1番
青空を仰いだって――何もありはしない。
長倉海人は何をするでもなく、青空を仰いでいた。何かいい事はないかなぁと。あるわきゃない。
三月の初め。それは終わりと始まりの狭間の時。合格通知という名の終戦によって長きにわたる受験戦争が終わり、卒業式と言う名の訣別によって、それまでの学校生活に別れを告げる。そして新たな生活が始まろうとしている。だが、今はまだその時ではない。
とでも言っておけば、ロマンティックに聞こえるのだろうが、結局の所、長倉海人は暇なだけなのであった。高校合格の通知が来たのは二月の半ば。卒業式も一昨日に終わり、後は何をするでもない。高校の生活に備えて今から勉強しておかなくては! なんて、高尚な考えなんて哄笑と共に捨て去った(高校合格後、一度だけ勉強しようかなとかは思ったのだが、三日どころか三時間ともたなかったのである)
じゃあ、運動なり趣味なりやればいいじゃないか。そうも行かないのである。何しろ、中学時代に入っていた部活といえば写真部。それも潰れかけの、である。入って初めてやった先輩との共同活動「部活を存続させてください」と先生に頼み込んだのは、印象的だった。勿論悪い意味で。
「解放感から街を歩いてみたが、やっぱ何もないよなぁ」
まもなく高校生デビューな少年を構う程、街も暇ではない。だが、その程度で海人の高まる気持ちが治まる事は無さそうだ。
しかし、それは例えるなら行先も決めずにロケットをとりあえず打ち上げてみるようなもの。彼の興味は散漫過ぎて、どこの店に入ろうか、どこで遊ぼうかで、悩みに悩んだ。カラオケは一人で入るには気が引けるし、ゲーセンは昨日友達と散々やった。
結局、目についた店を片っ端から覗く事にした。こういう時こそ、衝動買いの危険があるのだが、今はお金があんまり無いので、欲しくなっても買うことはない(店側にとっては一番迷惑な客である)
「さて、どこ行こう」
本屋。立ち読みしていると時間があっという間に無くなるのでパス。ゲーム。気になるゲームは無いし、この間買ったゲームはシステムが酷かったしでパス。CD。実は流行りのアーティストとかよく知らないし、気になった歌はタイトルを忘れたのでパス。
なんやかんやで、文句が多い。そして、ようやく目についた店は楽器店だった。古めかしい感じの建物だ。そこでショーウィンドゥにあった楽器が目に留まり、海人は複雑な気持ちになる。それはその楽器が目玉が飛び出る程、高いからとかそんな事ではない。
海人は迷った挙句、行くところもないしと、入ってみた。ヴァイオリンだのビオラだのコントラバスだの、値段を見るまでも無く高そうなのがあるかと思えば、エレキギターや電子ピアノみたいなのも置いてある。本棚に目を向けるとそこには、五線譜ノートやバイエルピアノ教本が置いてあった。少なくともこれなら立ち読みして、時間を忘れるなんてことはないだろう。
海人が真っ直ぐ向かったのは、銀色に輝く横笛、フルートだ。幾つもの丸いボタン、3オクターブもの音階と柔らかな音色を持つ。
分類上は木管楽器だが、今あるのは殆どが金属製。吹き方には少し癖があり、ただ息を送るだけでは音は出ない……そんな事を知識として知っているが、それ以上の事は知らない。例えばどことどこを押せばドが出るだとか、そんな基本的な事も。楽器なんていくら含蓄があったて、演奏できなければ意味がない。
それ以上見ていても、何の意味も無いので、出ていこうと思ったがタイミング悪く、店の人に呼びかけられた。
「やぁ、いらっしゃい。そのフルート、3年前も見ていたね?」
「いや、別に買うわけじゃ……て?」
海人は適当に流して、出ていこうと思ったのだが、店の人の言葉に引っ掛かりを覚えて立ち止まる。その店員は真っ白な髭に眼鏡を掛けた壮年の男性だった。眼鏡の奥で輝く瞳は知性に富んでいるようなそうでないような。
「ん? 君、覚えてないのかい? ほら、今にも泣き出しそうな顔で見ていたではないか」
「え、あー……そう、でしたっけか」
超が付くほどに曖昧に答えた。実際、お爺さん店員が言っている事は間違いではない。どころか、正にその通りだった。あれは中学に入ってからすぐ後の事だ。
「そうだよ。儂は覚えておるぞ。その時は儂、まだ正規店員じゃなかったけど」
