抑想
低い空を無遠慮に張り渡る不格好な電線群は、前腕に巣くう毒々しい血管の様相によく似ていた。左右に立ちはだかる煤けたコンクリート壁は、同じ顔をした個々のブロック塀をはるか先にまで際限なく連ね、頼みもしないエスコート、もとい通行人の物色を力づくで押しつける。青みがかった暗灰色をしたアスファルトの路面は、度重なる修理や点検の際に掘り起こした部分のみが真新しい黒に塗り潰されており、散在するガムの吐き跡、鳥のフンと併せて、目障りな斑模様を作り出していた。もっとも、ここを通る者が僕も含めゴミ以外にいないのだとしたら、それを体現するにはまさに打ってつけなことこの上なかった。
そんな色のない三者三様に上下左右を睨まれながら、僕はとある目的地に向かい、横幅車一台分の狭い路地を悄然と進んでいた。生け垣もなく、草木を期待できる民家の庭も、高いコンクリ壁に隔てられ見ることは叶わない。こうして歩いてみると、まるで色のない世界に迷い込んだかのようだ。もっとも、その色というのが色恋沙汰のことを表すというのなら、僕はまさしくその世界の住人だった。
そう、下らない理由で奔走した先のスーパーで、彼女と巡り合うまでは。
「結局、ゴミしかいないってことかよ……」
所詮人間なんてものは、有用な資源を己がままに食らい尽くし、その分無益な自己を拡大して地球上を圧迫するだけのゴミでしかないのだろうか?
ここまでの道中で僕は、彼女と出会ってからの日々の出来事を、それがどんなに些細なことであろうと余すところなくつぶさに思い起こしていた。
彼女は言わば、漂白剤のような存在だった。彼女はいかなる場合であっても、決して僕を冷たく突き放すような真似はしなかった。例えば、両親と言い合いがあった日に苛立った気分をそのまま引き連れ、要はただの現実逃れのためにその門戸を叩いたときでさえも、彼女は露骨に対応を変化させるわけではなくて、普段通りの立ち居振る舞いを崩すことなく、それでいていつの間にか心を丸洗いでもされたように、僕のことをすっかり諭してくれたりもしたものだ。彼女の廉潔さで以てすれば、醜く歪んだこの世のありとあらゆる不浄物が一度に迫ってきたとしても、それらを一片も残さず相殺し尽くしてもなお有り余るほどの輝きを放っているに違いない。
彼女と共に過ごすだけで、空は仄暗く、空気は淀み、一条の光も差すことのないこの不毛の大地ですらも、光輝く汚れ一つない純白の世界へと変貌したかのようだった。
だが、実は彼女は漂白剤でも何でもなく、安物の白ペンキに過ぎなかったのだとしたら?
綺麗に洗われた結果であるはずのこの真っ白な景色が、単に上から塗り潰しただけのまがい物であるとしたら? 今ここにある自分が、そこかしこから発する揮発性の溶剤臭によって毒された結果に過ぎないのだとしたら? 心を溶かされたと言えば語弊があるかもしれないが、一概に比喩とは言い切れない。甘い匂いで脳を焼かれ、継続的に正常な思考力を奪われていたのだとしたら?
僕は真実を、いや、事実を確かめなければならない。それも安っぽい正義感なんかではなく、人間がこの世知辛い世の中をしぶとく生き抜くために元来備えた防衛本能、詰まるところは猜疑心、人間不信からに他ならない。結局僕は、彼女も含め、誰も信じることなんかできなかったわけだ。全てに目を瞑り、口をつぐみ、このままの心地よい関係に甘んじることを選んだとしても、いつ敵意を露にして牙を剥くかもしれない隣人を前にしてこれまでと同じ仲を続けるような度胸なんて持ち合わせていないのだ。
だから、こうするしかないのだ。たとえ全てを暴いた結果が、あの日以前のガラスケースの日々に戻ることだとしても。汚れ隠しの塗料も削ぎ落とし、見るに堪えない黄ばみや汚泥に囲まれた毎日に帰ることだとしても。
様々な思いに囚われながらも確実に歩を進めていると、ほどなくして、みすぼらしい外見をした一軒の小さな古アパートが前方に姿を現した。薄汚いこの町の風景の一角をなすにふさわしく、その外壁は黒ずむばかりかところどころに亀裂が走り、屋根は色褪せて元の彩度をすっかりなくし、皮肉にもそれが灰色系の外壁と相まって、建物全体の統一性を高めることに繋がっている。雨どいは塗料が剥げて外れかかり、外付けのちゃちな階段は到底満足に体を預けられるほどの代物ではない。
こうして先入観抜きで改めて観察してみると、築何十年かは知らないが、随分と貧相な見てくれに成り下がったものだ。ドラマによく出るイメージに例えるならば、酒飲みのクズ共が集う雀荘代わりといったところ。雲の中だと錯覚するほどに燻された、足の踏み場もなく散らかされた不潔感極まりない部屋。白煙の立ち込める中、お互いの存在を唯一確認できるものが、輝点のように赤く光る煙草の火だけだという。
こんな環境下で暮らすことを余儀なくされてしまえば、いかに清い心の潔白人間といえども、住居と同様の荒んだ色に染まってしまうのではなかろうか。
(だけど……)
目当ての玄関口横に設けられた、常に曇り一つなく磨き上げられた窓ガラス越しにその室内を見やる。その空間は淡白で、薄ら寒さすら覚えるほどに簡素にまとめられており、今しがたの妄想とは真逆の様相を呈している。
「……何を馬鹿なことを」
住環境で人格が決まってしまうほどに元々の自己が真っ白な人間など、よほどの子供でもない限りそうそういるはずがない。劣悪な住環境が人格形成に悪影響を与えるというのなら、そもそもそれらの住宅内環境を悪化させたのはそこの居住者たちなのだから。
だが、今という状況下でそんな事実、いや、覆しようのない常識は……
(悪いのは、飽くまで人間本人だということ……)
所在と個人とをいくら切り離してみたところで、その本性に何ら変わりはないということ。恐いものは恐いままで、決して優しくはならないということ。
残酷な仕打ちでしかない。
玄関脇の変色した呼び鈴を鳴らし、短い会話を交わす。そこだけいやに真新しく残ったドアノブが音も立てずに回り、それに反して蝶つがいが甲高い悲鳴を上げる。
錆びついたドアを押しのけるようにして姿を現し、平素と変わらぬ穏やかな態様で僕を出迎えたのは、人類の中で僕が唯一ゴミではないと信じた女性、落目ゆかりその人だった。
挨拶もそこそこにうがい手洗いを済ませ、今まで幾度となくそうしてきたように、通されるまでもなく奥の部屋へと自然に足を踏み入れた。
「今日の宝探しはどうだったのかな? いつもと比べて遅かったし、何か収穫があったって顔してるけど……私の気のせい?」
何の含みも持たないそんな彼女の言葉にも、口を開くだけで精一杯だった。
「その話は、のちのち……」
ぶっきらぼうとすら呼ぶべきでない、単に対人能力の欠落を露にしただけの返答にも、彼女は気分を害した様子もなく、顔色一つ変えることなく速やかに話を切り替える。
「そうだ、田舎の友達がまたしょうもない物送ってきてくれたんだった。ちょっと待っててね、ええと……」
だが、今となってはそんな穏やかな表情にも、能面のような不気味さしか感じられなくなっている。
