インクのにじまないガラスケース
それからの夏休み、僕は彼女が盆に帰省した間以外は一日たりとも欠かすことなく、彼女のもとに通い詰めた。通ったといっても、古文でよく見るような「よばひわたる」の意味ではない。日が昇ってから沈むまでの、極めて透明で底抜けに明るい関係だ。世間的に、この歳になった男子が抱きがちだという感情や衝動は、彼女に対して微塵たりとも抱いたことはない。単に度胸がないのだと言われればそれもあるかもしれないが、それよりももっとはっきりとした理由があった。
結局のところ、人間全員がゴミだという事実は何一つ変わらないのだ。ただ一人、彼女だけを除いては。もちろん、僕にも同じことが言える。汚染程度の差こそあれ、僕だってゴミの一員なのだ。ただ、僕が水気を根こそぎ飛ばされてパサパサに縮小したクリーンな生ゴミならば、他の奴らは水分をたっぷり吸ってぶよぶよに肥大し、その体から漏れる汚水を所構わず撒き散らすアンエコロジカルな生ゴミだ。
何はともあれ、僕もゴミに違いなかった。だから、必要以上に彼女と触れ合うことがためらわれたのだ。一度生じたゴミは、どうやっても消えはしない。燃やして灰となろうが、地中や水中に深く沈め込もうが、あらゆる手間やコストを施してリサイクルと称し姿形を変えようが、そこにゴミがあったという事実、その存在を抹消することなどは不可能なのだ。それでもゴミを自分の目の前から消し去る方法、それはただ一つ。
自分以外の、他の場所に追いやること。ゴミ出しと謳い、有意義な手伝いとして子供に押し付ける、僕たち人間が毎日愚かにも繰り返していることがまさにそれだ。
よって、僕は今以上に彼女へと近づくことができなかったのだ。彼女の新地を、僕からこぼれ落ちる薄汚い生ゴミで侵してしまうわけにはいかなかった。
その代わり、表面をなぞるように定型化されたお付き合いなら、おびただしい種類をこなした。一緒に買い物をしたり、ランチやティータイムをとりながら談笑したり、遊園地にだって、水族館だって、動物園にだって出かけた。彼女はいつも、自然な笑顔を絶やすことはなかった。緊張のあまり僕が何らかの失態をさらしてしまったときには、変に甘やかしたりはせず、真剣に諭してくれた。電話番号も教えてもらい、彼女の部屋に行くときには必ず電話した。彼女はいつ何時も電話に出て、こちらの求めに快く応じてくれた。ドアを叩けばすぐに開き、いつもの優しい笑顔で迎え入れてくれた。約束を破って部屋にいなかったり、苦い顔をされたりしたことは一度もなかった。素行の悪い友達、ましてや彼氏などという存在が臭ったためしなどは、ほんの一秒たりともなかった。
この二十日間前後を彼女と身近に過ごしたことで、僕の予想は確信へと変わった。彼女は僕の期待通りの人格者であり、清純かつ高潔な淑女であり、醜い害意や悪意が渦巻くこの地上に残された、たった一人の天使なのだ。そんな彼女が僕の良き理解者となってくれたことに、僕は言葉で言い尽くせないほどの喜びを感じていた。勘違いされぬように言っておくが、理解者が天使に見えるのではなく、天使が理解者になったのだ。そうとも、仮にあの親やクラスの連中が「君の理解者だよ」と言い寄ってきたところで、どうしてそれを受け入れられようか。「恋は盲目」というが、断じてそうではない。優しく擦り寄ってくる人なら何でもよいと、見境をなくしているわけではないのだ。人品がよく、人徳の備わった彼女だからこそ、僕は彼女を真の理解者だと見定めることができたのだ。
たとえこの夏休みが終わり、学校も始まって今までのように頻繁に彼女と会えなくなったとしても、強固に結ばれた僕と彼女との絆が断ち切れるようなことは絶対にないと、胸を張って言うことができる。僕の長く暗かった人生の中で、今がまさに幸せの絶頂期だった。
そんな最高の夏休みが終わりに近づいたある日の朝、僕はいつも通りの場所へと出かけた。
そこで、事件は起きた。
『先生、もうやめて下さい……』
今にも消え入りそうなか細い声で、生徒の一人が涙ぐんで訴えかけた。その言葉の響きには、既に諦めが漂っている。
『うっせぇ! お前は口答えなんてできる立場じゃねえはずだぞ!』
先生は非情にも、生徒の身を覆うただ一つの膜を、無残にも切り裂いていく。そこにできた切れ目から、四肢の一部を強引に挿し込み内部を執拗に探り続けた。
側にいる他の生徒たちは皆、凍りついてしまったかのようにその場を動けずにいた。一様に、『また始まったか』『どうせ逆らえないんだ』『俺じゃなくてよかった』と、諦観し切っていた。
『先生、もう勘弁して下さい。これ以上私を食べないで――』
「……先生、生徒を食い物にするのはほどほどにお願いしますよ」
こちらの諫言には全く聞く耳を持たず、野良猫は無我夢中でゴミ袋の中をまさぐり続けていた。
空は青く、まるで、半透明ゴミ袋のように透き通って見えた(そうはいうものの、店頭に並べてあるときのように何枚も重なってしまえば、すぐに不透明になってしまうのだが)。八月下旬の太陽は未だ衰えを知らず、紫外線による万物消毒殺菌の責務に精を出していた。
地球は、ゴミに似ていると思った。そしてそれを覆うゴミ袋が、大気やら何やらというわけだ。ゴミ袋の持つ役割が、外からの衝撃によってゴミを乱されないようにするのと、中からの臭気を外に逃がさないことだとするならば、前者は生物にとって有害な紫外線を吸収するオゾン層。後者は赤外線を吸収し、本来ならば宇宙へと放出されるべきその熱を地球に留めてしまう温室効果ガスといったところだろうか。もしも僕に、その馬鹿でかいだけのゴミ袋に穴を開ける力があったならば、汚物でしかないゴミ共の真上にピンポイントでオゾンホールを開き、太陽の手伝いをしたいものだった。
というわけで、僕はいつものゴミ出し場にいた。彼女のもとへ毎日通うようになったとはいえ、こちらが疎かになったわけではなかったのだ。むしろ、この場所のおかげで僕は彼女と出会うことができたのだ。ならば、今までより一回りも二回りも律儀になって、連日通い続けるのが良識人としての当然の礼儀である。母に頼まれた味気ない自宅ゴミの量がいつもより少なめだったことも幸先のよさの表れと感じ、手同様に気分のほうも軽い心地で、今日も熱心に情報発掘作業へと取り組んでいた。
最近の収穫は、非常に面白い週刊誌の存在を知ったことである。いうまでもなく、紙ゴミ調査の結果である。紙ゴミ以外にも、カン・ビンなどの資源ゴミやペットボトル、傘や食器などの埋め立てゴミ、テーブルやタンスなどの大型ゴミと、調査の対象はあらゆる分野のゴミに及び、全てにおいてそれなりの成果を出した。
それでも一番心が躍るのは、やはり今日のような燃えるゴミの日だった。この自治区では紙くずやプラスチックなどの可燃物はもちろんのこと、生ゴミや発泡トレーなども全て一緒くたにしてしまい、「燃えるゴミ」として出している。彼女と出会うきっかけとなったという点もあることにはあるが、それよりも、数多く様々な種類のゴミが雑然とごった返しになった中での探索の楽しみには、勝るものがなかったのだ。
(それに、野良猫先生にも会えるしね)
生ゴミを蹂躙する存在といえばそうだが、何だかんだで、小動物はかわいいものなのだ。人間のように無秩序に悪態をばら撒いたりするわけではなく、正当な反撃を除いては一切楯突くことのない矮小な動物相手では、ときたまの度を越したいたずらに単純な憤りこそ覚えど、相手の存在を真っ向から打ち消すような憎しみなど、抱くはずがなかった。
野良猫先生は片方の前脚をゴミ袋の中に突っ込んだまま、懸命に中身を掻き出そうとしている。僕はゴミあさりの手を止め、くねくねと揺れ動くその毛むくじゃらの長丸胴体を上から見下ろしながら、何とも表し難い癒しのひとときを味わっていた。
そんなスローライフに突入しようとした矢先、何らかの気配を察したかのようにして、野良猫先生が急激にこちらを振り向いたのだ。こちらは、物音を立てるような真似はしなかった。今までもそうしてきたように、普段通りの穏やかな心持ちで眺めていただけだというのに、あたかもこちらが敵意を発していたといわんばかりの振る舞いに、軽くショックを受けた。だが、そのショックに更なる追い討ちをかけるように、野良猫先生はこちらの姿を確認したにも拘わらず、安心してゴミ袋に向き直ることはしなかったのだ。くるりと体ごと反転して、依然こちらを上目遣いでにらみつけたままで、あまつさえ、警告を発するサイレン音を模倣したような、小さな唸り声まで上げられる始末だ。同じ「あさり屋」として、共に生ゴミを嗅ぎ回ったことで培われたはずの信頼関係が打ち砕かれてしまったようで、その衝撃は由々しきものだった。
先生は、一向に警戒を解く様子がない。やがては両耳をぴたりと伏せ、胴を左右に激しく揺さ振りながら次第に屈み込み、姿勢を低くしていく。高低のなかった唸り声が、時折著しく甲高くなる。ヒゲは、根元からヒクヒクと震え出した。飄々とした感じを思わせた鉛筆で縦線を一本引いただけのようだった細い瞳は黒水晶のようにつぶらとなり、見たものを映し返すだけのその黒々とした不透明な瞳は、どこか不安げな様子を醸し出していた。
ここまできて、ようやくおかしいと思った。いくらなんでも、ここまであからさまに敵対されるいわれに覚えがあるはずがない。よくよく見てみれば、目の焦点が合っていないではないか。こちらが首を振っても、全くの無反応だ。漆を塗ったようなその瞳は、こちらの存在など看過しているかのようだった。
僕は釣られるようにして、先生の視線の先を顧みた。角度からして、屋根の高さをはるかに越えた青空を見ているに違いない。ひょっとしたら、大好物であろう小鳥の姿でも見出したのかもしれなかった。
