


『よう、海人君。俺も入っていいかな?』


 突然、電話の音楽が鳴り、叔父の幸人が訊ねてきた。沖浦家では普通なのだろうが、慣れないことで海人はびくりと肩を震わせた。


「び、吃驚させないでくださいよ。あー、いいですよ」


 叔父と一緒に風呂に入るのなんて、何年ぶりだろうか。断る理由も無かったのでそう答えると、程なくして扉が開き、叔父が入ってきた。体がよく引き締まっており、贅肉だとか、メタボリック症候群とかとは、縁がまるで無さそうだった。


「叔父さんって体鍛えているんですか?」


「あぁ、そうだね。小太刀護身道をやってるからね」


 なんか、名前だけでも強そうだが、その聞き覚えのない武道に海人は首を傾げた。


「なんか、マイナーな武道ですね」


「ハッハハ。そうでもないよ。世界大会も行われるくらい有名だ。そのうちオリンピック競技になるかもなぁ。あ、別名はスポーツチャンバラだ」


 それはスポーツなのか武道なのか。突っ込みたい所だったが、海人は黙っておいた。そういえば、空もチャンバラをやっていたとか言っていたが、そんなにメジャーなのだろうか。


「海人君も武道やっていたよね? 小学生の頃。なーんで辞めたの?」


「あー、空手ですね。そりゃ、下手だからですよ」


 投げやるように海人は答え、直人は怪訝な表情になった。それもそうだろう。直人は何度か、海人が試合に出ている所を見ている。


「考えてみると自分の意志を貫いたのは、あの空手を辞めた時が初めてな気がします」


 嘯くでもなく、謙虚になるわけでもない。しかし、あの時の真実は、海人が今打ち明けた事よりも少し複雑だった。


「下手……それは主観的な感覚として、かい?」


「どう、でしょうね」


 訊ねられて海人は考える。しかし、わからなかった。あのまま、続けていれば何か別の境地が開けたのだろうか。とても想像がつかない。だが、それを言ったら今のこうしている状況だって――空と出会ってから今日にいたるまでの出来事を、誰が想像出来ただろうか。


「多分、客観的に見ればそんなにへたくそってわけじゃなかったと思います。でも、後輩がいたんです。すごく優秀な後輩が」


 優秀で生意気で、周りからも先生からも人気のある後輩が。その後輩と自分を比べて激励する師範が嫌いだった。どれ程頑張っても、手も足も出なかった事が悔しかった。後輩に叱咤される自分が惨めでならなかった。


 だから、辞めたのだ。


「先生の口癖が『お前の方が先輩なんだからしっかりしろ』でした。無理な話だと思いましたよ。実力に年は関係ないんだなとか、小学生らしからぬ事も思いました」


「成程ねぇ……あるよなぁ、そういうこと。僕もあったよ。中学の時や高校の時、大学の時にも。時に後輩、時に先輩が自分よりも実力が上だった。だけど、面白いのは後輩であろうと先輩であろうと、僕に対する文句が共通してるんだな。もっとしっかりしろとか、部員としての自覚を持てとかね」


 どんな社会であっても共通することなのだろうか。空が作るバンドでも起きたらどうしたらいいのだろう。


「でも、投げ出さなかったんですよね。叔父さんは部活や習い事を途中で逃げるように、辞めたりとかは」


「正直に言うと、逃げ出したかった事の方が多いね。まぁ、確かに言われてみればそうだな。だけど、ちょっとした考え方次第で続けられるものさ。君の場合はそうだな、蒼野さんを見習うといい」


 突然、空の名を出されて、海人は驚いた。しかし直人は表情こそ穏やかだが、冗談を口にしている雰囲気では無さそうだった。


「空さんを見習うって言っても……、あの人は俺なんかよりもずっと、優秀ですよ」


「だろうね。しかし、彼女よりもずっと歌唱力のある歌手がこの日本に何人いると思う? 仮に彼女が日本で最も有能だったとして、世界では? 勿論、これから彼女は、もっともっと成長していくだろう。だが、それまで、周りの人達の才能と自分の才能の差について幾度も考えることになる筈さ。彼女は頭がいいからね」