押入れに頭を差し入れて何か探し物をしている彼女を横目に、初めて訪れる場所のように落ち着きなく、室内の隅々に至るまで視線を一巡りさせる。
確かめなければならない箇所は、あらかじめ決まっていた。勝手知ったるといえばいささか思い上がりではあるが、少なくともこの夏休みにほぼ毎日通い詰めた部屋であるからにして、あらかたのことは自宅のようにも知り尽くしていた。水回りと、付近の戸棚の一つ一つに至るまで。彼女が今あさっている押入れに並ぶ段ボール箱の配置も、更にはトイレの芳香剤の残り具合でさえも、この目にはしっかりと焼き付いている。
そして、それらのどこにも、虐待の痕跡など見当たらなかったということも。
だが、この部屋の中で唯一、他のどこよりもそういった秘め事におあつらえ向きであるにも拘わらず、ただの一度も覗いたことのない場所があった。
浴室という、反社会的行為には打ってつけの密室空間が。
「トイレを、お借りします」
返事も待たずに立ち上がり、彼女の後ろ姿を一瞥すると、彼女が振り返って言葉を返すよりも先に背を向けて廊下に身を移した。こう言っておけば、彼女が探し物を終えた後でもこちらを追ってきたりはしないだろう。……ひょっとしたら、お茶でも淹れているかもしれない。
一歩ごとに律儀にも軋んでくれる廊下は、見た目よりも随分長く感じる。実際には十歩も歩かないうちに、合成樹脂で出来た目的の曇り戸の前に着いてしまうというのに。
単身向けの古いアパートにしては気が利いていて、トイレと浴室はそれぞれ別の部屋になっている。他人の家でトイレを使わせてもらうことはあっても、わざわざ風呂場を頼み込む客もそういないだろう。風呂場を使わざるを得ないほどに、何かを激しく汚してしまうようなはしたない真似だけはしまいと細心の注意を払っていればなおさらだ。
もっとも、そんな過度の謙虚さが、結果としてすぐそこにあった真実を遠ざけてしまっていたわけだが。
当然、風呂場は水を制限なしに使えて痕跡を洗い流すことがたやすいので犯行場所として好まれており、今更調べたところでもはや何も見つからないかもしれない。だが、排水溝に動物の毛が絡まっていたり、わずかな血痕が隅にでも残っているなど、何らかの証拠が見つかる可能性だって無きにしも非ずだ。用済みの遺体を敢えて家庭用ゴミ袋の中に紛れさせて処分している点から見て、犯行現場がこの一室である見込みは極めて高いのだから。
扉を押し開くべく、恐る恐る手を伸ばす。少なくともこの時点では、曇り戸越しに覗く浴室内の輪郭は何ら変哲もない。ここまでやっておいて万が一にも彼女が無実だとしたら、この行為の意味合いもかなり違ったものになり、自分の姿は酷く滑稽に映っていることだろう。もしそうだったとすれば、一体彼女にどんな言い訳を用意すれば……
(……彼女が、無実?)
なぜ、そんな考えが浮かぶのだろう。これまでの一連の行動は、こんなにも確信に満ちているというのに。このひと押しで全てのもやもやが解決するというのに、扉に押し当てただけの手は、そこで唐突に全ての生命活動をやめてしまったかのように、後にも先にも動けないでいる。
この手の平に滲む尋常でない汗は、焼きつくような喉の渇きは、今まさに犯行現場に踏み込まんとする極度の緊張からではないのか?
そうではないだろう。
男子中学生というのはその手の物事に対し、幼さを残しながらもその食指だけが異常に発達する年頃である。成人誌を進んで手に取るような趣味を持たない自分でさえも、機会があれば好い目を見たいというのが本音であり、性でもある。独居女性宅の浴室というのは、ただそれだけであるにも拘わらず、特別な意味を持っているのだ。同じ女性の使用する浴室という点では、母の使う自宅の浴室(本人曰く『家事が忙しいから時間が不規則になる』らしく、近所迷惑も顧みずに深夜だろうと明け方だろうとシャワーの音が家中に染みになるほど響いている)も変わらないというのに、この意識の差は何だろう。
とにかく、体面はどうであろうと、現に自分が今まさにせんとしていることとは、そんな場所を覗き見ることに他ならないわけだ。
罪を暴くためのその手段が、実は目的なのだとしたら? 自分は、怒りに震える正義の使者の振りをしながら、その実世俗的な欲望を満たしたいだけだとしたら? その口実、もとい物言わぬ犠牲者を見つけたことを、内心喜んでいるのだとしたら? この手が微動だにしないのは、そんな罪悪感を潜在的に抱え込んでいるからではないのか?
しかし、その人個人の心理状態などといったものは、他者からすれば、外面に表れたその行動から推し量るより他ないのだ。そして、その理屈で筋を通せば、今現在のこの葛藤状態こそが、それが確信犯のものではあり得ないということを何よりも如実に示していることになる。
時間が経てば経つほど、発見される危険性は上がる。それと同時に、この意識も泥沼へとはまっていく。
考えるのを、やめよう。これではいつまで経っても先へは進まない。
開き直ればいい。中学生ならばこんなことは日常茶飯事、ほんの出来心だと。もしそれでとやかく言われようならば、彼女もまた、いかなる時でも被害者の皮を被れると思い上がりも甚だしい、自意識過剰のゴミ女の一人に過ぎなかったのだと。
浴室のドアと向かい合う位置の洗面台。その二つを直線で結ぶようにして両腕を伸ばし、体を横に向ける。
「あーあ」不自然に聞こえないように、一音ごとに声量を調整していく。「今にして思えば……」蛇口をひねって水を出し、手を洗うように見せかけながら弾いた水滴で陶器を打ち鳴らし、耳障りな雑音を人為的に作り出す。
「入ってすぐに手を洗うことなかったよなー」
逆側の手を浴室のドアに添えて、少しずつ、慎重に力を込めていく。
「トイレの後も手を洗わなきゃいけないんだから……」
しなりを感じつつも、手は徐々に沈み込むような感触を覚え、
「これじゃ、二度手間だよー」
パキンと、小さくも鋭い音と同時に、扉が二つに折れた。この手のドアはどんなに注意を払ったところで、その甲斐虚しく音を立てずには開いてくれないのだ。
前へ向けて二つ折りになったドアをそのままレールに沿ってスライドさせ、未だかつて覗いたことのない、浴室の全貌を明らかなものとする。
目に映ったそれは、至って普通であり、何かの感慨が湧くということもなかった。
「でも、念には念を入れて、外でゴミをあさってきた身でもあるし、石鹸を泡立てて三十秒指の間や爪の中までしっかり洗わなきゃね」
制限時間は、三十秒。他意はないのだし、目的を果たすには十分だろう。
蛇口の水を止め、靴下の上から備え付けのゴム靴を突っかける。乾かずにタイルの上に残ったままの水で音を立てることのないよう、用心に用心を重ねて足を踏み入れる。
排水溝には、髪の毛一本溜まっていなかった。掃除のしやすい便利グッズを装着しているからといって、それが証拠隠滅を容易にするためだというのは、いくら何でも勘繰り過ぎだろう。部屋の四隅に至るまでを見回してみたところで、血痕の一つや二つがこびり付いているわけでもない。