幸い、逆光ではなかった。ぼやけた視界の中に、真っ青な画用紙の上に点々と墨汁を垂らしたかのような、明暗のない均一的な眺めが広がっている。目を細め、ぼけた輪郭を正そうと試みた。徐々にそのシルエットがくっきりとしてきたが、それはこちらの甲斐ではなかった。
向こうのほうから近づいてきたのだ。幾多もの黒点が、一様に拡大され、はためくようにしてこちらを目指している。木々に茂る葉のように一団となってうごめくその姿は、まるで映像メディアで度々目にしたことがある、コウモリの群れを彷彿とさせる光景だった。
『ねえ、ちょっと! ヤバイよあれ!』――生徒たちもにわかにざわめき始める。
しかし、生まれてこの方、実際にその大群を見たことはなかった。それに、そもそものイメージが違う。ステレオタイプではあるが、こんな風に朝の日差しの降り注ぐ中に嬉々として身をさらす性質の生き物ではなかったはずだ。それよりももっと身近に、今現在の状況全てにそっくりそのまま該当する生物がいるではないか。あの、例によって真っ黒な奴らが。
『俺たち……一体どうなっちまうんだよ』
生徒の半数以上は既に、自分たちの近い将来を悟ったのだろう。観念し切ったかのように、地べたにへたり込んでしまっている。対して先生のほうは、口を裂けんばかりに上方に吊り上げ、攻撃的な構えを一層強めていた。唸り声は、耳をつんざくような高音域の断続的連続音と化している。
迫り来る黒い斑点の個々は、もはや十分に鳥の形を成していた。
(やっぱりあれは――)
『先生よぉ、今までのお礼をしに来てやったぜぇ……おらぁっ!』
『不良の大群だー! 仕返しに来たんだー!』
先頭の一羽の胴間声を皮切りに、双方の陣が一斉にさんざめいた。
思った通り、水面に浮かぶゴミさながらに空に浮き上がるようにして集まっていた黒点の正体は、烏の群れだった。いや、群れなんてものではない。大群とも違う、それはもはや塊、固体だった。それほどの数なのだ。二十、三十……いや、五十羽は下らなかった。
『アンタには散々かわいがってもらったからよぉ、他にもかわいがって欲しいって奴が大勢いたもんで、そいつら全部連れて来てやったぜ先公よぉ!』
『く、汚い奴らめ腹黒い奴らめ真っ黒い奴らめ! 群れて強くなったつもりか! 貴様らが何匹まとめてかかってこようとも、大事な生徒たちには指一本触れさせないぞ!』
『けっ! その威勢がどこまで続くのか見ものだぜ! 野郎ども、やっちまいな!』
途端に、場の静けさが増した。不良たちの羽ばたき音が、急にぴたりと止んだのだ。ここまでの遠征に力を使い果たしたかのように、パラパラとこぼれるようにして高さを失っていく。だが、拍子抜けしたのも束の間のこと。一見ただ重力に沿って落ちているだけのように見えたそれは、具体的な攻撃行動に移る前の一段落、下準備だったのだから。
垂直に墜落していくかと思われた不良たちは、しなった弓が跳ね返るようにしてその軌道を急激に変化させ、上弦の月を描くようにしながらこちらとの間合いを一気に詰めてきた。滑空による急降下、強襲だ。
非道だとは思うが、この時点で僕は既に、先生や生徒たちを置き去りにして蚊帳の外へと逃げていた。
不良たちはまず、先生を挑発、あるいは威嚇する姿勢に入った。敢えて先生に接近しながらも、その攻撃が絶対に及ばない高さに身を保ったままで、大仰な叫び声を上げながら先生の上空を悠々と飛び去ろうとする。しかしながら、その目算は大いに甘かった。先生は、一瞬たじろいだように絶え間なく飛来する不良たちを見上げながらわずかに後ずさりしたものの、次の瞬間には、その体を宙高く躍らせていた。このくらいの跳躍はお手の物。自身の四肢を伸ばし切った棒立ち時の全長以上の高さを得ることなど、先生にとってはお茶の子さいさいなのだ。
瞬時にして不良たちと同じ位置へと飛躍した先生は、とっさのことで狼狽する目の前の不良を逃さなかった。強靭な前足で相手の胴回りを両翼ごと抱え込むようにして捕らえ、その鼓翼をすかさず封じ込める。捕らえる者と捕まった者。二人の体勢を一見すれば、相手を見事押さえ込んだ先生のほうが有利であることは、火を見るよりも明らかだった。
しかし、そうではなかった。これは、不良たちの卑劣な策略だったのだ。何しろ相手は、たったの一人きりである先生側をはるかに凌ぐ大人数である。そのうちの一匹をひっ捕らえたところで、残りを芋蔓式に拘束できるわけではないのだ。ましてや、人質の役割を果たしもしない。いつの時代も、些細な犠牲は容認され、捨て駒は常套手段である。
空中に身を置くことは、全身をさらけ出すも当然である。床や壁といった防護壁を自ら取り払ってしまったがゆえに攻撃可能な表面積を増大させ、触れるものの一切ないがために反発力を生み出すことも叶わず、軌道を変えて回避行動をとることもままならない。更に加えて、前脚が両方とも塞がってしまっているせいで、反撃による防衛手段を尽く失ってしまったのだ。相手を取り逃がすまいと深く食い込ませた鋭い鉤爪が、結果として仇となった。捕獲対象の逃走のみならず、自己の意思に基づく分離をも妨げてしまったのだ。とはいえ、その時間の遅れも一瞬であることに変わりはない。しかしながら、羽を持たぬ動物が跳躍によっていつまでも浮遊し続けるわけがなく、前脚の拘束が一瞬ならば、落下にかかる時間も一瞬だ。詰まるところ、先生が宙に浮いている最中のみの無防備時間を稼げさえすればよかったのだ。
『ヒャハハ! 引っかかりやがったぜ、能無し先公がよ!』
そこに生じた空隙を見逃すはずも無く、不良たちは四方八方、あらゆる角度からの集中砲火を先生へと一気に畳み掛けた。先生は為す術も無く、その身に薄汚れた喪服をおっ被せられる恰好になった。裏地のささくれにちくちくと苛まれながらも、せめて最初に捕らえた一匹だけは逃がすまいとして、その前脚に力を込める。だが、その甲斐も空しく、仲間の不良の執拗な攻撃の衝撃で力の緩んだところを、むざむざと抜け出させてしまった。
しかし、やられっ放しの先生も黙ってはいなかった。高度が低下するにつれ、あれほどしつこくまとわりついていた不良たちは、落下の衝撃に巻き込まれまいとしてばたばたと逃げ去って行く。その中の一匹の脚にすんでのところで爪を引っかけ、もろとも地面へと引きずり落としたのだ。着地よりも前に体勢を立て直し、その不良の首根っこを強靭な前脚でがっしりと捕らえ、地べたに押し伏せる。今まさに、肉食獣ならではの鋭い犬歯をそこに突き立てんとする寸前にまで持ち込んだのだ。
しかし、ここでも数の利が出た。裁縫道具の針山に針を滅多刺しにするかの如く、残りの不良たちによる一撃離脱型の間断なき波状攻撃が、先生の丸い背中をその針山に見立てるかのようにして土砂降りの雨さながらに容赦なく降り注いだのだ。一匹に複数回つつかれるよりも、複数匹に一回ずつつつかれるほうが、頻度としては楽かもしれない。だが、数さえ揃っていれば、その一回ごとの攻撃全てに突進による運動エネルギーが付加する後者のほうが、前者よりも甚だ手厳しいことはこの上なく明白であった。その熾烈な迫撃の連打に耐え切れず、せっかく組み伏せた今度の不良にも易々と逃げられてしまう。
だが、体のどこかに傷を負ったらしく、逃げ出した不良の動きは目に見えるように鈍くなっていた。再度飛びかかれば、今度こそ確実に仕留められそうな弱り具合である。そう思って脚を屈めた刹那、生徒たちの慟哭が耳を突いた。わずかな動揺と逡巡のうちに、手負いの不良は空高くへと飛び上がってしまっていた。
口惜しく思いながらも悲鳴の先を見遣ると、いつの間に回りこんだのだろうか。先生と交戦していた不良の別働隊と思しき集団が、惨たらしくも生徒たちを蹂躙しているではないか。
『先生助けてー!』
『うわーん!』
先生は、ようやく感づいた。不良どもの真の狙いは自分ではなく、生徒たちのほうだったのだ、と。
『やめろー! 俺の生徒たちに何をするー!』
『うっせぇクソ先公! 食い物にしてやってんだよ! お前だって同じ事やってんじゃねえか!』
『お前らなんかと一緒にするなー!』
朝の住宅地にはてんで迷惑な、かまびすしい鳴き声での応酬がしばし続いた。
がなるだけしか能のない不良の詭弁に過ぎないが、確かにその通りではあった。とはいえ、町に雪崩れ込んだならず者に根こそぎ略奪されるよりは、一人分の報酬を工面して用心棒を雇ったほうが数段ましである。
先生と生徒は、双方の利害のベクトルの一致にのみに基づいた、意外とドライな関係だったのだ。
先生は大事な食い物、もとい生徒たちを守り抜くために、生徒たちのもとへと一目散に駆け出した。だが、案の定、その行く手を不良たちに遮られてしまう。おまけに退路まで絶たれ、大勢の不良たちに全方位を完全に取り囲まれる形となってしまった。
こうなってしまえば、もう打つ手はなかった。多勢に無勢とはまさにこのこと。不良たちは、自身の連なりで形成された黒い輪をじりじりとすぼめていく。もはや、一巻の終わりかと思われた。
しかし、先生は諦めなかった。この絶体絶命の劣勢状況の中で、唯一の活路を強行突破に見出したのだ。いわば、身を挺した捨て身の攻撃である。挟撃の暴雨の降り荒ぶ中を怯むことなく、勇猛果敢に駆け抜けていく。満身創痍になりながらも立ち止まることなく、悲壮にも敵陣を真っ直ぐ突き進んでいく。その姿には、きっと誰もが心を打ち震わせたことだろう。
ただしそれは、先生の進行方向が今と逆だったらの話だった。
『先生? どこ行くんですか先生!』
『先生ー! 俺たちを見捨てないでー!』
先生は生徒たちのもとへ向かったのではなかった。それとは真逆の方向へ、脇目も振らずに全力疾走していたのだ。
とどのつまり、先生は敗走した。
