其ノ二
お咲がおたかを連れて京橋南、北紺屋町の呉服問屋戸田屋に帰ると時刻はたそがれ時、帳場には兄の喜一が座っていて、手代頭の甚助と父の吉兵衛がいた。
「今日は少し遅かったんじゃないのかね」
吉兵衛より先に喜一がちくりと云ったが、お咲は甚助に挨拶を返して聞こえない素振りでその言葉を無視した。
お咲はこの兄とどうしても気が合わない。父、吉兵衛が良く似た兄弟だと云うが、お咲と同様に白い肌にしなやかな長い指を持つ喜一は昔から底知れない商売人の目をしている。悪戯をしかけても、喜一の方が一枚も二枚も上手で、叱られるのは大抵お咲だったし、それは単に年の差だけでなく喜一の性格が関係しているとしか思えない。
どこか人を拒絶するような物言いに、お咲は心が傷つけられることもしばしあった。ものの考え方が違う人なのだ、と考えさせられるところは喜一の父譲りの性格であり、吉兵衛もまた、お咲には遠い父親だった。
「お咲お嬢さん、お使い、行って参りました」
雑巾かけの姿で小僧の広吉が現れ、お咲は広吉の目をうんと見ながら頷いた。
「ありがとう、後で部屋までもってきて頂戴」
丁稚小僧の広吉と、それは暗号のようになっていた。小僧の広吉は外に出る機会が少ないが、お咲の頼まれ事という言い訳でこっそり双葉屋の小僧の長次に会いに行っている。いわばお咲の小さな「間者」である。
広吉には使いの度に何文かの小銭を渡し、広吉は次の薮入りの日のためにせっせとそれを貯めているようだ。最初の時はもう一人の小僧の麻太も使っていたのだが、さすがに小僧二人を自分の私用に使うのは憚られて、近頃は口の堅い広吉の方を使いにやっている。
「また、お咲の道楽買いか。今度は何を買ったんだ」
喜一はお咲でなく広吉を見ている。内気な広吉は顔をくしゃくしゃにしてお咲にすがる目つきをした。今日は、長次と話すのに夢中で、何か見繕って買ってくるのを忘れてしまったのだとお咲は悟った。
「おのぶちゃんのところに文を持っていってもらったのよ。今日はお返事もらえたらもらってくるように頼んどいたの」
お咲の頭にとっさに浮かんだのは桶町に越した幼馴染に書いた手紙のことだった。だが云ってから、喜一の顔に浮かぶ薄笑いを見て嫌な予感がした。
「桶町のおのぶちゃんの手紙なら、振り売りの松吉がついでに引き受けて持ってきてくれたよ。広吉は、行き違いかね」
「そうかもしれないわ、行き違いだったのね?広吉」
広吉は蚊の鳴くような小声で「はい、お嬢さん」と云ったが、それまで黙っていた吉兵衛が大声を出すと途端に縮み上がった。
「広吉、仕事に戻りなさい。甚助も奥に下がっていなさい」
にきび痕がうっすら残る甚助は、お咲の目の前から広吉を引っ立てるようにして連れ去っていったが、広吉は今にも叫びだしそうな顔をしながら両の手で口を覆っている。絶対に喋りません、という一生懸命な意思表示にお咲は微笑んで見せた。
「お咲、あれほど叱ったのにまだあたしの云い付けを守っていないね」
「何のことかしら、おとっつぁん」
喜一が首を振り振り帳場でそろばんをはじいている。
――どうせ、親孝行者の喜一兄さんは、おとっつぁんに叱られたことなんてないんだわ。
お咲の心がまたねじれた。
「銭は、人の心を誤らせる。どんな善人でも、銭の誘惑に、ひょいと誑かされる。お金は怖いもんだよ、お咲。そう教えたのに、お前はまた広吉に小遣いでもやったんだろう。あたしはね、お前が私用で広吉や麻太を使うのを絶対にしちゃあならないと云ってるわけじゃない。ただ、何かにつけて店の娘が紙にひねったものを奉公人にやっちゃならない、と云ってるんだ。
お店者は自分のお店に誇りをもって生活してる。それをお前ときたら、小金を餌に奉公人を釣っているじゃないか。自分の店の奉公人相手に、上目使いにお役人さまに鼻薬を嗅がせる様な真似をして。そんな情けない真似を一体どこで覚えた」
「あたしは、おとっつぁんが八丁堀の北村様にいくら積んだか知らないわ」
お咲にも、吉兵衛の云っているお金の怖さの意味はわかっている。それなのに思わず尖った声を出した。
幼馴染のおのぶの店は、番頭の使い込みで潰れてなくなった。それでおのぶの一家は桶町の太物屋に住み込みで生活する羽目にあったのだ。夏に久しぶりに会ったおのぶは、つぎのあたった使い古しの着物を着ていて、自分は吹掛絞りの大輪朝顔を鮮やかに染めた浴衣を着ていた。