やはりそう簡単に都合よく、有罪であるという証拠も、無実を知らしめる物証も転がっているはずがないのだ。そもそも、それだけで人の良し悪しが決定付けられるようなものがこの世に存在すれば、世界はこうも複雑にはならないはずだ。人はその善悪が不確定であろうと、誰かに寄り添ってしまう。それだから周囲の人間も、戒めを躊躇せざるを得ない。そして、それが過ちであったと気付く頃を、人はようやく悲劇と呼ぶ。
試されているのかもしれないな、とふと思った。
何もまだ、一見誠実そうな彼女の正体が実は憎き底辺人類であったなどということが、動かしようのない客観的事実だと確定したわけではないのだ。こうまでしておきながら、仮に彼女の罪状が全くの事実無根だとしたら、僕は何の非もない彼女を一方的に、妄想たくましく自ら突き放してしまうことになる。それは先に述べた類型でこそ悲劇と呼べども、傍目からすれば腹のよじれるモノローグでしかない。
人は、安穏に生きるのは簡単なのだ。誰も寄せず、誰にも寄らずに、変わり映えのしない毎日をただ惰性で過ごせばよいだけなのだから。だが、それを「死んでいる」と形容する風潮は、あまりにも世に溢れ出ている。そんな肉塊としての己を脱却せんと他者を求めるのだが、その性根が善悪どちらの方向を向いているかなどは、生身の人間である限り事前には知りようがない。
人との繋がりが人生を幸福かつ豊かなものへと昇華する好機には、それとは真逆に等分量のベクトルを抱えるリスクをも負うことになるのだ。
そんなギャンブルめいたことを行える思い切りのよさは、覚悟は、自信は、少なくとも今までの僕にはなかった。
悪意の彼女に弄ばれるのならともかくも、善意の彼女に愛想を尽かされることは、彼女を除くその他大勢のゴミでしかない自分にとって、仕方のないことだとも思う。だが、思い出してもみろ。これまでに彼女と共に積み上げたあの暖色系に彩られた日々を、何もかも捨て置いてもう一度真っ白な気持ちに戻って振り返ってみろ。柔らかな光に満ちたその一つ一つが、彼女の持つベクトルをまざまざと、一定の方向へと確実にその背中を後押ししてくれているではないか。
それは、もはや確率半々の純粋なギャンブルなどとは到底呼ぶことのできない、最高のイカサマだった。
犯人は、きっと他にいる。この巡り合わせは、懐疑心にまみれて人間不信に陥るあまり、これから先の人生設計にも大幅な支障をきたすであろうこの僕の精神を改造せんがため、慈悲深い心を持った天より課された極上の試練なのだ。どんなに堅い賭けとはいえ、二者択一の当たりくじを見事引き当てたとなれば、今後の身の振り方にも否応なしに自信がつくだろう。
だから、今こそ僕は彼女を信じようと思う。信じた者が救われるのだとうそぶくつもりは毛頭ないが、信じもせずにたまたま救われたところで、それは全くの無意味だと思うから。この一世一代の大勝負に打ち勝つことで、いかなる時も折れることのない自己肯定感を身に付けることで、人生そのものに対する勝利者にすら上り詰めてみせてやる。
(そうと決まれば、こんな用のない所からはさっさとおさらばに限る)
別段何かが香るわけでもなかったしと、かすかに入り混じるそんな不純な動機ごと追い立てるようにして、体を入口の方へと向き直らせる。ところが、一息にレールを飛び越えようと片足を前方に大きく踏み出したまさにその時、信じ難い失態を犯してしまった。行き当たりばったりの結論にしては思いの外綺麗な締め括りに、いささか調子付いていたか、あるいはこの部屋の外に気持ちや視線が向かい過ぎていたのかもしれない。
あまりにも大股になり過ぎたのか、体の重心を不意に失い、軸足がバランスを取り切れなくなってしまったのだ。滑りやすい床面は、もつれた足をつかんでくれることはしない。ふと覚えたのは、フリーフォールで落下するときのような、支えを失った体が無感覚に浮かび上がる虚ろな現実感。体中の内臓があるはずのない空洞へと投げ出され、質量を感じないひんやりと澄んだ空風が、血液に取って代わって全身を駆け巡る。
転倒の危険を回避するには、持ち上げた片足を重力に任せ、叩きつけるように床に下ろすより他になかった。それも、入口の段差を無意識に避けたばかりに、薄く水の張られたままの、浴室側の床の上へと。
言うまでもなく、ゴム底に追い出されるようにして水は跳ね上がり、狭い室内に反響した水音の大きさたるは、今回の家探しが露見して彼女と共に生きることを決めた先の決意が水泡に帰すことを危惧するには充分だった。
一刻も早く石鹸の泡を落とす振りに戻らなくてはならないところを、ズボンの裾が濡れたことでここでの挙動が彼女に気取られやしないだろうかと神経質になるあまり、しゃがみ込むようにして足元を覗き込んでしまう。おのずと視点は低くなり、眼前を覆う床の水溜まりが頭部の輪郭を丸映しにして揺れ動くのを間近に見たところで、またしても新たな疑念が頭をもたげ始める。
(何で、こんなに大量の水が乾きもせずに風呂場を占めてるんだ?)
湯船に浸かるにせよシャワーを浴びるにせよ、大抵は夜、一日の活動をほぼ終えた後に体の疲れや汗を落とすための習慣だろう。もしこの浴室が最後に使われたのが昨夜のうちならば、排水溝にたどり着けずに取り残された水といえども、今朝の時点ではとうに蒸発し切っているはず。朝シャンなどという文句をよく聞くように、彼女が今朝方使用しただけに過ぎないと仮定しても、それならそれでまた不自然なのだ。まだ午前の九時を回ってすらいないというのに、水も空気も、この浴室内は何もかもが冷え切っていて、湯気の香りすら残っていない。ほんの数時間前に使われたとは、到底信じ難い状態なのだ。
(何を、馬鹿なことを……)
この猜疑心は、限度というものを習わなかったのか。単に水捌けが悪いでも、冷えの進度が考えたより速かったでも、理屈はいくらでも通るではないか。お湯を使わず、水だけでなにがしを洗った場合だって決して珍しいことではない。
枯れることなく湧き出て止まない疑惑をどうにか振り払わんと、揺すられた脳が内部から頭蓋を殴打するほどの速度で以て、頭を大きく左右に振り回す。
だが、知ってか知らずか、幸か不幸か、扇状に広げられた視線は偶然にもその先であるものを捉えてしまい、そこに生ずる強迫観念故か、目線を引き剥がそうにも縫いつけられたようにして、全身ごと身動き一つ取れなくなってしまった。
両目の向かう焦点が指し示すもの、それは、バスタブの上に敷かれた、極普通の蓋に過ぎない。しかし、その中をまだ調べていなかったことも、また事実である。いくら何でもそこまで、一見残り湯の香りを求めているとしか思えない異常染みた行動を取るなどということをしでかしては、この根暗中学生が順当に歳相応の変態街道まっしぐらであるということに疑いを挟む余地がこれっぽっちもなくなってしまう。ただでさえ、浴室への不法侵入を働いているというのに。
制限時間は、刻一刻と迫りつつある。しかし、得体の知れない部分が一箇所でも残っているとなると、この身はとても我慢が利くものではないのだ。それも、ありがちな全能感からは程遠い、単なる臆病者の骨抜き作業。言わば、薔薇の棘除去だった。