そんなことは誰も聞いていないし、どこから突っ込みを入れればいいのか、わからない。ただ、こうも断定的に言われると逃げ場がないのも事実。更なる追及を待ち構える海人だったが、お爺さん店員は別の事を言った。
「ハハハ、別に儂の記憶力が凄いというだけではない。印象的だったからね」
「記憶力が凄いのは否定しないんですね。というか恥ずかしぃ……」
お爺さん店員は被りを振った。
「いやいや、違う違う。君が泣いていたから印象的だったわけじゃなくてだね」
泣き出しそうから泣いていたにランクアップ。フォローするならばしっかりとして欲しいものである。お爺さん店員はそんな思春期な少年の心情等お構いなしに、続ける。
「その後にね、綺麗な女の子さんがそのフルートを食い入るように覗いていてね。本当、綺麗な女の子だった。儂ぁ、女の顔だったら死ぬまで忘れんからの」
変態疑惑な発言。だけど、変態なお爺さん店員だと呼びづらいので流しておく。
「それがそんなに印象的だったんですか?」
「うーん、どこかで見た事があるような顔だったからね」
もしかしたら、筋金入りの変態か、この人。或いは運命とか感じちゃうような痛い人か。そんな事を思う海人も、高揚気分で何かいい事はないかと外に出るような人間なのだが。
「もしかしたら、あの時と同じように今日も来るかもしれないね」
来ますよとも来ませんよとも言えないので、海人は何も言わなかった。そして、彼は店から出た。店に入ったのはある意味正解だったかもしれない。とりあえず「何か」は起きた。美少女との出会いではなく、お爺さんとの出会いだったが――
「なんか、もっと面白い事ねーかなぁ」
――そうそう、現実に面白い事など振って湧いたりしない。それでも、歩く。海人はまだ幼稚園に通っていた頃からよく、外に出るのが好きだった。補助輪が外れたばかりの自転車に乗っては、街を散策し友達の家に押しかけ、と。面白い事もあったし、ただ疲れただけの日もあった。ともかく、彼がいつも思うのは「何か面白い事はないか」だ。
親には放浪癖があるんじゃないかと、疑われているがまさしくそうだろう。一度、夜中に帰ってきて、親父にぶん殴られた事もある。それでも懲りないのは、なんでだろうか。このマイペース過ぎる息子に親はもう、半ば諦めており門限を決めるに留めている。
海人はそれから1時間程歩き続けた。が、なんか、面白い事は一向に見つからなかった。腕時計を見ると長い針と短い針は丁度、正午を指していた。腹の虫が唸る。しかし、この時間は丁度店が混み始める時。ファーストフード店には既に行列ができ始めている。海人は人混みが好きではない。
彼が目についたのは、古びた感じの喫茶店。木製の建物で、陽の光が当たるテラスが洒落ている。ただ、店の名前だけは聞いた事も無い。街を歩く人も「お洒落だけど、どうせお高いんでしょう?」といった具合に避けている。
実際、店の外にあるメニューを見るとお値段は若干高い上に見た目、量が少ない。どちらかというと沢山食べる派の海人としては、難色を示したいところだが、かといってコンビニでお弁当買ってそこらで、食べるのも気が引ける。迷った挙句、そこで食べる事にした。
適当にサンドイッチのセットとコーヒーを買い、3階に席を取る。そこは喫煙席だったが、人が少ないのと、景色が見えるからという理由で、そこの窓際にした。本当はテラスで食べたかったのだが、どういうわけか、テラスにはテーブルも椅子もない。
ワックス掛けしたばかりとかそんな所なのだろうかと、海人は適当に考えてサンドイッチを口に運んだ。
「これ、美味いな……」
そこらのファミレスよりも美味しい。スープやサラダも口に入れたがこちらも素晴らしい。海人の舌に余程狂いが無ければだが、テレビに出しても恥ずかしくないレベルだと思う。勿論、海人は料理批評家ではないので、どこがどう、いいのかとかは言えないのだが。
――なぜ、繁盛しないのか……。
考えてみた所でどうなるわけでもない。家で食べる時はあっという間の海人だが、外で食べる時は遅い。ゆっくりと食べていると、俄かに下の階の方が、騒がしくなり始めた。この店の味の良さにやっと気が付いた人々が押し掛けたというわけではないだろう。
喧騒は段々と上へ上へと近づいてくる。つまりは今、海人がいる場所へと来ているわけだ。階段の方に目を向けると、最初に見えたのは茶色とベージュのニット帽だった。続いて、それを被っている少女が現れた。