おのぶは、ちらとも気にしたそぶりは見せなかったが、お咲は無神経な自分に恥ずかしくて穴があれば入りたい心地になった。もっと地味な服を着てくれば、と思った。しかし呉服問屋の家の娘であるお咲には、これより質素な服などほとんどないということがどんな意味を持つのか思い知らされたのだ。
「そんな話をしてるんじゃないよ、お咲。あたしはお前が自分の古着を直して、お糸やおたかに夏に浴衣を縫ってやったと聞いた時も何も云わなかった」
「あれは針のお稽古よ。おとっつぁんだって、うちは古着屋じゃないんだよなんて云いながら、お咲は針仕事が上達したねぇって喜んでたじゃない」
お咲が声を張り上げたのと同時に喜一が帳場を降りて、襖をがらりと開けた。そこにはお糸、おたか、麻太が立ちすくんでいる。
「盗み聞きは、よくないな。台所のおせきの手伝いにいきなさい」
脱兎のごとく台所へ三人が走っていってしまうと、喜一はため息一つついてまた帳場へ座った。細い指が一文字に流れたのは、一から数え直しになったのだ。
――喜一兄さんは、後ろの頭にも目があるに違いないわ。
お咲の心の声が聞こえたわけでもあるまいが、喜一は帳面に数字を書き込むと、顔をあげた。
「お咲、おとっつぁんのお話がわからないわけじゃあないだろう。お前が稼いだお金じゃない。もう少し聞き分けたらどうだ。古着はいいにしても、小遣いをやったらいけないとおとっつぁんは云ってるんだ。ここで稼がれた一銭一文のお金から、おとっつぁんが稼ぎあげたお金なんだってことはお咲だってわかっているだろう」
「それでも、おっかさんからは、奉公人は身内と同じだって習ったわ。あたしがおとっつぁんからお小遣いを貰っていいなら、どうして広吉やおたかたちにお小遣いをあげたらいけないの?
広吉は病気のおっかさんの薬代を貯める為に一生懸命仕事をしてくれてるし、おたかは身寄りがなくて薮入りの日にも帰るところなんてありゃしない。麻太は弟や妹が下に五人もいて、うちにくる前は蜆売りして口を養ってたのよ。
おせきだって行き倒れ同然でここにきたんじゃないの。あたしみたいな贅沢、一度だって出来ないかもしれない。
だから贅沢まではいけなくても、少しは楽しい思いをさせてあげたいじゃない。身内同然の奉公人から血肉まで搾り取って、雀の涙みたいなお給料以外に何もしてやらないなんて、おかしいじゃないの」
吉兵衛も喜一も、開いた口が塞がらない、といった顔つきでお咲を見ている。吉兵衛は、お咲の口はよく回る風車のようだと笑うこともあったが、今はそんな軽口を叩く余裕もないようだった。
「お咲お前、何でそんなことを知ってるんだね?」
お咲の母の美代は三年前に流行りの風邪をこじらせて、あっけなく死んだ。吉兵衛が一代でこの身代を築き上げるのに、一緒に苦労しながら生きてきた。機転の利く人だったから、おかみとして威張り散らしたりすることもなく、年とってから生まれた喜一もお咲も可愛がられた。
喜一が早くに奉公人に混じって働いている間、お咲は母から、あの人はどこからきてこういう身の上なんだよ、という話を聞いて育てられたのだ。それを知っているのは女中頭のおせきだけだ。
だから一番最初に縫った着物はおせきにあげたのだけれど、へたくそで着れたものではなかった。それを涙を浮かべて受け取ってくれたおせきには、今年は冬用の綿入れを縫おうと決めている。夜、眠い目をしばしばさせながら縫っているが、宗七から紅をもらってからはそれを励みにしているのだ。
「そうだわ――たしかに、あたしが悪いわ、おとっつぁん」
先刻まで顔に血を上らせていたお咲が急に大人しくなったので、吉兵衛は拍子抜けした顔つきをした。
「わかってくれたのかね、お咲。それならいい、もうこんなことはしないね?」
戸田屋の奉公人は、お咲の家族だ。そして吉兵衛と、奉公人の稼いだ金がお咲の小遣いになっている。その金は、貰ったお咲の裁量にかかってくる。
今まではおっかさんの言いつけを破るようなことはしていなかったはずだ。しかし、お咲も使えるお金がたくさんあることによって身を誤らせたのだ。
紅も白粉も、必要な分だけあればいい。宗七に会いたいばっかりに使わないものまで買ってしまって、挙句に広吉や麻太に聞き込みをさせるためにお金を使っていたと知ったら、きっとあの世でおっかさんは嘆くに違いない。
宗七の気持ちは桜花紅を見ればあきらかだ。お金を使ってまで調べるなんて、恋に血が騒いではしたないことをやらかしたものだ。
まだまだお咲パートが続きますが、どうぞおつきあいくださいませ