(今度こそ、本当にこれが最後なんだ……)
一目見るだけで、この喉の支えも元からなかったように取り除かれるに決まっている。今にも窒息しそうな息苦しい閉塞感だって、すぐに収まってくれるに違いない。一片の憂いもなく、一抹の懸念も抱かずに彼女と安らかに語らい合えたあの日々に、もうすぐ帰れるんだ――そんな未来を夢に描き、意は決した。音を立てないよう、端のほうから慎重に蓋を捲り上げつつ、わずかに開いたその隙間へと首を滑り込ませるようにして、光の届かない真っ暗闇をついに覗き込んだのだ。
そこに眠るものが、それこそ夢のような世界だとも知らずに。
まるで、別世界に迷い込みでもしたかのように、今までとは打って変わった清涼な空気が鼻孔をつついた。ふと脳裏をよぎったのは、いつぞや見た覚えのある子供向けのアニメーション、環境啓発ものにありがちな、のどかな森に暮らす動物たちが水辺に集う一場面だった。木々のざわめきや遠いせせらぎ、小鳥のさえずりに包まれた静謐な森林で、大小を問わず様々な動物たちが互いに仲睦まじく泉に寄り集まる。ある者は喉を潤し、またある者は、葉々の緑が揺らぐ水面へと身を浸し、その清冽さで体を洗い清める。枝々の狭間を縫うようにして降り注ぐ木漏れ日が湖面に打ち砕け、霧状に広がった燦々たる輝きに目が眩む中、その光源の入口ともいうべき森の裂け目から覗く青空を仰ぎ見るかのごとく首をもたげ、まどろむように両眼をうっとり細めながら、草木の青さと水と光とがない交ぜになった匂いを嗅ぐ。そんな風に平和的で、幻想的な光景が。
だが、目の前で見る現実の様子とそれとでは、決定的に違う点が二つあった。一つは、ここが雄大な大自然の中などではなく、古びた狭苦しいアパートの一室にしか過ぎないということ。そしてもう一つは、その中にいる動物たちが、一匹たりとも動いていないということ。
夢のようなという形容は、その意味合いを全く異にしていたのだ。夢に見るほどまでに憧れ、そうであって欲しいと願う場景から、どうか夢であってくれと祈らずにはいられないほどの惨憺たる有様へと。
それは、異様な光景だった。今しがた見た森林風景は、ここまでくればもはや何もないだろうと内心高を括り、半ば楽観的であったが故の脳内変換。詰まるところ、ただの現実逃避でしかなかったのだ。
本来水が張って然るべき浴槽、そこに敷き詰められていたのは、場違いな状態変化に居心地を悪くした大量の氷(栓が抜いてあるらしく、溶けた水が溜まることはない)。猫を始めとした、主にハトや烏とで構成される動物の一群が、あたかもそこに入り浸るように、その体を以て黙々と氷上を埋め尽くしていたのだ。ある者は物思いに耽るあまり、そのまま眠り込んでしまったかのような安らかな様子で居心地の悪い凸凹の上でも騒ぎ立てることなく、その身を静かに横たえている。恐らく、氷は随時継ぎ足されているのだろう。またある者は、全身の力を尽く抜き去り、己を湯船に預けて力なく漂うような格好のまま、氷の中に沈んでいた。中には、車に轢かれでもしたかのように、その原形を留めていない部位を抱える者。虐待の痕も惨たらしく、流血こそないものの生々しい肉色の不毛地帯が優に体表面積の半分以上を席巻している個体もあった。
敢えて例えるものがあるとすれば、小学生の平和学習時に見せられたことのある、第二次大戦、原爆投下後の阿鼻叫喚の図。黒焦げの肉塊が水を求めて群れを成し、油まみれの川へとこぞって押し寄せる。その渇望の如何によらず、力尽き、川底に没する人々。幾重にも折り重なり、個々の判別も叶わぬ黒山。やがて地平にまで果てしなく連なったそれ自体が、皮肉にも、彼らの請い願った大河の外観を成すほどまでに。
もっとも、それは過大広告というもので、実際には一滴の血液すら混じることなく氷は透き通り、個体の数も十匹に満たず、せいぜいが七、八体である。
だが、ありきたりな地獄絵図を連想させるほどには、日常生活のスケールの中で遭遇したそれは十分に鮮烈だったのだ。
この身も、凍ってしまったのだろうか。蓋を持ち上げる手もそのままに、前後をなくして身動き一つ取れずにいる。この底冷えするような感覚は、決して内部より湧き出でるだけのものではない。確実に顔面を襲いかかる、底の浅い冷暗所より放たれた冷気そのものに他ならないのだ。
(まるで、スーパーの鮮魚売り場だな……)
慣れ親しんだはずの光景が、対象を置き換えただけでこうも違って見えるのかと思っていた矢先……
「……勘違い、しないでね」
空気が、震えた。いや、震えたのはこのちっぽけな肩か。それは、自己を支えた土台が自壊した故か。
突如、横手に彼女の声が響いた。今まで聞いたこともないような、冷たく、無機的な声。
弾かれたように振り向いた先では、この場の居住者たる落目ゆかりという名をした一介の女子大生が、別段焦った風もなく平然とした面持ちで眼前を立ち塞いでいた。
無表情に陰るその瞳は、こちらの姿を放さず捉えているというよりは、ただ虚空を眺めているようにも見えた。それは、こちらを同じ人間としてではなく、あたかも背景の一部と判別しているかのように。端から眼中になどないかのように。
この部屋の一部となるのが、決まり切っていたかのように。
「こ、ころ……っ!」
『殺さないで下さい』。そう言いかけたのを、それでは相手を逆上させるだけだと思い止まり、とっさに言い直す。
「こ、これは何なんですか!」
幸いにも、“ろ”と“れ”の子音はどちらとも同じ“r”だった。
彼女はその質問には答えず、靴下履きのまま水浸しの浴室へと足を踏み入れると、無言のままでこちらとの距離を詰めてくる。犯罪の露呈した状況には似つかわしくない、悠然とした足取りで。ふてぶてしいまでに、落ち着き払って。
「何か言って下さいよ!」
底知れぬ恐怖に駆られ、脱出を図ろうとするも、時既に遅し。思わず後ずさってしまったのが運の尽き。時機を逃し、気が付けば壁際に追いやられる格好になってしまったのだ。
得体の知れない、無駄に丸みを帯びた肉感溢れる図体が、有無を言わさず迫ってくる。言いようのない圧迫感を伴い、この体を押し潰さんとにじり寄ってくる。
隙を作って逃げ出そうにも、そこの氷を無造作につかみ取って投げつける気にはなれないし、背後の棚に見つけたカミソリは武器として使うにはあまりにも危険が過ぎ、万が一にも向こうの手に渡ってしまえばそれこそ一巻の終わり、晴れて彼らの仲間入りだ。タオルの類も同じで、鞭のように振り回すには範囲が足りず、首を絞める加減も分からない。うっかり彼女を絞殺するような事態に陥れば、今度は彼女と同類になってしまう。シャワーのヘッドも同様で、熱湯をかけるなどは以ての外だ。
殺傷能力をそれほど期待せず、敵に奪われても安全な道具。脇に置かれた洗面器と同じ柄をしたポリプロピレン製の手桶を逆手に携え、果敢にも彼女と真正面から対峙する。
しかし、彼女はこちらの臨戦態勢などまるで意に介さず、敢えて目前にまで迫った上で、全く無防備にも浴槽のほうへと体を向き直らせる。そのまま腰を屈めたかと思うと、こなれた手つきで蓋を全開にし、その中の一体をおもむろに抱き上げてみせたのだ。