『ハハハ、見ろよ! 先公が尻尾を巻いて逃げていくぜ!』
『うるせー! 尻尾を巻く暇なんてあるかよ! 不良ども、お前らそのうち一人残らず食ってやるから覚えておきやがれー!』
度重なる追撃からの必死の逃走劇の中で、先生は最後に、自分が何でも食べる雑食性であることをカミングアウトした。
先生の尻と負け惜しみを肴に、不良たちは早々と、戦果として勝ち取った勝利の美酒に酔いしれる。無論それは、文字通り生徒たちが身を粉にして出来上がったものである。
かくして、生徒の支配権を巡る仇敵同士の交代劇は、一瞬の攻防の後に、嵐のように過ぎ去っていったのだった。
場の興奮も徐々に治まり、烏たちが一心になって生ゴミをついばみ始めた頃合を見計らって、僕は再びゴミ出し場へと踵を返した。それも、できる限り足音を忍ばせ、息を殺し、烏たちを驚かしたりすることのないように最善の注意を払いながらだ。僕は、猫も好きだが烏も好きだ。野良猫先生の敵討ちなどという無粋な真似をするつもりなどは毛頭ない。弱肉強食のこの世界では、生きるも死ぬも己の力量に全てがかかっている。野良猫先生には悪いが、自己の才知を存分に活かした力によって成し得た勝利に対し、それを「卑怯だ」などと批判する権利は誰にもないのだ。罵るどころか、礼賛して然るべきこの上ない功績に違いなかった。もしも叶うのならば、彼らに向かってねぎらいの言葉を掛けたいほどであるし、事実その意図を以て彼らに接近した次第であった。
ところが、そんな期待とはてんで裏腹に、こちらが足をゴミ出し場のテリトリーに一歩踏み入れたのと同時に、烏たちは一匹残らず連れ立って飛び上がってしまった。それも、満腹になって満ち足りた上でのお開きではないということは、近所の屋根に陣取ったまま恨みがましそうにこちらを見つめる烏たちの様子から嫌というくらいに分かった。こちらに攻撃意思は更々ない。それにも拘わらず、烏たちは一様にこちらを脅威と認識し、一介の逡巡すら挟まずに我先と逃げ去っていく。
こんなとき、「ああ、やっぱり生物界の覇者は人間なんだな」と、痛感せずにはいられなかった。それと同時に、自分が人間であるということをこれ以上なく厭わしく思った。人間という存在の傲慢さは、全く以て甚だしかった。我らこそが世界の中心だと厚顔にのさばり、その他一切の動植物を自らの占有物だとそしった結果がこれだ。人間の活動の邪魔になるからと、生息数を調整して自然を美しい状態に保つのだと、このまま生かしておくほうがかわいそうだのともっともらしい理由を並べ、駆除や処分と体裁を和らげた虐殺を幾度となく繰り返す。この烏のような野性動物は、人間の姿を見るなり――もしそれが害意を知らない幼子のものであったとしても――迷わず逃げ出すだろう。そんな彼らの警戒心を解き、心を通わせるのはもはや至難の業である。餌を使うことで親交を築く足掛かりを作ることも可能といえば可能だが、それでも不信感を抱くものはいるだろうし、そもそも、路傍での偶然の邂逅に適した餌を常に携行しろというのはいささか難である。
先駆者のしわ寄せを食らうのは、いかなるときでも人類の系譜図でいう底辺者なのだ。……丁度僕のような。
「はぁ……あれ?」
憂鬱に顔を俯けた先に、一際目を奪うねずみ色の一塊があった。露出部分から推測するに、その大きさはかなりのものだ。もちろん、ゴミ出し場のルールに則り雑多なゴミ袋の中にあるだけなのだが、その配置に興味をそそられる。一見無造作に詰め込まれただけに見えるそれは、実は綿密な計算に基づいたものに相違なかった。何かを新聞紙でくるんだような一塊がゴミ袋の核を成すように位置し、その表面を取り巻くようにして他のゴミ、それも全て不透明なものが隙間なく張り付いている。視線は尽く遮断され、外側からは内部に埋もれたその存在を伺い知ることは不可能だった。無論、順当に事が運べば誰からも気付かれることはなかっただろう。どこをどう見ても、隠蔽の構えだった。だが、烏たちがゴミ袋の結び目をほどき、何を思ったのか上部を覆っていたゴミをくわえて放り出してくれていたものだから、憂いで顔を下げた際の視線がたまたまひょっこりと顔を出したその塊とぶつかったのだ。
陰鬱な気分がぱっと晴れ、思わず唇の端を大きく吊り上げた。とっさに、こんな姿を人に見られては問答無用で一一〇番だと思い至り、どうにかして高揚を押し殺す。しかし、今日の自分は実についている。
これは、いわゆるお楽しみ箱だ。いや、新聞紙で包んであるのだから、お楽しみ包みといったところか。どちらにせよ、面白いゴミを見つけたことに違いなかった。ゴミというのは、使い道がなくなって捨てられるものだ。言い換えれば、その果てを自己の存在抹消のみに限定されたものである。つまりは、当人にとって不都合な品は全てゴミとして貶められるのだ。一度ゴミとして出してしまえば、わざわざ後から分別を施さない限り通常は誰の目にも触れることはなくなる。この一帯は治安もよく、燃えるゴミの中身をまさぐる人物など、見たことも聞いたこともない。せいぜいが、空き缶を袋ごと自転車にくくり付けて持ち去っていくおじさんを目にしたぐらいだ。僕にしたって、普段は外側からの観察のみに押しとどめているのだ。ただ単にゴミとして出すだけでは物足らず、ゴミ袋に入れる際にも人目につかないようにするといった隠蔽に次ぐ隠蔽を施すほどの秘匿事項に、手を出すことが許されるだろうか(それを言い分にして、逆に外から丸見えの物についてはいくらなめるように見入ったところでそれは元の持ち主の自己責任だと開き直っているのが今現在の自分である。なので、僕は決して変質者などではない)。他人がそこまでして隠したがっているものを袋の内側から引きずり出すような野暮な真似は一度たりともしたことがない。それだから例のスナック菓子も、ゴミ袋表面に現れた一部のパッケージデザインだけを頼りに歩き回ったわけで、地方限定の何味かなんてことは知る由もなかったのだ。
詰まるところ、このようなお楽しみ箱を実際に目にしたのは、今回がお初だった。
ここで普段の僕ならば、墓荒らしのような真似はするまいとして、白日の下にさらされたそれを再度、暗澹たる暗がりに沈めこんだことだろう。だが、今の自分はすこぶる気が立っていた。猫にも烏にも逃げられたことで、甚だ腹立たしかった。更に、このような醜い憤怒の感情が人間性来の貪欲――何もかもが自分の思い通りにならないと気が済まない驕慢さから来るのだと思い至り、自分は所詮、他の生物からみればその人間の一人なのだということを悟れば、尚更居た堪れなかった。
だから、魔が差した。
あろうことか、僕はそのお楽しみ箱を見捨てておくことが我慢ならず、その中身の全貌を明らかにせんと、周りに覆い被さったゴミを自らの手で取り除き始めていたのだ。
袋から取り出して直接手に取ることをしないのは、単に後始末の面倒を回避するためだけであって、それはせめてもの敬虔でも何でもなかった。上部に残された小さなゴミを脇へと払いのけると同時にバリケードを築き、人間の頭部で言うならば頭角に当たる部分のみを露にする。これならば、上空から覗き込まれでもしない限り、傍目からは一見何の変哲もない細々としたゴミの山をあさっているようにしか映らないだろう。
菓子類の空き包装や、紙ゴミや資源ゴミにもならない名刺サイズ以下の紙切れや布切れ。元々は完全な形をしていた衣類を、明らかに意図的に切った細切れさえある(古着は資源ゴミだというのに!)。下には新聞紙の海が広がっており、その切れ目を巧みに引きずり出すと、音を立てず、破れないようにして一枚一枚を身長にめくっていく。新聞紙の下に新聞紙、そのまた下にも新聞紙と、まるで玉ねぎの皮をむいているような心地だ(一人の身勝手で犠牲になった紙ゴミの重さが目に染みる)。だが、玉ねぎとは違い中に新聞紙以外の何物かが眠っているということは、指の感覚がしかと保証していた。ここまで念入りに包装するまでして封印したい存在なのかと思えば、いよいよ好奇心はとどまることを知らなかった。
勘違いしないでもらいたいが、僕は中身そのものが見たいわけではない。そこに宿った人間の心底、深淵を知りたいだけなのだ。ましてや、それを吹聴するでも、弱みを握ったとして脅迫に走るわけでもない。かくも隠蔽され、ゴミとして捨てられるまでに至らしめられた欲望の残骸を、胴欲な人間の醜悪の象徴として心に刻み付けたかっただけなのだ。お茶の間に放送されたテレビ番組を録画することと同じである。その使用用途が本人の悦楽のみに制限され、譲渡等の他者への不正な利益を発生させる行為を伴わない限りは、既に公衆の面前へとさらされたその一部をいくら切り取って自分の糧としようが、一向に構わないのだ。
プライバシーの侵害というのなら、お前たちが普段やっていることは何だ? あの親は自分の子供をあげつらわんがために何か欠点でも掴もうと絶えず机の引き出しや通学鞄の中身を物色し、学校の連中は揃いも揃ってあたかもそれが真っ当な権限であるかのように、常日頃から他者の所有物の縦覧を日課にしている。教師にしたって、そんな連中と僕とを一緒くたにし、非行防止を掲げた上での無許可な荷物検査を正当化しているのだ。そんな風に他人のプライバシーを踏みにじることを意にも介さないゴミどもが、自分たちのプライバシーだけは守られて当然だという都合の良いことをほざいてくれるなよ!
さあ、この中身の正体は何だ? この過剰包装の先には何がある? 単に忘れたい思い出である過去の羞恥を発起させる品か? それとも、子供染みたいたずらが生んだ成れの果てか? 何なら、大量の血が付着した衣類でも凶器でも、いっそのこと人間のパーツでも何でも構わない。早く、その醜行を抹消せんと目論んだ痕跡を僕に見せてみろ!