 そんな事を考えた事等一度も無かった。海人にとって一番の歌手は空だからだ。しかし、それはあくまでも、海人自身の個人的な想いに過ぎない。


「しかし、それを考えて、なお彼女は決して、自分を上下のランクで定めたりはしない。横を見て自分よりも上の実力の歌手を妬んだりしない。違うかな?」


 海人は頷いた。そう、彼女は自分の地位に対して無頓着だ。それは、初めてあの店で出会った時に直感したし、実際に話し、過ごしてみて確信した事でもある。もしも実力のみに固執するのであれば、海人や恵美を誘ったりはしなかっただろうし、何よりもA・Cを辞めたりもしなかっただろう。


「彼女は自我という基盤をしっかりと立てている。よくプライドと自我は混同されがちだが、僕は別物だと思っているよ。プライドは無くてもどうにかなるものだが、自我が無ければ、その人は単なる抜け殻、他の人間、世界によって操られる人形でしかない」


「確かにそれはわかりますけど……つまり、俺もちゃんと自我を持て、と?」


「ハハハ、それはしっかりと持っていると思うよ。辞めたのだって自分の意志なんだろう?」


 なんだか、よくわからなくなってきて海人は黙った。直人は快活に笑い海人の肩を叩いた。


「難しく考えるなよ。つまりは自分をしっかりと持てってことさ。周りがどれだけ上手いか、自分はその中でどのくらいかなんて、考えるなよってね。なにしろ、君がこれから踏み出すのは音楽の世界だ。この世界にもランク付けはあるが、スポーツ程じゃない。そもそもランクを付けること自体が馬鹿馬鹿しいという意見もあるくらいだ。君は君らしくあれ。そうすればきっと成功する」


 自分らしく……それこそ、難しい事だ。海人は自分のしたい事は見つけられた。だけど、それを自分らしさを存分に発揮して、こなせるかその自信がない。


 直人はそんな海人を見て苦笑した。


「まったくもって、君らしいな。昔の幸人みたいだよ」


「父さんも似たような事で悩んでたとか?」


 意外だなと思いつつ、海人が訊ねると直人はくっくくと含むように笑んだ。


「まぁね。よく1人でなんでも抱え込むやつだったとだけ言っておこう。詳しくは本人に聞いて欲しい。ま、話すかどうかは分からないけどね」


 本当にその通りだと海人は思う。今日の最大の試練は父親と二言以上話す! しかし、これが一番の難題かもしれない。


「ありがとう、叔父さん。どうしたらいいのか、少しわかった気がする」


 海人はそう言って風呂から上がった。ドアに手を掛けた時、直人は思い出したように付け加える。


「あぁ、後ね、蒼野さんの記事が載ったあの週刊誌だけど」


 海人の手が止まる。直人は、大手の新聞社で働いている。他の報道関係の情報も入って来るのだろう。


「あのバッシング記事?」


「そう。彼女から話を聞くまえから、その記事については読んでいる。でね、読者の反応は3:2って言ったところみたい。半分以上は空さんを応援し、週刊誌側を批判する人達。残りは週刊誌の論調を支持している。これ程多くの人が蒼野空についたその理由の1つには、彼女がまだ子どもだということだね。ま、それだけじゃなくて彼女がファンに――」


 言いかけて、直人は口を噤んだ。


「止めておこう。言うまでもない事だしね。それは君が良く知っている筈だ」


「えぇ、分かっています」


 海人はしっかりと頷いてみせる。彼女を支えているものは大きい。海人はそれを1日だけで、幾つも見てきた。空自身もそれは分かっている筈だ。彼女自身は気が付いていない振りをしているけども。


 それは自分の歌を自分らしく歌った結果だ。直人が言った事ではあるが、そんな事は誰よりも海人が分かっている。彼女の歌に心惹かれ、引き込まれた自分自身が。


「叔父さん、俺、空さんの力になるにはどうしたらいいのか分かりました。協力してくれますか?」


「ふふふ、そう言うと思っていたよ。どこまで、協力できるか分からないが、出来る限りはしようと思うよ」


「ありがとうございます」


 そう言って、海人は浴場を後にした。

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