「私は、拾っただけだから」
「ひ、拾った?」
悪さをした子供を、優しく諭すように。幸福なおとぎ話を読み聞かせるように。それはそれは、穏やかな語り口で。抱えた小動物の凍った毛並を、手櫛で解かすようになで回しながら。
「外を歩いてるときとか、目にしたことないかな? 道端や横断歩道の真ん中で、猫や鳥が死んでるところ。そういうの見ると放っておけなくて、こうやって家に連れて帰ってきちゃうんだ。それで、お風呂場で綺麗に洗って、丁寧に毛づくろいもして、一人一人に敬意を払って、冥福を祈るの。それに、業者に任せると、一般ゴミと同じ扱いで事務的に処分されるのがほとんどだっていうから。……といっても、お金がなくてちゃんとしたペット葬儀会社に頼めないから、結局私も最後には捨てちゃうんだけどね」
その口は、こうも陶然とでまかせを紡ぐのか。
「……埋めるっていう選択肢もあるんだろうけど、許可なく勝手に埋められる場所は……ううん、これはただの言い訳。面倒臭かっただけ。……でもね、拝太くんとゴミの話をした後は、そのほうがいいのかも、って思うようになったんだ。土の中は、何年も何十年もずっと変わり映えしない。だけど、ゴミと一緒に捨てたなら、バスの中で、十人十色の背景を持った他のみんなから、これまでの旅の話をいっぱい聞かせてもらうんだろうなあ、……って」
「うそだ! うそだ! うそだ!」
これ以上物語を聞いていると、頭の構造が変わってしまいそうになる。また、洗脳されそうになる。
「そんな口からでまかせ、今更信じられるとでも思ってるんですか! 僕はもうあなたを妄信なんかしませんし、あなたの崇拝者でもありませんよ!」
その場しのぎの姑息な言い訳にしては随分と流暢な口ぶりだったが、何も思いつきで発言するとは限らないのだ。用心深い、面の皮の厚い犯人ならば露見を見越し、あらかじめ偽の筋書きを用意して、淀みなく暗唱できるまでに熟読してくることだって大いにあり得る。
その証拠が、ゴミ袋の中のあの血だるまだ。いくら体面を繕おうが、下ごしらえのことを死に化粧だと言い張ろうが、この目はメインディッシュの快楽を享受した後の残飯をしかと目撃しているのだ。
「……ねえ、疑問に思ったこと、ない? この夏休みの間中、何で私と拝太くんが一緒にいたのか?」
鳴りを潜めるようにして、彼女の声が急激にトーンを下げる。何やら言いにくそうに口ごもる素振りを見せながらも、彼女はしっかりと通った声で次の言葉を繋いだ。
「拝太くんが呼び鈴を鳴らすと、何でいつも私が出てくるのか。電話をかけても、どうして留守電だったりすることが一度もないのか。どんな約束を取り付けても、都合が悪くて来られないようなことが起こらないのか、絶対に突っぱねたりしないのか……」
それは、二人の間にできた空白を埋めるように、手探りで進むように、自身なげで今にも消え入りそうなか細い声。
内心を気取られぬよう手桶を鋭く突きつけ直したところで、こちらが返答に窮したのは言うまでもなかった。この自分本位で浮かれポンチな自己中心的中学生は、いつ何時もその害意や含みといったものの一切浮かばない穏やかな笑顔が出迎えてくれることを、至極当然だと思っていたのだ。だが、よくよく考えてみればいささか妙である。度々マスメディア等で描かれる世間一般にいう大学生像とは、講義の出席などそっちのけでアルバイトやサークル活動に精を出し、仲間と共に飲み会や旅行に勤しむといった、人生の段階で一番暇なモラトリアム集団のことを指すはずだ。若者を中心に人気を博した、学校の中年教師でさえもその構成を褒め称えたとある恋愛ドラマの中でも、「高校は受験、大学で少し遊んで、そして就職」と、公共の電波に乗せてまでして大学生活を遊びの時期だとこの上なくはっきりと言い切ったほどである。ましてそれが、神の授けしごとき二ヶ月間の夏休みともなればなおさらだ。
果たして、目の前にいる彼女はどうだろうか?
この数週間を彼女と共に過ごした中で、僕は誰かがこの部屋を私用で訪ねて来たり、彼女の電話が遊びの誘いやメールの発着信で音を鳴らすといった姿を、少なくとも自分の知る限りではこれまでに一度も見たことがない。大学生の類型には他に、人付き合いよりも電子ゲームやインターネットの類に比重を置いてのめり込む形式もあるそうだが、彼女の場合には、そのいずれにも属さないように思えた。
彼女の問いに返す答えがあるとすれば、その残りは空っぽの前頭葉からでも導き出せるほどに単純で、かつ、それを口にするのがはばかられるような、他者の人格を否定する趣を秘めもせずに剥き出しにした、そんな攻撃的な決まり文句。
「……私、友達いないんだ」
訳も無しに、忌み言葉風の語感をまとった定型句。それは、言葉にするにはあまりにも簡潔で、間の抜けた突然の告白だった。
「高校までは楽しかったんだけどなぁ……でもそれって、私自身は内向的で控えめだったのを、小学校以来からの明るい友達に乗っかってかろうじて上手くやってたんだなぁ……って気付いたのが、実家を離れてここの大学に入った後。サークルも何となく決め兼ねて入りそびれちゃったし、知り合いも誰もいない。……いつの間にか、つまはじき者にされちゃった。自業自得だけど」
そう言って夢見心地に天を――低い天井を仰ぐ彼女は、その過ぎ去った日々が心から幸せだったように、本当に懐かしそうに。その思い出を分け与えるようにして、抱き上げた物体の毛並にすり込むようにしてなで回しながら……
「そんな性格、こんな生き方だから、他人事だと思えなかったんだろうなあ。誰からも目をくれられず、道端に打ち捨てられたままのこの子たちが何となく自分と重なっちゃって、どうにもこうにも放っておけなくなっちゃった。だからこうして連れて帰って、処分される前のいっときだけでも一緒に過ごしてるの」
それはまるで、二人を隔てる距離を少しずつ詰めるかのように。頼りなげに、恐る恐る地面を這うようにしながらも、一歩一歩を確実に踏みしめてこちらの心に触れようとする。
「これが、私が関する全ての真実。……分かってくれた?」
信じてもいいと思った。信じるべきだと思った。彼女が嘘をつくような、まして虐待を好むような性癖の持ち主などではないということは、これまでの経験が身に染みて何よりも誰よりも分かっているはずなのだ。
だが、気持ちが彼女の下へと傾倒する度に、例の光景が頭の中をちらつくのだ。さながらししおどしが規則的に音を立てるがごとく、たとえこのままの状態で悠久の時を経たとしても、その繰り返しは未来永劫続くかと思われた。早まる心臓の鼓動は何処より響く警鐘の音と完全に同期し、鳴り止む気配は一向に感じられなかった。
もし、この事態が平素通りの毎日の中でたまたま巡り合った出来事だったとしたら、僕は何の逡巡も介すことなしに彼女を受け入れたことだろう。だが、既に現に形として存在する凄惨な結果を目にした今となっては、もはやいかなる甘言に対しても心を惑わせることはなかった。