激昂のままに幾重もの新聞紙をまくり上げた先に、ついに指先はそれら以外の何かの感触を掴み取った。
それは、漆黒に塗られた小サイズの不透明ポリ袋だった。それも、これまた何重にもして中身を包み込んでいるらしく、外側からの手触りではその判別は困難だった。大まかに分かることといえば、弾力を持たず、丸みを帯びた固形物であるということぐらいだ。しかも、その大きさも野球ボール程度ではなく、新聞紙の分を差し引いた後でも依然としてかなりの体積を保有している
僕は、この条件に該当する物質の知識を持たなかった。
「ここまでやっておきながらまたコレか。捨て主のねちっこさが窺えるよ、まったく」
溜め息をつきながら、これからどうしようかと思い悩んだ。新たに目の前に出現したそれは、心に重くのしかかってくるような真っ黒な色をしており、どことなく、無言の拒絶を訴えているようにも感じる。事実、その不気味な圧力に気圧されている自分がいた。
もう十分だろうと、そうも思った。もし、今この瞬間に誰かがこのゴミ出し場を通りかかり、こちらに怪訝な目つきでも向けようならば、僕は今すぐにでも全てをなかったことにしてここから逃げ去ったに違いない。もちろん、ゴミの様態は元通りに戻しておく。不透明なゴミ袋を衆目にさらしたままでは、誰かが不審に思って中身を検めるかもしれないからだ。万が一にもその中身が俗物の好奇に辱められるようなことがあっては、僕はとんでもない大罪を犯すことになってしまう。
だが、幸か不幸か、僕を咎める者は誰一人としていなかった。規則上ゴミを出すには既に遅い時間帯なのだ。近くを通り過ぎていく人もいることにはいるが、連日痛ましい報道が流れるこの世の中である。変質者には関わるまいと一様に無視を努め、一瞥もくれずに早足で去って行く人がほとんどだった。とはいえ、厄介ごとには関わらずとも、異常者をそうと見なして貶めたがるのが人の常である。『ねえ、からかってみる? ゴミ投げてくるかもー!』『一生そこにいろ! くせーんだよ!』などの凡庸な雑言だけは体中に浴び、それらが質量を持っていると仮定すれば、この場のゴミの量などは優に超えていた。もっとも、絶え間なく湧き上がる今の好奇心を前に、そんな空っぽの野次が響くほどの心の空洞はどこにも生まれなかった。
あの能無し連中のように、人間は元来醜い動物なのだ。そしてこの僕も、そんな彼らと同じ人間であることから逃れることはできない。そのようにはしたない生物であるがゆえに、欲が理性や自制心に勝るのは仕方のないことだと、自分の良心にそう言い訳を聞かせながら、僕はとうとう黒のポリ袋に手をかけた。
はやるあまり力ずくで袋を引き裂くような乱暴はせず、見つからなければわざわざ袋の上下を入れ替えるまでして結び目を探し、固く締められたそれを丁寧にほどいていく。一連の動作を三度ほど繰り返すと、もはやその必要もなくなった。ついに、何物にも覆われることのない中身の正体が明らかになったのだった。
それは、よく見慣れたものではあるが、全く見たことのないものだった。同時に、他人のゴミ――その人が闇に葬らんとした忌々しい存在を興味本位で掘り起こすなどという浅はかな行為をした僕への戒めとしては、それは十分過ぎるほどの効力を持っていた。
袋の中身の正体、それは静物だった。いや、厳密に定義すれば、静物と化した物だった。
眼下に晒し出されたそれは、かつては誰もが愛くるしさを覚えずにはいられなかったであろうその姿を見る影もなく塗り潰された、蹂躙の果ての残骸。
誰もがよく見知った小動物の、成れの果ての惨殺体だった。
怒りよりも恐怖よりも、まず先に襲ってきたのは悔恨だった。なぜ、もっと早く気付けなかった? なぜ、この異様な臭いが分からなかった? 普段通りのゴミの腐臭と、この異臭とを同一視していた? すなわち、その発生源すらも……
――懺悔をいくらしても足りるわけがない――
その瞳の色は窺い知ることができず、見覚えのない白い膜によって完全に閉ざされていた。自らの意思で固く閉ざすこともある厚いまぶたと比べて弱くて脆そうなそれは、せめて光だけでも透かしてやろうという情けでも何でもなく、むしろ、「これっぽっちで充分、本気になってやったわけではない」という、己の能力の余剰分こそを誇示するような、稚拙で歪んだ虚栄心を思わせる。視界の剥奪はいわば、もはやそれを使う必要がないのだと、お前は世界の情報を集める必要がない、既に世界から切り離された存在なのだということの暗示であるかのようだった。
毛は、柔らかかった。だが、その根本の肉は硬くて冷たく、まるで石ころから毛が生えてきているかのようである。強く押してみたところで、その指を包み込んでくるはずの弾力などは微塵たりとも残っておらず、これ以上力を入れれば何かを壊してしまいかねないという程度にまで圧迫しても、その指は沈み込むことをしなかった。
今になって思うことは、仮にこれが人間のパーツだったならば、どんなに気が楽だっただろうかということだった。人間は元からゴミである。悪態を撒き散らしながら歩く様などは、まさにそう呼ぶにふさわしい。ゴミがゴミ集積場にあったところで、あるべき物があるべき場所に置かれていたところで、一体どのような感慨が沸き起ころうというのだろうか。
だが、このような小動物であったとなれば、まるで違う。彼らは、無垢なる生き物だ。僕は、彼らの悪意を浴びたためしなど、一度たりとも覚えがない。何らかの害を与えられることこそあれど、そこに人間のような無意義な害意の介さないことは、火を見るよりも明らかである。
それなのに、不合理な害心の下へと引きずられ、そして――
『俺、ナイフで猫刺し殺したことあるんだぜ~』
ふと、いつかの休み時間にクラスの連中が交わしていた会話が耳に甦る。
『俺だって、ハトの一、二匹くらいなら……』
日常の一小間から漏れ出ただけの、何気ない語らいの一群、その中の一台詞。事も無げな声つきの裏では、得意げな表情がわざと印象づけるようにして、しきりに顔を覗かせている。
『だったら、俺なんかは……』
もう、充分だ。見栄を張るための嘘八百だというのなら、一体それは何の見栄だ? 僕は、刺激の快楽に染まった連中とは違い、惨事に心を躍らせるような卑俗な嗜好など、全く以てこれっぽっちたりとも持ち合わせてなんかいやしない!
僕は再度、初めからそうしてあったように、中身の詰まったままの黒ポリ袋の口を固く締めた。新聞紙で元通りに包んだ上から、開封の際に隅に寄せた他のゴミを満遍なく敷き詰め直し、その内なる黒い肌が白日の光に焦がされることのないよう、表面積の一平方センチメートルたりとも余すところなく全てを覆い尽くした。最後に、それら全ての内容物を取りまとめる半透明の大きなポリ袋の上両端をつまみ上げ、紐状に伸ばして二回ほど交差させる。
後はただ、純粋に締め上げるだけでよかった。
互いに食い込む二本の腕が、キリキリと悲鳴を上げる。結び目をちぎれさせまいとしてそれらを放した僕の手は何だか物足りなさそうで、その感触が費えることはなかった。
袋の口を縛り上げた瞬間に、そこに内包された全てのものは、その主体性を失う。個別の事情を有したはずのもろもろは一様にその名を失い、ゴミの一部と成り果てる。僕は、そこから脱却せんとした物たちを、再び叩き落としたのだ。
何はともあれ、僕はこのゴミの状態を、元々の形に巻き戻した。もちろん、こんな小細工をしたところで、先の僕の行為がなかったことになるなどとは、微塵たりとも考えてはいない。
だが、少なくとも、視界からは亡き者にすることができた。
『ほらっ! そっちに行かないの!』
たわいもない歩行者の漫談が、耳の奥でいやに反響する。
作業に没頭している間は何とも感じなかったのが、手持ち無沙汰になった途端に、周囲の視線がやけに気になり始めた。
よくよく考えれば、自分は不審者だ。それにつけても、今回は不自然な行動を取り過ぎた。一つのゴミ袋だけを念入りに、上気して中身に手を突っ込むまでして執拗にあさっていたのだ。そこに犯罪の臭いを嗅ぎ取られたとしても、何ら不思議ではない。そうでなくても、普段の紳士的なゴミのあさり方を知る人からして見たら、殺伐とした雰囲気すら醸し出していた今日の挙動に何らかの異常事態を見出すかもしれない。
もし、そんな連中にこのゴミ袋の中身を検められたら? 今しがたやっとこさ封印したばかりのあの存在が、衆目に晒されるようなことになれば?
疑われるのは自分だ。
それだと筋道が通らないので、さすがに犯人は別の人物だと思い至る奴も中にはいるだろう。だが、よしんばそうであったとしても、このことを誰にも知ってもらいたくないという気持ちに変わりはなかった。当然のことながら、自分のみが知る秘密事項だとかいう効果を勝手に貼り付けて、それを鼻にかけて密かな優越感に浸りたいがためなどという目的では更々ない。
何遍も言うように、僕は、たった一人の例外を除いた人間全てがゴミだという現実を、この身でしかと味わってきた。辛酸をなめるどころか、体中にすり込まされて生きてきた。世の中はゴミで溢れ返っている。そんな奴らにとって、誰かをなぶって面白がるというお定まりの行動パターンは、もはや生理現象だ。
いくら世界から切り離された後のこととはいえ、そんな連中からの視線を一身に浴びることは、耐え難い苦痛でしかないのではないだろうか。怖いもの、珍しいもの見たさの興味や好奇に彩られた、うわべだけ体裁振った哀惜の念なんかを、誰が好き好んで受け取ったりするだろうか。純然たる追悼の意を抱けないような奴が、無垢なる魂を見送る権利があるなどというてんで身の程知らずな暴論を振りかざすようなことがあっては堪ったものではない。
ゴミ共の辱めを誘引するような真似だけは、何としても避けたかった。
苦肉の策として、僕は、近くにあった別のゴミ袋にも手を伸ばし、結び目をほどいて先程と同様にあさり始めた。ゴミ袋に集まる注目を分散させるカムフラージュ目的とは別に、手を動かすことで気の動転を紛らわす狙いもあり、どちらかといえば後者のほうに重点を置いた行動だった。
上の空にゴミの中身を指先で転がしながら、これからどうするかを考えた。まず、こんなことをする奴は間違いなくゴミだ。どこをどう考えたところで、許されていいはずがない。
極論すれば、ここにはそいつがいるべきだ。
だが、どうやってそいつを捜し出す? 手始めに、記憶の浅い部分を探ってみる。醜い欲心に駆られてこじ開けたときと、罪責を免れんがためにしまい込んだとき。その時に見たゴミ群の中に、何か元の持ち主のヒントになるようなものがなかったか?
……駄目だ。男物とも女物ともとれる衣類の端や、目新しくもないお菓子の大量の空き箱や空き袋。どれもこれもありきたりな物ばかりで、素人の見た目判断程度では、捨て主の特定に繋がりそうもない。
かといって、今一度結び目を解いてまじまじと調べてみようなどといえば、今度こそ本当にアウトだ。一つの袋にそこまで固執することは、周囲の関心を自らその一点に呼び寄せてしまうことに他ならない。得られる収穫も不確かな上で、そこに生じるリスクは割に合わない。
思考は、あっという間にどん詰まりに陥った。手ばかりが人事のように動き続け、ゴミの山を無意味に延々と混ぜ返している。
馥郁たる香りは、得体の知れない異臭と化す。色つきの悪臭が肺を満たし、全身の血流を支配する。脳にはびこり這いずり回り、正常な思考力をむしばんでいく。
考えがまとまらない。形を成しかけた打開策が、総身に絡まる腐臭によって根こそぎむしり取られていく。僕は、未来永劫この臭気に取りつかれたままなのだろうか。愚かな罪科の戒めとして、生涯に渡ってがんじがらめに巻きつかれたまま生きる羽目になるのだろうか。
この付き物は、いつになったら落ちてくれるのだろうか――?
(臭いを、……落とす?)
ふと、いつかの出来事が頭をよぎった。とある中年女性の発していた、鼻の粘膜がただれてしまうのではと思わんばかりのつんとした刺激臭。こういう人のせいで、香水のイメージが悪くなるのだという事実を再認識するに至った経緯の一端。
その時に僕は、その女性の後ろ姿から伸びる、有色かつ無形の一本の帯を目にしたのだ。まるで、塗りたくった余分な絵の具が空気中へと滲んでいくかのように、その女性の通った後の道筋上の空気には、一目見てその境界線がはっきりと分かるほどの着色がなされている。女性から離れるごとに薄くなってはいるものの、はるか後方から発生源の体表に至るまで、それは途切れることなく一続きになっていた。
幻視だと罵るならば、これは嗅覚に誘発された幻覚だ。尾を引いた強烈な残り香が脳によって視覚へと変換され、その軌跡を露呈する結果をもたらしたに相違なかった。
(もしかしたら……)
例のゴミ袋に鼻を近づけた後、即座にゴミ捨て場から飛び出した。無論、今しがたまでカムフラージュとしていじっていたゴミ袋を元通り結び直した上での行動である。
進行方向手前を向く通行人の視線が霧吹きで放ったようにこちらに向かって拡散するのも意に介さず、しきりに頭を振って左右の景色を見比べる。薄ぼんやりとではあるが、目の前の空気中を一条、別の色に染まった糸が泳いでいる姿をこの目ではっきりと捉える事ができた。間違いなく、このゴミ袋の臭いと同一のものだろう。
ゴミとして隠滅されかけた罪証、その存在の証たる臭いが異色の帯となって残り、それと同時に、真性のゴミである犯罪者の軌跡すらも浮き彫りにしてしまったのだ。
(犬のようにこの臭いをたどっていけば、犯人の居場所が分かるかもしれない……)
できないはずがない。僕はこの道のプロだ。毎日どのくらいの密度で以て、ゴミと慣れ親しんできたと思っているんだ。それに、物事の痕跡は消せない。分からないのだとしたら、その存在を自ら無視するのと同じこと。
取るに足らない、消えても構わないものだと言っているのと同じだ。
(……そんなこと、させてなるものか!)