「そんな子供染みた言い訳、いつまでも通用すると思わないで下さい!」
関係を修復せんと優しくすり寄るかに見えた彼女の言の葉は、その実が哀れな獲物をまさぐる触手でしかなかったのだ。一度気を許し、彼女の手に身を委ねたが最後、油断したこの身はこれを好機と見た彼女の為すがままに、瞬く間に食らい尽くされてしまうだろう。
「友達がいないからなんて、そんなこと理由になるわけが……」
「それはあんたがまだ中学生だからよ!」
世界の、終わりが訪れたのかと思った。大地震が起こり、足場を洗いざらい奪い去られたとも感じた。
良くも悪くも終始穏当な姿勢を崩すことのなかった彼女が一変、気色ばんだ声色で俄然怒鳴り出したのだ。
「中学生はまだいいよ! 何もしなくても教室っていう自分の居場所があって、強制的でも他の人との共同作業があって! でも、大学にはそんな場所はないの! 自分で自分の居場所を作らなきゃ、いつまで経っても一人のままなのよ!」
……ああ、そうか。決して波立つことのない、なだらかな草原に根付いた一輪の廉花。僕がこれほどまでに彼女に惹かれた理由とは、まさに彼女がそのような存在だったからなのだ。人間はどうしても感情が先立つ生き物であり、理性に則り基本は大人しく努めようとしていても、何かままならない事があれば苛立ちを抑え切れずに俄然怒鳴り散らしてしまうものなのだ。そして、普段の節制がその免罪符であると主張する。しかし、彼女はそんな不作法な憤りを正当化する連中とは次元を異にしていた。いかなる時も深い心遣いで穏やかな態様を崩さず、自粛自戒を怠ることは今までにただの一度もなかった。そんな彼女だったからこそ、僕は安心してその傍らに居続けることができたのだ。
だが、それは違っていた。花は花でも、彼女の場合は湖面に浮かぶ蓮の花でしかなかった。地面だと思っていた一面の緑は、浮き草と苔とが絡み合った見せかけの足場でしかなかったのだ。そうとも知らずに足を踏み出せば、甘い香りに誘われるようにして花の下に近寄ろうとすれば、当然の如く、この身は濁った古池の底へと沈んでいく。
ただ、落ちていく。
憎悪の色が小奇麗だった顔面にまざまざと浮かび上がり、煮えたぎったような瞳がこちらを捉えて放さない。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことをいうのだ。
「……でもねぇっ! そうじゃないのよ。……私が一番許せないのは、独りでいることそれ自体が、この世で最も忌むべき絶対悪みたいに扱われることよ!」
荒々しく高ぶる口調は、まるで何かを吐き出すように。人が人に向かって、ここまで雑言を吐き連ねることができるだろうか。もはやこの身を彼女はゴミ箱かレジ袋か何かだと認識してしまったのではないか。
それほどまでに、彼女の発言は容赦なく、とどまる所を知らない。
「講義の席は特に決まってなくて、だけど定員いっぱい分しかなくて出席人数が多いとすぐに埋まっちゃうから、いつも早めに来て座るの。昼食時間には、席取り用に小物だけ置いて席を立つわ。一回電子辞書を盗られたことがあって、荷物は全部持ち歩くようにしてるから。……でもねぇ、戻って来たら席がないの! 他の奴が私の席で話し込んでて、おまけに席取り用の小物はどこにもないのよ! 周りの机や椅子、引き出しの中、床の上! 落とし物入れにもどこにもないの! 探してない所といったら、ゴミ箱の底ぐらい! 人為的にやったとしか思えない! 名前だって普通に書いてあったのよ! それなのに、数人が固まって雑談するただそれだけのために、私の荷物をどこかへ追いやるまでして席を奪ったっていうの? 何でそんな権利があるのよ! 罪悪感ないの? 講師が期末テストについて告知するときも、わざわざ過去問を勉強するのが一番効果的だって言っておきながら、その過去問自体は『先輩に頼むなりして各自で手に入れろ』ですって? 何よそれ! 先輩どころか、大学で話し相手すらまともにいない私はどうしろっていうの? いい気味だっていうの? 私が悪いっていうの? 単位こそ落としはしなかったけど、周りの反応見てれば自分がどれだけ無駄な骨折りしたって思い知らされることか! 教育の機会の均等も何もあったものじゃないじゃない! 同じ額の授業料払わされてるっていうのに!」
彼女は毒を、道を歩けば排気ガスを吸い込むように、常日頃から肺の中に溜め込んだゴミの山を尽く吐き出すようにして、連綿と語り続けた。
講義室を歩いていた際に、たまたまその横を通りかかるのと時を同じくして、机の上に不安定に置かれていた誰かのテキストが床に落ちた。肘や鞄が接触したなどは一切なく、単純にずり落ちただけだというのに、その時の自分を見る周囲の目といったらまさしく非難の色。当然、潔白を擁護してくれる人間はおらず、心証の悪さを口コミで広げられたらしかったということ。第一外国語の授業で、自由席とは名ばかり、毎週の習慣で座席はほぼ固定されていたというのに、ある日来てみると自分の席がそこだけぽっかりと消えていた。前後左右に移ろうにも、少人数の狭い教室にそんな余裕があるはずもなく、自分一人が身勝手に移動すれば教室全体の座席体系を大きくずらしてしまう。結局は、人数が揃う授業開始時までを棒立ちのまま過ごし、誰にも迷惑をかけない席を判断して座るより他にはないということ。パソコンのプレゼンテーションソフトを使った発表の際に、講師から『上手いけど、高校生までのまとめ方だね』と、他学生の前で露骨に駄目出しをされたということ。自分の目からは他人の発表もそれほど変わらず、どこが違うのだ、確かに自分は大学に入ってから世にいう他の大学生とは尽く接触を欠いているが、それがいけないのかと、理不尽な責めに長々と苛まれたということ。売店では、複数人で笑い合いながら闊歩する人はさして気にされないというのに、常に一人でいる自分にはやけに店員や他学生の視線が厳しく、あたかも万引き犯を警戒するような態度を取られるということ。自転車で右折の際に右手を広げる手信号をしたところ、後方から猛スピードで突っ込んできた複数台の自転車に当てられ、あろうことか因縁をつけられた。こちらが手信号を行っていなければ、今頃はどてっ腹と激突していただろうにも拘わらずにだ。それどころか、学生の自転車マナーには目に余るものがある。左側通行の原則を、右折を控えるわけでもなしに敢えて右側を走行、それも本来右側が正しいのだと言わんばかりの大勢で、正面からトラックが来ても端に寄せたり一時停止をすることもなく、それでいてトラックの運転手が痛罵を浴びせるのは決まってこちら側。駐輪マナーなどそれこそ言うまでもなく、指定域の外側に平気で停めて通路を塞ぎ、前に停めた自転車が出られなくなっても気にも留めないのだということ。ゼミで三人一組の班を組まされて司会進行をする際にも、他の二人は段取りも考えずに無駄話を続け、あまつさえバイトやサークルがあるからと、当人ら曰く役割分担でレジュメ作成を丸投げする始末。挙句に本番では、こちらとの連携を取ることなしに二人だけで話を進め、どこで事前に示し合わせたのかは知らないが、質問方法なども一方的に設定し、こちらに口を挟む余地すら与えなかった。その上授業終了後には、ゼミの担任が自分だけの肩を叩き、『頑張れ』と、一言言い残して去って行ったのだ。まるで、自分だけができていなかった、準備不足だった、問題児なのだと、そんな意味を含んだ印象を受けたということ。
それらは、どれもほんの些細な物事で、酷く下らないことのように思えた。
反面、似ているとも思った。彼女と自分は同じなのだと、そう感じた。共に清く正しく生きることを志そうとするも、周りを取り囲むようにして山積するゴミの群れがそれを許さない。彼らの側からすれば、石ころの中に一際輝く小粒の宝石こそが異物であり、排斥の対象であり、ゴミでしかないのだ。
「それもこれも、みんな! みんな……私一人がゴミだからいけないのよ!」
だが、彼女と僕には、決定的に違う点があった。僕は自分をゴミだと見なして卑下する傍ら、自分を除く周囲の人間、延いては人類そのものをゴミだと決めつけ、自分というゴミはその中に付随するだけに過ぎない。真のゴミは自分を蔑む周辺連中だと考える一方で、彼女はというと、自分こそがゴミの源泉、ゴミの塊、ゴミそのもの。周囲の人間の冷たさは、全て自身の発する腐臭が招いたものだとしている。
自己肯定感の有無、人間性の差異といえば、説明にはなるだろうか。
いずれにせよ、これ以上彼女のことを直視することはできなかった。
「この前の講義だって、新型インフルエンザが猛威を振るってる、咳エチケットがどうとかやかましいくらいに学内中に掲示してあるっていうのに、後ろの席の奴が何度も何度も、ろくに覆いもせずに吐き出してくるのよ! まるで、私には何をしてもいい、どんなウィルスを撒き散らしたって構わない、目の前にあるのは人間じゃなくて、単なるゴミ箱なんだって……っ!」
自分の首を掻きむしるように、喉を自ら裂き開いて直接に体内の毒素をつかみ取るように、言葉そのものがのたうち回るかのような彼女の姿を、これ以上見たくはなかった。
一歩、足を踏み出す。彼女は動かない。
「……警察に、連絡します」
彼女の脇をすり抜けようとするや否や、肩口に全身の熱が吸い上げられるような、焼け落ちるような痛覚。
「ちょっと待ってよ!」
冷たく冷え切った彼女の細い指が鳥の鉤爪さながらに肩に食い込み、互いの骨が悲鳴を上げる。
「あんた、親の金で学校行ってるんでしょ? 私だってそうよ! 大学に入るのにどれくらい金かかるのか知ってる? 警察沙汰になんかなったら、全部無駄になるのよ! そんな親不孝な真似ができる? だからお願い!」
「は、放して下さい!」
すがるように、鬼気迫った死に物狂いの形相で金切り声を張り上げる今の彼女に、かつて自分が憧れた頃の面影はなかった。
……いや、あったのだ。あったからこそ、今この瞬間が、現実が、どうしようもなくおぞましいのだ。
「私は、悪いことなんて何もしてない! 私があの子たちを見捨てないことで、私自身も誰かに見捨ててもらいたくなかっただけなの!」
「放せって言ってんだろぉ!」
肩に、風が戻った。浴室の床というのは得てして転びやすく、老人等の転倒事故が跡を絶たないという。
それは、若者にも例外ではない。
振り払われた彼女の手が、ゆっくりと遠ざかる。水を吸った靴下履きの足は水溜まりを踏み外し、その際に飛んできた水滴が裾の部分を点々と濡らす。後ろへとのけぞった彼女の体は、視界の底へと没していく。
鈍い衝撃が部屋中を揺り動かしたところで、次の瞬間には、何事もなかったかのように元通りの静けさを取り戻していたのだった。
「落目……ゆかりさん!」
最悪の事態が頭をよぎり、逃げることも忘れて彼女の容態を確認する。四肢は風呂場の狭いスペースに合わせるようにして力なく折れ曲がり、さながら収納の折に乱雑に押し込まれた人形のごとく、非自律的な様相を呈している。
出血こそ見られないが、何しろ後頭部を強打したのだ。両目は焦点をなくしたように濁り、体を揺さ振り必死に名前を呼びかけてみたところで、分秒遅れの鈍い反応が返ってくるだけ。
二人の意識が平行線を行き違う。何もかもが、別世界のように噛み合わない。存在の断絶が、今まさに始まらんとしていた。
「警察……」
彼女の口元がわずかにうごめき、息の根混じりにうめくようにして、かろうじて言葉と取れるほどの声量で以て何事かを発する。
警察には、言わないで――
そう言い残すと、事切れたように動かなくなった。かすかな胸の浮き沈みや規則的な呼吸音といったものは、彼女の存命の証というよりはむしろ、現世の器に置き忘れただけの名残のように思える。
気を失っただけだ、きっと。テレビでよくやるように、次の瞬間には後遺症もなしにけろりとしているに違いない。
そうに、決まっている。
氷のひとりでにひび割れる音が、やけに小気味よく室内にこだました。
水に濡れた服を着替えさせる度胸もなく、かえって背中に張りつく気持ち悪さが早めの目覚めに繋がるだろうと自分をそう納得させ、彼女を布団の上へと静かに寝かせた。
手には、散々見慣れた彼女の財布から失敬した、この部屋の鍵を握り締めてある。彼女が目を覚ます素振りを起こしたら、実際に起き上がるところまでは見届けずにこの部屋を立ち去り、鍵はかけた後に新聞受けに戻しておくつもりだった。
結局のところ、警察はおろか、救急車すら呼ばなかった。それが彼女の意思でもあったし、何より、今回のことを誰にも知られたくなかった。内外共の圧力によって自身をゴミと見なさざるを得なくなった彼女の歯がゆさも理解できないような連中に、中身の偏ったゴミに、単に虐待という結果だけを切り取ってこれ以上好き勝手に彼女のことを汚されたくは、えぐられたくはなかった。
それに、少なくともこうして自分に見つかった今となっては、彼女もこれ以上罪を重ねることはしないだろう。そう、信じたい。
もう二度とここに来ることはないのだと思うと、途端に懐かしさがこみ上げてきた。彼女と共にこの部屋で語らった安らかな思い出は、もはや新しく紡がれることはない。いずれは残酷な時の流れに風化していくだけの、一時の挿話でしかないのだから。
見納めに部屋内を一周りすると、テーブルの上のある物が目に入った。箱型パッケージの、新しく見る地域限定味のスナック菓子。机の傍らに置かれた段ボール箱から取り出したらしく、恐らくそれは先程彼女が押し入れで求めていたものの正体だろう。敷き詰められた中身の整然とした並びは、それがつい今しがたまで未開封のままであったことを暗に伺わせる。もし、彼女がこんなにも手間取る真似を選ばなかったとしたら、住人の目を盗み、浴室に忍び込もうとする健全な中学生を未然に止めることができていたとすれば、今頃はどうなっていたのだろう。いずれにせよ、今の自分にこのお菓子を口にする資格などはどこにもないように思えた。
そもそも、実際に目を引いたのはこの珍しい配色の箱パッケージではない。その下でうずくまるようにして押し黙る、厚めの表紙に比較的落ち着いた彩色を施した、A4判の本のようなもの……
(アル……バム?)