消えるものか。消させるものか、お前の罪を! お前自身はこの世から跡形もなく消えてくれたって一向に構わない。だが、お前が犯したこの罪だけは、誰にも暴かれることのないまま夢の島にすやすやと埋もれさせておくなんてことを断じて許してなるものか!
一旦例のゴミ袋の前へと戻り、深呼吸をした。この腐臭を忘れることのないように。体中に取り込むことで僕自身が彼と同化し、同質たる正当な代弁者、断罪者となるために。
大いにいきり立った僕は、臭いの糸の一端を鷲づかみにし、拳を縛り上げる。
「お前らのいうゴミとお前らというゴミ、本当に消えるべきなのはどっちかを分からせてやる!」
こうして僕は、出すべきゴミを取り違えた者への勧告を果たすため、生ゴミへの追走を開始したのだった。
結論、いや、紛れもない事実から言おう。人間は犬じゃない。そんな至極当然のことに気づくためだけに、一体どれほどの時間を要さなければならなかったというのか。何でも犬の嗅覚は、ヒトの百倍、千倍、いや、一億倍にまで上る種類もあるという。詰まる所、僕が馬鹿だった。実に愚かだった。
歩き始めてからものの数分と経たないうちに僕は、体の向きをくるりと反転させ、今来た道をそっくりそのまま引き返していた。
この場になってふと頭に浮かんできたのは、以前学校で見せられたことのある、受験合格生の後輩に向けた成功体験談のとある文面だった。『勉強時には、机に張り付かずに適度な運動を挟むとよい。一問間違えるごとに腕立て伏せ十回などと決めて取り組んだほうが緊張感も出るし、頭もすっきりしていい気分転換になる』だったか。なるほど、確かにその通りだ。足が動けば脳も働く。見慣れた道のりを歩くにつれて、頭がようやく冷静さを取り戻してきた次第だった。
人間、追い詰められると理性を失うというが、ほんの少し前の自分がまさにそれだった。落ち着いて考えれば、警察に連絡するだけでよかったのだ。自己の保身よりも、優先すべきは罪人への裁きである。日本には動物愛護法(正しくは、動物の愛護及び管理に関する法律)というものがあり、テレビのニュースなどでも度々動物虐待が話題に挙がっている。それに今回の場合、犯人の特定はこの上なく容易である。犯人である人物、そのありとあらゆる特性のコピーともいうべき大量の物証――ゴミが、あろうことか当の被害者と抱き合わせになっているのだから。警察がこんなことすら面倒だと言おうものならば、今頃一一〇番はもっと別の有意義な相談口に宛がわれていることだろう。
何ということはない。結局これが、最も確実かつ最速最善の方法だったのだ。それを僕は、愚かにも非生産的な個人プレイに走ったばかりか、挙句の果てに「臭いの紐」だの「空気に色がついている」だのとありもしない劇場チックな妄執に囚われて――何を期待していたのだろうか?
さして面白みもない現実から逸れた、非日常な出来事を望んでいた? もしそうなら僕は、今なお例のゴミ山の底に沈んでいる物言わぬ骸、描き手の嗜虐性そのものを被写体にとったキャンバスとでもいうべきその存在ですらをも、諸手を挙げた歓迎ものだと、願ってもやまないことだと思っていたとでもいうのだろうか。仮に、よしんば万が一にも、そんな自己本位の考えが事実だとしたら……
(……最低だ。僕は)
顔から火が出る心地といえども、その場で深く恥じ入って赤面するなどという、少なくとも今ここでこうして立ち尽くすことは許されるのだという前向きな感情では更々ない。いうなれば、眼窩や鼻孔より噴出したる灼熱の溶岩流により、蝋燭よろしく陽炎よろしくこの身が跡形もなく消え去ってくれやしまいかといった風の、過失を犯した己の存在を心底容赦し難い並びに肯定し得ない律儀な消滅願望とでもいったところだ。頭もすっかりホワイトアウト。何も考えていなかった、思慮が浅かったということをわざわざ喧伝するために真っ白に塗り潰され、敢えて整地された後でそこを土足で踏み荒らす悔恨の念のおかげでショックもひとしお、頭の中を埋め尽くしていた。
「消えるべきだろ、こんな奴……」
巣に逃げ帰るがごときとぼとぼとした足取りは重く、まるで犯人を見失った警察犬が、傍目にはただのミッシングドッグだと思わせるためにわざとそうしているかのよう。
面を上げることすら、もはや億劫だった。何かをし損じたという後ろ暗い気分のときには、誰とも顔を合わせたくなかった。モノクロームの石垣やコンクリート。僕なんかとまじまじ見つめ合ってくれるのは、色事などには興味がない、そんな無口で無愛想な方々で充分だった。ただ、こういうときは、ブロック塀に時折設けられている規則的な穴――何もない空隙が逆に目障りで仕方ない。あの、覗き目的以外に全く以て用途が見当たらない小さな三角形。誰とも目を合わせたくない一心で横に振り向いた先でこれが待ち構えていて、その上更に、穴越しに覗く誰かの視線とこちらの視線とがたまたまかち合ってしまいでもすれば……気まずい事この上ない。一声上げられれば、変態覗き魔ここに誕生だ。いや、しかし、道路の壁際を歩くのは常識人として当然のマナーであり、人様の迷惑も顧みずにど真ん中を陣取るほうがよっぽど横行で……ああ、でも、電線も嫌だ。雨が降った後には晴れているのにも拘わらず突然の水滴に見舞われるし、鳥のフンを被ったことだって一度や二度ではない。電線というものはおおかた建物の外郭に沿って張り巡らされるものであり、この場合建物の外郭と道路の端とは同義である。つまりは、仁義に則り隅っこを歩くことは電線の下という未確認落下物襲来の虞がある危険地帯に身を晒すことに他ならず、このような例からも、倫理道徳を念頭に置く僕のような善人、正直者が馬鹿を見る社会構造であることは自明の理であり……。
どうでもいいようなことを延々と思い巡らせ、何かについて深く考え込んでいる、没頭しているという建前を取ることで、外界の全てをシャットダウンする権利を得ようとした。周囲のどんな呼びかけやお咎めにも一切のリアクションを起こさず、俯いたままでただひたすらにこの町を闊歩する資格を有するのだと、縮こまって誇示し続けた。
そんな風に身構えて、自分だけを守り切ろうとしていたせいで、すぐには気付かなかった。
無関心を装った色に、わずかばかりの畏怖と溢れんばかりの侮蔑とがない交ぜになった人や車の流れ。のろのろと、付きまとうように速度を緩める車両や、直に突き刺さるような生々しい視線。そんな中、現在の状況ならば真っ先に気に留めて然るべき視覚情報への反応が一歩も二歩も遅れた。
異常を感じ取ったのは、まずは嗅覚だった。肺を真っ黒に染め上げんがごとく、たなびく黒煙。心なしか硫化水素にも似たそんな排ガスのガソリン臭さの中に、それとは違う別の臭いが不意に鼻を突いたのだ。多種多様な臭いが所狭しとひしめき合ってはいるものの、不思議と突出した部分はなく、奇妙な連帯感を醸し出した独特の腐臭。いやに嗅ぎ慣れた、生活感漂う悪臭の不愉快さに顔をしかめたのもほんの束の間。次の瞬間には、急激に時計の針を巻き戻して、全身の感覚を遡らせていた。
(……さっきの車、やけに遅くなかったか? 二台通らないとはいえ、道の両端に人がいても車両一台分が優に通るスペースはあるっていうのに……)
違う。重要なのはそこじゃない。よく思い出せ。つい今しがた横を通り過ぎた車両の走行音や圧迫感は、普通車と比べて明らかに大型のそれだった。それだけならまだしも、走り去った際にだだ漏らしにしていったこの臭気を発するものはあれを除いて心当たりがなく、更にいえば……
人が、立っていたのだ。テレビのワンシーンよろしく、片手だけで、車両側面に突き出た手すりらしきものにつかまった、単色の作業着らしきものを身に付けた男が。その男が車高分の高みから、車窓も何も隔てるもののない素っ裸な視線で以て、憮然としてこちらを見下ろしていたのだった。だが、それはテレビの中の虚構でも演出でもなく、もっと身近で、これまでも幾度となく目にしてきた光景で……。
ようようとして、顔を上げた。両目をいっぱいにかっ開いて、正面をしかと見据えた。
そこに飛び込んできたのは、他でもない“口”だった。前を行く、左折直前の車両の背面部に、ぱっくりと開けられた暗い穴。舌のようなものも、食べかけの噛み潰した汚物のようなものも見えた。
頭の中に、弾けるような感覚。いや、痛覚。
そういえばここに来るまでに、例の場所とは別のゴミ捨て場を横目に流したことがあった。犯罪の物証を自分の生活圏内からできるだけ遠ざけて処分するのは犯人として当然の心理であるので、行きがけの追跡時には格段気にも留めずに通り過ぎたのだった。
だが、現在進行形の全体的な物事の推移を憶測するのには、どこにでもあるありふれた町並を構成する一設備でしかないそれが、何よりも重要なファクターだった。
経験談、というよりは目撃談になるのだが、目と鼻の先の距離同士に設けられた、二箇所のゴミ捨て場。そんな条件下では、往々にしてゴミ収集に従事する作業員は横着になるのだ。助手席に戻ること、わずかな距離を歩くことすら面倒がって車両の外側にぶら下がり、背部のふたを閉めることでさえも怠り、目下咀嚼中の吐しゃ物――蹂躙済みの廃棄物という鼻にも目にも不衛生なそれを臆面もなくさらけ出しながら徐行する……そんな光景に、ダッシュボードに飲みかけのペットボトルを三本ほども乗っけながら全開にした窓からつまらなそうに肘をかけて身を乗り出す助手席の作業員の姿に、常日頃から幾度となくお目にかかったものだ。
以上の点を顧みるまでもない。答えは、初めから分かり切っていた。一目見るだけで、否が応にもそれと知られてしまうものなど、この世の中には腐るほどあるのだ。
あれは、今のは、回転板式のゴミ収集車に他ならなかった。
「……くさっ!」
道行く人々の誰かが、不快に顔を歪め、大仰な声を上げた。……今の「臭い」は、たった今横切って行った収集車に向けて放たれたものですよね? 心なしかこちらを振り向いた気がしたのは、単なる気のせいですよね? きっとそうですよね?
頭で考えるより先に、体が動いていた、走り出していたといったようなことが、創作物ではままある。だが、体は夏の日差しに熱されたアスファルトの上でへばりつくようにして微動だにせず、そんな衝動など、どこにも湧き上がってはこなかった。
なぜなら、臆病だから。不特定多数の好奇が織り成す害意の恐ろしさを、嫌というほど身に染みて味わっているから。だって考えてもみてくれ。往来の真ん中で何の前触れもなく走り出すような奴なんて、その手に刃物でも握られていやしないかを真っ先に疑って然るべき存在ではないか。
そんな風だから、車が角の向こうに完全に姿を消した後だって、一歩も動けなかった。タイヤの走行音が途絶えて、それとは別のいびつな作動音――しばしば何かがひしゃげたような雑音混じりの機械音が辺り一帯の空気を震撼させるようになってからでさえ、一動たりともできなかった。
このまま何もしなければ、一連の出来事に全て目をつむってやり過ごせば――要は逃げ出してしまえば、一切合切を知らぬ存ぜぬで通せるかもしれない。自分以外の良識ある誰かがあの袋の中身に気付いて、自分なんかよりもよっぽど手際よく善処してくれる可能性だって大いにあり得るのではないか。
そもそも、今のは全て幻覚だったという落とし方だって無きにしも非ずだ。そう思うに足る、合理的な理由ならある。本来ならばこの時間にはまだ、ゴミ収集車は到着していないはずなのだ。正しい地域ルールに則れば丁度今頃ではあるのだが、朝にルーズな住民との折り合いも兼ねてか、はたまた回収スケジュールに空きを持たせようとする、作業員側との利害の一致であるのか、とにかく、公式な取り決め時刻よりも随分後になってからやって来ることが、既にここら一帯の暗黙の了解として定着しているのだ。なので、今のが見間違いだったという説だって、あながち的外れでもない。全ては持ち前のマイナス思考、ネガティブさがなせる業なのだと、そう片付けることも十分に可能だった。
楽観的思考の奔流が頭の中を軽快に駆け巡り、悲観的なせせらぎなどというものを根こそぎ押し出していく。世の中の人はみんな良い人たちばかりだから、想定し得る最悪の事態など、万が一にも起こりようがないに決まっている、と。
……ああ、白々しい。孟子がほら吹きであるということなど、僕が何より誰よりも知っているというのに。お気楽思考の浸透具合が速いのは、単に中身がないからだ。
薬も何もやっていなければ、幻覚なんてそうそうお目にかかるものではない(もっとも学校の連中からは、『シンナーやってる』という事実無根の中傷を常日頃から受けているが)。これまでに展開された事象の一つ残らずは、紛れもなく現実である。ねずみ色をしたアスファルトの手前ど真ん中には、収集車から滴り落ちたと思しきクーラーの水がそこだけぽっかりと暗い染みを作り、今なお太陽光に撫で回されるかのようにして、生まれたてのその厚みある潤いの広がる様を存分に見せびらかしているというのに。
それでも足は地面から剥がれないのだ。先に待つ事実を知るのが怖いという風に、体は前に進むことをしないのだ。
(何でもいいから、誰かこの小心者の背中を突き飛ばして――)
「危ない危ない」
――頭で考えるより早く、足が動いていた。
今しがたの台詞周りで起こった事の次第を事細かに描写するとこうなる。先ほどの『危ない危ない』の発言主は、小さい子連れの若い女性である。その子供が、道の中心で固まってしまっている自分に無邪気に近づいて――要は通り過ぎようとしていただけなのだが――来ていたところを、女性が小走りにやって来てすぐさま抱え上げたのだ。別段取り乱した様子もなく、『危ない危ない』と、字面には到底そぐわない平然さで独りごちながら。
何かを警戒するように、しきりにこちらを伺う素振りも一緒に。
今にして思えば、特に何かをするわけでもなく道端で直立不動の体勢を取り続けるような奴だって、立派な不審者だ。しかし、鉄板の焦げつきを思わせるほどにびくともしなかった足がこんなにも呆気なく……まさか、こんな形で背中を押されることになろうとは。
いずれにせよ、きっかけはどうであれ一度ついた初速度を止める理由はどこにもない。若干早足気味だが、許容範囲の自然な足取りのままで、収集車の曲がって行った十字路の中央に躍り出る。車の消えて行った方向を振り向き、その目に飛び込んできたものは――
――例のゴミ捨て場の前で現在稼働中の回転板と、その傍らで黙々と作業を続ける二人の男の姿だった。既に半分ほど終えてしまった後らしく、巨獣の口腔を連想させるその開かれた空洞の中には、怒りを鎮めんと捧げられた供物――より如実に言い表すならば、放り込まれた生け贄とでも言うべきだろう。その残滓が、口内の至るところに生々しくこびりついている。それでいてなお作業員は手を休めることをせず、冷徹な機械のように、異常な儀式を執行し続ける。
今となっては恥も外聞も臆病も小心もない。このような事態に備え、念のために例のゴミ袋は奥のほうに隠してはいるものの、それもただの時間稼ぎに過ぎない。
こうなってしまった以上、事態は一刻を争う。だが……
「す、すみません……」
――全てかなぐり捨てるんじゃなかったのかと、自分を呪いたくなる。
何だかんだ言ったところで、ドラマなんかでよくやるように、「やめろー!」だのと声を張り上げて力の限り叫ぶなどという芸当を躊躇なくやってのけるほどに、羞恥心を完全に捨て去ることなどできやしないのだ。あれは、現実的でないにもほどがある。エンディングを迎えた時点で人生が終了する架空の人物ならいざ知らず、こちらは後にも先にも延々と続く残りの人生を控えた生身の人間だ。ふとした逸脱行動が切っても切れない経歴となり、未来永劫付きまとうこの身のことを考えてもみて欲しい。ただ一度の奇行だとしても、一時の恥であり、一生の恥にもなるのだ。
だが、そんなことをせずとも、他に取り得る手段はいくらでもある。だから、こうすることにした。普通の声量で呼びかけ、相手が注意を向けたところで次のように切り出すのだ。『すみません。うちの親が間違って、僕の大事なものを捨ててしまったみたいで……お仕事中申し訳ありませんが、探しても差しつかえないでしょうか……?』と。これが最も事を荒立てることなく、確実かつ最善の方法だと、そう確信して――そのはずだったのだが。
「すみません……あの、すみません、すみません……」
他事に関心を寄せず、無言で手を動かし続ける様はまさに資本社会の作業員の鑑……と、そんなことを言いたいわけではない。止まらないのだ、動きが。ゴミを取って投げ入れるという一挙一動が、何一つ変わらないのだ。もっと端的にいえば、無視されているのだ、完膚なきまでに。
「すみま、すみ、す……」
脳裏に浮かぶのは、学校での毎日。行事に関する意見の出し合いや授業中のレクリエーションなど、なぜか一人だけ発言権が回ってこない自分。運よく当てられたところで、どんな回答や発案にも変に解釈が与えられ、それは稚拙で面白みのない答弁となる。更にあろうことか、『だから当てる必要なんかなかった』のだと、集団による黙殺を正当化される。そんな理不尽な被差別の日々群が、津波のように押し寄せてくる。
今置かれている状況は、丸っきりそれと同じだ。
(また……この感覚だ……)
周りの物事が遠く感じ、不透明になっていくかのような、目の前に見えない壁が作られていく感覚。だが、それは世界の断絶などではない。出来上がるのは高い壁ではなく、上下左右を囲む透き通った檻、ちっぽけなガラスケースなのだ。世界の一角を新たに囲って作られた狭小な世界は、もはや世界と呼べる規模ではなく、ただのショーケースに過ぎない。光り輝く広大な世界を生きる人間たちは、それが内包するゲージの中の展示物もとい珍獣がうろたえている姿を、指を差して笑い飛ばすも興味なさげにそっぽを向くのも自由なのだ。
平素ならばここで心が折れ、言葉を継ぐ気力もすっかり消え失せていることだろう。
だが、学校のような閉鎖空間ならともかく、この場は晴れ渡った真夏の青空の下、照りつける太陽が森羅万象を分け隔てなく俯瞰する開かれた戸外である。風の流れが何物にも遮られず自由なように、人の流れも絶えず移り変わっているのだ。連日同じ顔ぶれと一日の大半を閉じ込められるがゆえに、今後の校内環境にも波及するかもしれないという虞があってこその抑制作用は意味を成さない。詰まるところ、気後れの必要など、ない。
「……すみません! 話を聞いて下さい!」
こうなったら破れかぶれだ。これで何か気に障って因縁をつけられるようなことにでもなれば、そのときには明後日の方向へ脇目も振らず駆け出せばいい。そうすれば二度と会うことはなく、今日のことを蒸し返されることもないだろう。
色々と取り払った捨て身の行動が功を奏したのか、作業員の一人が渋面を作りながらも渋々とこちらに目を向けた。息を吸うように大仰な舌打ちを一発かました後、凄みを利かせて次のように言う。
「さっきからうるせぇなぁ。夏休みだからって浮かれて仕事の邪魔してんじゃねぇぞ?」
苦虫を噛み潰したように睨みを利かせ、仕事の腰を折られた――散々無視を決め込んでくれたのはそちらだろうに――として、こちらを一方的になじり倒す姿勢をとるのだ。
だが、ここまでくればこちらの物。先ほどひらめいた台詞を、一言一句たがえることなく、そっくりそのまま口にする。
すると、思いも寄らぬ返事が飛び出してきたのだ。
「何を、なくしたんだ?」
「……え?」
今にして思えば、当然予想し得るさして特別でもない返事。だが、咄嗟のことに返す言葉もなく、返答に窮するばかりの間抜け面をした自分の姿が、そこにはあった。
「何をなくしたかって訊いてんだよ。こっちもあんまり時間を食うわけにもいかないし、一緒に探してやるから言ってみろ。もっとも、ここに残ってる分だけだがな」
「ええと、それはですね……」
――世の中には、息をするように嘘をつける人間がいるという。
目が宙を泳ぎ出したのが、自分でも分かった。何も言えないのは当然だ。なぜなら、実際にそれに該当するものがないから。我が家から出た家庭ゴミだと言い出した手前、「猫の死体です」などとは、死んでも口にできない。
こういうとき、後先なしに平気で嘘をつくことができる人種というのが、心底羨ましくて堪らない。仮に今ここででたらめを口にしたとして、万が一にもそれを本気にとられて無意味に手を煩わすようなことになっては、おまけにでまかせを吹いたことを気取られでもすれば……悪いのは自分だ。内的な罪悪感と外部からの叱責に挟まれてしまっては逃げ口などはありようもなく、回転板と押込板との連携によって荷箱へと積み込まれるゴミにすらこの身を例えるほどに、自己を肯定する術などというものを尽く失ってしまうのだ。
「お手数をおかけしてお仕事を滞らせるようなことがあってはいけませんし……手短に、袋ごと持って帰りますので……」
「そのくらい待ってやるから、ほら。言ってみろ」
……ぐうの音も出ない。
こうなることをあらかじめ見越していたかのように、心持ち落胆したような深い溜め息をついた後、幾分歳を食ったほうの作業員は、急に諭すような口調になった。そして……
「こう言っちゃ何だがね……ゴミっていうのは人に見られたくないものもたくさんあるわけで、それを勝手に見るのは一応犯罪みたいなもんなんだよ。世間の目も……親御さんの気持ちも考えて、そういうことにはもうちょこっと慎重になりな」