一目でそれと分かる外観をした冊子を、思わず手に取っていた。そういえば以前、彼女に中学時代の話をしてもらった際に、当時の写真が見たいとか何とか口走った覚えがある。彼女の世代に携帯電話はそれほど低年齢層に普及していなかったらしく、押し入れの奥にアルバムがあるからと取りに走りかけた彼女のことを、悪く思って遠慮したのだった。
これを肴に、お茶でもしようと用意していたのだろうか。実際、薬缶には火がかけっ放しになっていた。
『高校まではよかった――』
今更、こんなものを見てどうしろというのか。二度と会うこともないというのに、これ以上彼女のことを知って何になるというのか。彼女に関する情報をいたずらに詰め込み、どこまでも体のいい理解者で居座るつもりか。
いや、そうではない。僕はただ、そこにいる昔の彼女に会いたいだけなのだ。同一人物であり、全くの別人でもある。自身をゴミとやつす前の、もはや触れることも叶わないという点では死んだも同じ、この世のどこにもいない亡骸の彼女と。
普通の本とは違い、自重では決して折れ曲がることのないページを、一枚一枚順繰りにめくっていく。物心ついた頃から彼女自身が編集したらしく、一番最初の写真は既に小学生に上がっていた。可憐な少女時代のあどけなさ、小枝のような手足のか細さに度々目移りするのはともかくとして、写真の中の彼女はどれも、小・中・高校生と年齢を問わずに笑顔のままで固まっていた。わざわざ自身の泣き顔を選んで貼りつける物好きもいないだろうが、彼女の周りには常にたくさんの友達がいて、彼女自身一歩引いた感じで幾らか控え目ながらも、そこが自分の居場所であるということには一片の疑いも抱いていない様子だった。だが……見たところ、ちょっとした送別会のようなものだろうか。恐らくは両親と、地元に残る友達とが、実家を出る彼女のためにささやかなパーティーを催しているといったところ。この歳で既に自分とは縁のない心暖まる情景ではあったが、それを最後に、大学生になってからは、入学式の晴れ姿の写真ですら一枚たりともなかった。今回の夏休みに自分と撮ったはずの写真でさえ見当たらないというのは、単にまだ整理前なのか、それともこの中に仲間入りをする価値がないと見なされたのか、いずれにせよ、ショックを受ける理由にはならないだろう。
拝見時間と実際の情報量とが明らかに釣り合わないそれを見終えると、途端にある種の感慨が胸に押し寄せてきた。
当たり前だが、人は過去があってこそ初めて今がある。ある日突然地面から這い出てくるような人間はいるはずもなく、幾多もの歳月が雪のように降り積もり、無数に積層した上に誰しもが立っているのだ。それも、己が足場とする地面は、決して自分一人で作り上げたものではない。彼女のアルバムに見る、家族、友人、地域の大人たちや、ほんの一瞬関わっただけの、名も知らぬ大勢の人々。これら各人が個々に抱える様々な星霜同士が幾重にも折り重なり、互いに組み合わさって、今という時間を生きる一人の人間がようやく現れているのだ。
果たして、そんな人々を一概に“ゴミ”だと貶す権利が、自分にあるのだろうか。人は、他人を過去と切り離して別個の存在として見がちである。今が良ければ昔を笑い、昔が良ければ今を蔑む。だが、人は自己の足下に堆積する幾年の地層から逃れることはできない。植物が根を張り、地中の養分を享受する代償として身動きが取れなくなるように、人はどこまでも過去と一続きなのだ。そして、現在の人格をゴミだといって否認することは、その人の過去に渡ったもろもろの連関、両親のささやかな願いや友人たちと共有するかけがえのない思い出といったものですら、ひとまとめにして否定することに他ならない。そんなことが、許されていいものだろうか。
その人個人の歴史をつづった自叙伝ともいうべきアルバムを繙けば、きっとそこには、数え切れないほどのページが埋まっているに違いない。本はどこまでも高く積み上げれば、やがて宇宙にまで届くという。今までの人生を形に置き換えて積み重ねれば、人は誰もが地球上に高くそびえる尖塔なのだ。それほどの高さを誇ったものが、どうして他のゴミと同じように、焼却灰と一緒くたに最終処分場に埋めて覆い隠すことができるだろうか。マントルまでも掘り下げたところで、きっとマリアナ海溝に頭ぐらいは覗かせているのではなかろうか。そして、それはどんな極悪人だろうと、犯罪者だろうと決して変わらない。
確かに彼女は罪を犯した。無垢なる命を、その嗜虐で踏みにじった。だが、いささか疑問に残る点もある。あれほど優しく、いとおしげに、慈しむようにして、まるで自身から直接えぐり出した心を慰めるかのように亡骸を愛撫していた彼女が、明くる日は一転、絹袋を裂くがごとく、例のゴミ袋の中身同様見るも無残な姿に変え果ててしまうというのには、どうしても合点がいかなかった。それに、風呂場で秘事が露呈した際、女が男を騙すドラマにありがちなように、手のひらを返してこちらを手酷く罵り倒すようなことも一度たりともなかった。彼女の雑言は、全て彼女自身に対して向けられたものだった。
そんな彼女が、本当に今回のようなことを引き起こした張本人なのだろうか?
(ここまで見ておいて、下手な希望を持つなよ……)
例の地方限定スナック菓子といい、浴室の惨憺たる有様といい、どこをどう解釈すれば彼女を無関係だと隔離できるというのだ。願望はどうであれ、彼女が虐待者であるという事実にはこれっぽっちも疑いを挟む余地はないというのに。
どっと、疲れが出てきた。アルバムを元に戻し、窓の側に寄りかかる。
本当に、この数週間は密度の高い日々だった。親や同級生を避けるようにして一人黙々と過ごしていた時間と比べると、何と充実した夏休みだったことだろう。理解者さえ隣にいてくれれば、人生はこうも違って見えるものだろうか。
もっとも、それらの全てが今となっては無に帰したのだが。
それにしても、なぜ自分はこうも彼女にのぼせ上がることができたのだろう。対人恐怖症、女性恐怖症で人間不信。マイナス思考でどんなことにも消極的で、進んで物事に関わらない質である自分が、どうしてこれほどまでに彼女に心酔することができたのだろうか。
(ああ、そういえば……)
窓から差し込む身を溶かすような朝日に向かって、一人呟く。
そういえば、真夏日というのは一番生ゴミが活気づく陽気であったな、と。
最後までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。作者冥利に尽きます。
「ほろ苦さ」や「夏の終わり」といった大好物のワードがはまった今作のラストは、自分でも特にお気に入りです。二人の人物が互いの感情をぶつけ合う展開はよくある盛り上げやすい定番シーンですが、それは相手がいて初めて成立するもの。前章の「ガラスケース」のくだりのように、そもそも「言葉」として認識されるに至らない場合も珍しくないでしょう。おそらくは長らくそういった相手方がいなかった作中の二人にとって、浴室での言い合いはある種、喜びだったのかもしれません。作者たる自分自身がこの後書きの作成中にふと思いついた解釈なので、同じようにどんな物語にも、その読み解き方によって無限の可能性が広がっているに違いありません。
初投稿となりましたが、本作品を読み終えてくださったこと、改めてお礼申し上げます。これからも、より多くの方々に読んでいただける作品づくりを続けていきたいと思います。