お門違いの説教を受けることになる。いや、あながち的外れでもないのだが、この差し迫った状況下にそぐう内容ではない。
「親なんて……」
何か言い返そうと――その一言目が親のことなのは別にして――したところで、今度はもう一人の若いほうが口を挟む。いや、そんな生易しいものではない。猛然と突っかかってきたといって、過言はなかった。ただし、その声は笑いで震えていたのだが。
「いい加減しつけーんだよ!」
口より先に腕が伸び、胸のあたり――心臓の上を強い力で突き飛ばされる。よろけながら後ずさるこちらを眺めるその双眸は、まるで安いおもちゃ――いくら壊したところで差しつかえのないもの――を見つけたときのように、爛々と輝き続けている。
「知ってるか? お前は有名人なんだよ。毎朝毎朝ゴミ捨て場でゴミをあさる、ゴミみたいな奴だってなあ! 苦情だって腐るほどあるんだよ!」
「おい、よさないか!」とは、小声で、歳を食ったほうの形だけのとりなしである。
若いほうは、先刻、路傍で悄然と歩を進めるこちらに対し、清掃車横から人を小馬鹿にしたような視線をくれて見下していた、あの男だった。
「ほら、分かったならとっとと帰った帰った。若いうちなら、まだやり直しが利くもんだぞ」
出し抜けにせせら笑ったかと思えば、自分本位にそそくさと話を切り上げるのも急なもので、その挙動は野放図な今どきの若者そのもの、身勝手極まりない。こちらの話は、まだ終わっていないというのに。
看過されては元も子もない。こうなれば捨て鉢だ。体面も何もなくして、全ての事実をこの口が吐き出す以外に道は残されていないだろう。後のことは、その都度取り繕っていけばいいだけだ。
「実は――」
心を決めて、全てを正直に白状しようとしたところで――
「あら? おはようございますー」
――ものの見事に出鼻をくじかれた。
近所の主婦であろう中年女性が、業務を再開しかけた作業員二人に対し、近隣住民の印とも言うべきにこやかな挨拶をかけてきたのだ。当然同一の視線上にいるはずのこちらには丸っきり目もくれず。
現代人のコミュニケーションとして取りとめもない話を交わした後、女性が何かに気付いたかのようにして、不思議そうに問い尋ねた。
「そういえば、今日はいつもより早くないかしら? 普段の回収時間はもっと遅かったですよね?」
――それは、かねてよりこちらの疑問でもあったのだ。
「それがですね、最近は苦情が多いんですよ。野良猫やら烏やら……」
ちらりとこちらを睥睨した後、何事もなかったかのように女性に向き直る。
「……まあ、ともかく近頃はよくゴミが荒らされて、景観やら臭いやらの苦情がとにかくすごいんですよ。それで、試験的にいつもより時間を早くしろとのことだったんですが……やっぱりこの時間じゃまだゴミの量が少ないですね」
「あら? 私は大賛成ですよ。できるだけ早く持って行ってくれたほうがその分大助かりだわ。第一、ゴミ出しの遅さは一人一人の意識の問題でしょ。最近の母親は昼近くになっても平気で持って来て、それでまだ持ってかれてないものだからますます調子に乗るのよ。昔だったらそのまま持って帰ってもらってるところだわ。それでぇ、夏場の臭いが酷くて、あの家ショウジョウバエなんか飼ってるのかしらって、おほほ……」
……完全に蚊帳の外だ。とても割り込んでいけるような空気ではない。
だからといってこのまま立ち去る訳にもいかず、地面に突き刺さるようにして棒立ちになったまま。会話の最中時折向けられる怪訝な目つきにも、何一つ反応できないままでいる。
「それはそうと、ねえ聞いて下さいよ。この前、ゴミ捨て場で変なもん見ちゃったんですよ」
声を潜めるようにして、女性は急に話題を変えた。そして――
「普通の紙袋だったんだけどね、そこにこう書いてあったのよ。『死んだ猫が入っています』って――」
――思いがけない話の流れに、どれだけ身を弾かれた心地であったかは、想像に難くないだろう。これを機に便乗して、こちらの本題を洗いざらいぶちまけてしまおうと、それは喉元まで出かかっていた。しかし、女性は自分の発言を中断することはなく、一息でまくし立てる。
「それ見て私本当びっくりしちゃって、もう警察にでも何でもとにかく連絡しなきゃ駄目かしらって本当取り乱しちゃったんだけど……それならわざわざ書いとくわけがないって思って、ちょっと調べてみたのよ。そしたら、あれって法律上何の問題もないんだってねえ。もう、二重の意味でびっくりしちゃったわよ」
……今、何と言った? この耳は耐用年数が切れて、いや、日々の罵詈雑言による経年劣化の影響で、とうに腐り落ちてしまったのではなかろうか。
(問題がないって、そんなことあるわけが――)
「ペットは一般廃棄物として、通常他のゴミと一緒に廃棄処分されますからね。その灰も、ゴミとまとめて地中行きです。本来なら庭に埋めるなり、ペット葬儀の業者に頼んでもらえたほうがいいのですが……マンションだったり、面倒くさがったりしますからね。それに、飼い主のいない野良猫だったりするとどうしようもありません。一年で千匹以上の野良猫を焼却処分する市さえあるのが現状です」
「ねー、ホント、残酷よねえ。何かもう想像するだけで胸が痛むって感じ」
――あるというのか? あんなことが――虐待の隠蔽でさえも、許されることだというのか。そんな当たり前のことをさも許されざるべき行いだと言って触れ回っている自分こそが、誰もが認める異端者、異常者――その存在自体を認めるべきではない、塵芥だとでもいうのだろうか?
そして、今気づいた。いつの間にか、集積されていたはずのゴミ袋が、一つ残らず消えているのだ。厳密に言い表すならば、最後の一袋だけはこの目の届く範囲にあった。ただし、それは若い作業員の手の中。空中、そしてテールゲート内部へと落ちていき、回転板によって奥のほうへと消えていく。消えていく。
自分でも、なぜそうしたのかは分からない。ただ、きっとそれはゴミを押し潰す盛大な破砕音、鳴り損ないのクラッカー音にも似たその不愉快な音の群れが、自分の中で聞こえた気がしたから。
僕は、飲み込まれゆくゴミ袋を引っ張り出さんと、テールゲート目がけて突貫していた。
「あああぁぁぁー!」
見ようによっては、後追いにも映ったかもしれない。
感じたのは、右肩に食い込むような強い痛み。聞こえたのは鋭い怒号。当然こんな異常行為が黙って見過ごされるはずもなく、乱暴に肩をつかまれ、地面に叩きつけるかのごとく凄まじい力で以て引き戻される。
「馬鹿野郎! 死にてぇのか、腐りてぇのか! ゴミみたく!」
勢い余って倒れかかったこちらの身を持ち上げるようにして強引に引き寄せ、激昂した風の中年作業員が真正面に顔を見据えて唾を飛ばす。
だが、もはやそんなものは耳に入ってこなかった。視線は、機械ならではの無感動で以て、今この瞬間にも着実にゴミを掻き込んでいく回転板に釘付けになっている。新型パッカー車のテールゲート内部は、色褪せやくすみ一つない予想外の清潔さで、黒々と光沢を放つ地本来の色をまざまざと見せつける。それはまるで、汚れているのは飽くまでゴミだけだとでもいうように、瑕疵を持たない光り輝くこの身には、問答無用でお前らのような世界に場違いの異物どもをむさぼり食らう資格が、正当に駆逐し尽くす市民の義務があるのだとでもいうように。上部に赤く輝く左右の制動灯は、あたかも矮小な獲物を眼下にした獰猛な肉食獣の、嗜虐を帯びた鋭い眼光のようにも映る。
そして、僕は……
「きゃっ!」
案の定の想定内。にわかに疾走するキレる十代を目の前に、善良な市民は甲高い悲鳴を上げる。
とはいえ、この場からの遁走を図ることには、もはや何の抵抗も抱かなかった。
耳には、今なおこびりついて、剥がれ落ちることのない音の団塊。ばきばきと、何かが壊れる音がする。何かがひしゃげる音がする。何かが砕ける音がする。何かが折れる音がする。
……いつも、こんな音を出していただろうか?
何も考えず、ただひたすらに走り抜けたといえば聞こえは良いが、ここは日本、狭い国の狭い町内の片隅である。十字路に差し掛かれば飛び出し事故防止のためにも減速せざるを得ないし、道の横幅を占領して一列横隊に並んだ若者集団が前を塞いでいれば、早足ではありながらも下手な刺激を与えないように決して追いつくことはせず、息を殺して後ろにつけたまま、都合のよい横道を見つけ出さなくてはならない。
だが、それでも、足を完全に止めてしまうことだけは勘弁したかった。後ろから、追いすがってくる何かがあるから。一度捕まれば、耐え難い罪責の念が、この身をむしばんで二度と放すことをしないだろうから。
この手は、何をした? 許し難い人の業を、結果的にでも、その片棒を担いだ。中身そのものが飲み込まれていく姿を直に目にしたわけではないが、逃れられたわけがない。
こんな人間が、存在していいはずがない。その認知には、断罪が付随する。できればこのまま誰にも見咎められることなく、いずれは感覚自体もあやふやなものとなり、身体すらも風圧に撒かれて散り散りになってしまえば、どんなに気が楽か。
しかし、いくら闇雲に走ってみたところで、造成に造成を重ねたやかましい住宅街に人目の絶える場所など残っておらず、いかなる所へ逃げ込もうにも、無秩序にそびえる協調性に欠けた人家という人家が、空を圧迫する無言の圧力そのもので以てこぞってこちらを見下ろし続ける。青空のもとの閉塞感。この世に安全な場所など、どこにもないのだ。視線の降水率が常に百パーセントを超える中、一度狙いを定められた獲物は逃げる術を持たない。仮に法なんてものがなければ、今頃毎日が狙撃のバーゲンセールだ。
とはいえ、さすがにそろそろ疲労のほうも芳しく、両足も意思への反逆を開始したのか、その脚力を次第に弱め、しきりに体力の限界を訴えている。それに、どんなに歩を速めたところで、執拗にまとわりつく妄執は依然としてその勢力を弱めてはくれないのだ。恐る恐ると速度を緩めても、心にのしかかる重圧、立ち込める暗雲はその程度に関して一向に変化の兆しを見せなかった。いや、苦しさという一点に集約すれば、むしろ全力疾走の折、しぶとく食い下がる幻影から逃れようと必死で距離を稼いでいた最中のほうが、よっぽど辛い事この上なかった。よもやこの期に及んで、魂の善悪よりも肉体の疲労優先などという刹那的な考えに囚われているとは思いたくもない。
だから、試しに止まってみたのだ。いずれにせよ、このまま無闇やたらに手足を振り回しているだけでは、心のみならずうつつの身までもが迷子になってしまい、流れ着いた先から一生戻って来られないかもしれない。
両脇を煤けたブロック塀に囲まれた狭い路地で、たたらを踏むようにして立ち止まり、無造作に左右を見やった。
次の瞬間、目を突かれた。
そんな感覚に、突如として襲われたのだ。気が付けば、ブロック塀の目線の位置に開けられた機能不明瞭の穴、扁平な他部分に対してそこだけデザイン上の変化がつけられたブロックの一個を偶然にも直視する恰好になってしまった片目を、収束した風が矢となり、突き刺さるかのように、貫いたかのように。あまつさえ、その暗がりの中へそそくさと引っ込んでいく、竹槍の幻影すら垣間見た気がした。
その空隙が奥にかくまう空間に、人の気配は、ない。狭まった視界の範囲で確認できるのは、庭木の間を縫うようにして覗く縁側の一部分のみ。だが、もしそこに家の人がフレームインをしてきたら? 視線と視線が、偶然にもかち合ってしまったら? 警察を呼ぶなどというまどろっこしい真似も、事前通告も何もなく、問答無用でこの眼球目がけて竹槍を飛ばしてくるかもしれない。正当防衛だと開き直られ、自業自得だと罵られるかもしれない。
言葉にならない呻きが、珍獣の喚き声が、静まり返った朝の住宅街にほのかな緊張をもたらす。
顔が火を吹いたとうそぶけば、火炎放射器を直に浴びせられるかもしれない。頭が真っ白になったと気取った表現を使いたがれば、消火器を吹きかけられて字面通りの目に遭わされるかもしれない。ショックで頭がいっぱいだと言おうものならば、その空になった消火器を真上に振りかざされて……。
一度生じた被害妄想は堰を切ったように止めどなく溢れ出し、二次災害を引き起こす。濁流が、防風林という理性のたがを根こそぎなぎ倒して破壊し尽くし、勢いを増した負の感情は幻覚の連鎖反応を次から次へと招いてやまない。
実際には、誰から被害を加えられたというわけでもないのに。住民たちはただ無関心に、己の生活をいそいそと営んでいるだけだというにも拘わらず、だ。
そして、気付いてしまった。知ってしまった。悟ってしまった。分かってしまった。一番逃げたかったのは、新たに芽生えた罪の意識などという偶発的な物なんかではなく、他ならぬ自分自身からだったのだということを。
だって、自分には何もないのだ。部活動も習い事もしていなければ、一緒に遊ぶ友達だって……つまり、人望や人を惹きつける魅力といったものが全く以て皆無だ。学校の成績が少しぐらい良かろうが、そんな地味なもので親や世間の大人たちの好評価が得られるはずもなく、「何もしていない」「何もない」というレッテルはどこに行ってもついて回って消えやしない。他者が向ける侮蔑に対抗するための、撥ね退けるだけのそういった自負心とも呼べる肯定感を、何一つ持ち合わせていないのだ。
だから、自分はゴミに傾倒した。いや、埋もれたかったのだ。ゴミという名は、誰もが認めるこの世の最底辺だ。そのゴミを絶えずすぐ傍に置くことによって、知ってか知らずか、妙な安心感を、言うなれば、歪んだ優越感を抱いていたとでもいおうか。なぜなら、この自分を指して「ゴミみたいな奴」だと罵られることはあっても、自分ではなくゴミを指して「お前みたいなゴミ」だと言われるようなことは、そんなことだけは絶対にないから。
つまりは、体のよいスケープゴート。ゴミのことを真剣に考えているようでいて、要は、ただの隠れみのとしてしか見ていなかったというわけだ。本当に大切なのは自分のみ。心の奥底では、他者が見る自分をそのままゴミに投影して、格下として見下していた。ゴミという名を冠した袋が包括した内容物、ただれたその身で罪の在りかを訴え続けた骸ですらも、見境なしに同一視してしまっていたのだ。それだから、自己保身にかまけて、他にもっといくらでも合理的な手段があったにも拘わらずわざとらしくぐずったせいで、本来ならば回避可能だったはずの最悪の結果をもたらしてしまった。
自他共に認める、最低の人間が、ここにいる。だが……
「……このままで、済ませるなんてさせるものか」
通路脇にうずくまり、黒く変色し尽くしたガムがへばりつくアスファルトに向かって恨みがこもった目つきを向けながら、何かを呪うようにして一人毒づく。
地の底まで落ちぶれた今の状況のまま、終わらせてしまう気など毛頭なかった。己を最低な悪辣人間だとすっかり自覚した上で、そんな自己像を甘んじて受け入れるほどに、これから先も一切の憂慮なく大手を振って表を歩く資格を損なわれることはないのだと無責任に思えるほどに、吹っ切れてはいないのだ。
名誉挽回のチャンスを求めているのか、地獄行きの伴侶を欲しているだけなのかは、自分でも判別がつかない。だが、犯罪者というのは善良風俗に穴を穿つだけの害虫である。断罪などという、驕った真似を企むつもりは更々ない。ただ、大罪を犯した咎人を非難囂々にして染め上げることだけは、この世の人間誰しもに等しく隔てなく分け与えられた資格であると、それはこんな自分にすら例外ではないと、そう信じたいから。
しかし、確実な物証は既に失せた。手がかりは、頭の中に残った映像としての記憶のみ。だが、それすらも急激に失われつつある。そもそも、ゴミの中核を成していた悪意のはけ口の末路を目にした時点で、頭の中は煮えたぎって、冷静な判断力をなくしていたのだ。今にして思えば、その前後は頭に血が上っていたらしく、その他のゴミの中身をろくに吟味も確認もしていなかった。おまけに、あまりにも多くの出来事が立て続けに起こったせいで、わずかに残った記憶ですらも霞がかったように、瞬く間に彩度や明度をなくしていく。
網膜には、確かに焼きついているのだ。消えがかった点滅は、警告ともとれる。犯人を推測するための証拠は間違いなくこの中に、この中だけに眠っているはずなのだが、画像はしきりにぼやけるばかりで、今や色と輪郭のみの粘土細工にも化している。
(くそっ! ……これなら! どうだ!)
道の片隅で膝を折り、自分の頭蓋を以てして太鼓のように打ち鳴らす危険人物が一人。拳を強く握り締め、突如として狂ったように、自身の頭を猛然と殴りにかかったのだ。
何も自暴自棄になったわけではない。ショック療法とでも言おうか、この振動を以て、何としても記憶の引き出しをこじ開けてやろうというわけだ。
その甲斐あってか、無骨な響音が頭を揺さぶり続ける中、実線を持たない雑然とした色の集合体が実写風の静止画へと、次第にその鮮明さを取り戻し始める。やがては、ロゴなど文字の類は分からないまでも、姿形からある程度の判別がつくまでに至っていた。
(何かあるだろ、何か! ゴミなんて、警察にとっては宝の山みたいなものなんだから!)
袋を開ける前の、外から眺めた全方向。秘匿物に到達せんと、掘り起こすようにあさった過程でしかと目にした一つ一つ。頭を叩く手を休めることなく、蘇りつつある記憶の海を、岸から岸へと、幾度となく泳ぎ渡る。
度重なる往復に思考力も疲弊し切った折、それを見つけたことは幸いか、それとも、不幸だったか。
「……あれ?」
おのずと極所に焦点が絞られた思考。それが映すのは、黄色をしたいびつな円形。よく見直してみると、それはキャラクター調のデザインでじゃがいもを模したものらしく、胴体に当たるであろう部分からは細い手足が伸び、見覚えのあるどこか人を小馬鹿にしたような顔が、こちらを見るでもなく明後日の方向を向いていた。だが、地元の商店などで散々見慣れたはずのそれが、どういうわけか馴染みのない物に感じるのもまた、抗いようのない事実であって……
「……目が、疲れてるんだよな」
目を閉じて、まぶたの上から眼球をぐりぐりと撫で回してみる。いや、それで何かが見えなくなるというわけではなく、というよりも元より肉眼は使っていないのだが。
何ということはない。単にそれは、背景色の違いが為せる業だったのだ。字面通りのじゃがいも顔回りの袋パッケージが基本色とするもの、それはこの辺りの店舗で置かれている種類の中では見ることのない、原色系の鮮やかな黄緑色をしていて……
ごまかしようのない動揺が、逆に脳を活性化させたのだろか。不意にピントが合ったように、潤いを湛えた染みが広がっていくように、脳内映像がより緻密なものへと、意思とは無関係の修正を開始する。あまつさえ、滲んだようにして判然としなかった商品名のロゴマークですらも、お節介にもその形を取り戻そうとしているではないか。
余計なことにも。
「やめろやめろやめろっ!」
俄然叫び出したかと思えば、頭を抱えて小さくしゃがみ込んでしまった、世間外れの珍獣がここに一匹。そしてあろうことか、自分の頭を再度殴打し出す始末。傍から窺う限り手加減も何もあったものではなく、その威力は先程の比ではない。
今度の衝撃は、こじ開けるためではない。壊したいがための衝動、凶行だった。たたみかけるようにして流れ込む記憶の奔流。頼みもしない画像処理に躍起になる脳髄。そういう有能ながらも無用の長物たちによる強行をどうにかして食い止めんと、できることなら永遠に復活することのないよう跡形もなく粉砕せしめんと、三つのいびつな球形は際限なしに衝突を繰り返す。だが、どんなに痛撃を浴びせたところで修復作業は一向に止まることを知らず、それどころか、叩けば叩くほどに頭の中はよりクリアなものへとなっていく。あたかも、ふるいを揺さぶるかのように。記憶を曖昧なものへと濁らせるもや状の夾雑物。網の目状と化した頭皮から、一打撃ごとにそれら余計なものがすり抜けていくかのように。
そして、霧は晴れた。脳裏に浮かび上がる文字群、その認識を拒むにも、誤るにも、遮られることにも、何一つ理由はなくなってしまった。
誰もがよく知るスナック菓子の、誰もが物珍しさを覚えてやまない地方限定味のパッケージが、そこにはあった。
記憶にある限りでは、この種類の味がこの地方で販売されたことは、ただの一度もなかったはず。
だが、自分はこれとそっくり同じ物を、つい最近にもお目にかかったことがあったのだ。
(世界って奴は、世間って奴は……)
視界の中央に、小さなひびが入る。瞬く間にそれは、今目にする空間という空間全面へと行き渡り、強化ガラスを割ったときのそれと同じように、跡形もなく粉々に砕け散っていく。
その先に広がるものが、何もない真っ暗闇だとしたらどんなに良かったことだろうか。
(どれだけ俺を貶めれば気が済むんだよ……)
だが、そうであってはくれないのだ。虚構に彩られた世界を己の意思で突き崩した今、その果てに待ち受ける何かと向き合う痛みは、あらかじめ覚悟しておくべきだったのだ。
たとえ、それが都合の悪いものであっても、認め難いものであったとしても。
破片の滝の向こう側、それは、影一つない純白の世界だった。だが、そこから浮き出るように、はみ出るようにして、どうあってもその白さへと還ることのできない人物が一人、静かに立ち尽くしている。開放的な挙動で笑顔を向けるその表情は、あたかも自身がその白さの一部であると確信しているかのよう。傍目には、自身が夾雑物として映っていることも知らずに。
浅ましさが普遍と化したこの社会で、僕が唯一認めた、害意の欠片も持たない好人物。
この世でただ一人、僕がゴミではなく人として接してきた女性の姿が、そこにはあった。
ここまで読み進めていただいた方、本当にありがとうございます。まことに、感謝に堪えません。
作品内に描かれた「色つきの臭いの帯」ですが、一応、実体験に基づいています。十中八九幻覚か思い込みだったのでしょうが、自宅近くですれ違った見知らぬ女性の方の遠ざかっていく背中から、紫とも茶色ともつかない一本の平べったいリボンのような線が女性の歩いた軌道上で宙に浮いてひらひらと風に揺れている様を確かに目撃した次第です。香水なり厚化粧なりに対する偏見及びそれがもたらした漫画的な「臭い」の記号(いわゆる、「ぷ~ん」というやつです)の想起だと言われればそれまでですが、自分にとっては今なお忘れられない不思議体験のひとつです。
次の投稿分でこの話も終わりとなります。是非とも、最後までお付き合いをよろしくお願いします。