秘めた想い
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其の一
京橋南柳町小間物屋、双葉屋の手前でお咲が足を止めると、女中のおたかが困った顔をした。
「お咲お嬢さん、また寄り道するんですか?あたし、また旦那様に叱られてしまいます」
「あら、そんなのあたしがいくらでも言い訳するからおたかに迷惑かけないわ」
お咲の上の空の返事に、いっそうおたかは困り果てたようだった。お咲の稽古道具の荷物が入った風呂敷を抱えて、自分のつま先を見つめている。
「わかった、おとっつぁんと、お咲を見張ってたら駄賃をやるって約束したんでしょう?」
「見張るだなんて、お嬢さん、そんな」
おたかはみるからに狼狽した。風呂敷包みを落としそうな勢いで首を振る。銭じゃないならなんだろう、呉服問屋の商いをしているおとっつぁんなら、着物か帯かもしれない。いや、でもあの吝いおとっつぁんのことだから減俸か。
「おたかが、ちょっとここで待っててくれれば、麹町の助惣焼をおとっつぁんに内緒でみんなに分けてやろうと思ってるんだけど」
麹町の助惣焼は、若い娘でなくても一度は食べたい流行ものである。水溶きした小麦粉を、油を引いた平鍋で薄く軽く焼き上げて、その中にこってり舌に残るみそ餡を包んであるお咲も好物の菓子だ。
お咲が小間物の振り売り松吉に頼んで買ってきてもらうことも多いのは、女中のおたかもよく知っている。果たして、おたかの困惑顔に思案の色がちらつきだした。女中といってもまだ十五歳。育ち盛りでお腹をすかせている子どもには違いない。
「それとも、餅に粒餡が鹿の子まだらに付いた餡ころ餅がいい?三丁目の三色ぼた餅もそりゃあ綺麗で美味しいけれど、あそこは練羊羹や鳥羽玉も味が奢っていて美味しいのよね」
おたかは評判の菓子の名を聞いて少し陶然とした表情になった。気持ちはすっかり揺れ動いている。それを見やって、お咲は少し可笑しくなった。
―― あたしの口調ったらまるで、田島屋のおかみさんに高い着物を売りつけてるおとっつぁんそっくりだわ。
「もちろん、お糸にもおせきにも内緒。二人で驚かせるのよ。いい?長くは待たせないわ。ほんの四半刻(三十分)で済ませるから」
おたかと同じ年の女中のお糸と女中頭のおせきの名前を出して十文握らせると、それが決め手になったのか、おたかは頷くと弾正橋の方へ足を向けた。橋の袂の小店でも覗いて暇を潰すのだろう。お咲が双葉屋の前に立つと、渋みのある好い声が聞こえてきた。
「化粧は、ただ高い品物を使えばいいってもんじゃありません。池田屋のおかみさんは上方で流行の笹紅がいいとおっしゃいますが、手前が見るところ、おかみさんには笹紅は色が濃すぎてどうも勿体無い。生臙脂か、紅葉の舞の方が肌の白いのを引き立たせてくれるもんです。化粧水は、少々値が張りますが上方でも中々手に入らない京花水に致しましょう。なに、玉屋と紅勘だけが紅屋じゃあありません。こちらの爪紅も試してご覧になりますか?」
隆達節でも歌わせれば小唄の師匠にもなれそうなこの声は、双葉屋番頭の宗七の声だ。じわりと頬が熱くなるのを感じながらお咲が店に入ると、手代の浅次郎が目ざとく声を張り上げた。
「戸田屋のお咲お嬢さん、いらっしゃいまし。今日は何をお求めで?」
宗七の声は、お咲と目があった途端にしどろもどろになった。代わりに双葉屋与助と、おかみのおつぎが、宗七を押しのけて、紅や白粉やらを引っ張り出してきては池田屋のおかみと思われる女に次々と勧めている。
「なにか新しいものは入ってないかしら?」
お咲が慌てて浅次郎に訊ねると、浅次郎は首をひねった。
「入ってるこた入ってるんですよ、しかしねぇ」
浅次郎は気が付かれない程度に横目で池田屋のおかみを見ながら、声を落とした。
「ここだけの話、年増や大年増には必要でも、京橋小町のお咲お嬢さんには必要ないものばっかりで」
お咲は笑った。
「嘘ばっかり、浅次郎さんは、来るお客みんなにそう言ってるんでしょ」
「嘘じゃございやせんって。京橋だけじゃなく、あちこち商いの為に歩きますが戸田屋のお咲お嬢さんが一番の器量よしだって昨晩も宗七さんと話してたとこなんで」
宗七が自分の話をしていた――お咲は胸が膨らむ思いがした。これを聞けただけでもおたかに助惣焼を買ってやるのも高くない。
「浅次郎、ちょっと代わっておくれ。長次のやつに使いを頼もうと思ったんだが、南八丁堀の五丁目までは長次一人じゃ不安でしょうがない」
「はい、旦那様、ただ今」
浅次郎が立ち去り間際にお咲の胸元に目を捉われたようだったが、お咲は気付かないふりをした。浅次郎は気のいい若者だが、その一瞬の目つきにお咲は、縁談候補の一人の安之助を思い出した。不快の念が胸を食んだ。
「今日は、お一人でいらしたんですか?」
突然、目の前で宗七の声がして、お咲は息が詰まった。
「ええ、その、おたかを連れてきたんですけど、お稽古の帰りで」
しどろもどろに返事をして、お咲は情けなくなった。帰る道々考えた話は一つも出てこない。浅次郎とは平気で話せるのに――
おつぎが外を掃きに出て行ってしまい、与助は後からきた鏡砥ぎ師と談笑している。
「……気を悪くなさいましたか」
見上げると、長身の宗七とまともに目があった。黒くて穏やかな双眸の奥は、いつも力強い光を秘めて見えた。宗七の、いつもは流暢に 商一三昧 ( しょういちざんまい ) に話す口が強ばっている。
「この間の、桜花紅……」
お咲は五日ほど前に琴の稽古を一緒にやっている友達のおゆうを、半ば無理やり双葉屋に連れてやってきた。そうでないと、しょっちゅう双葉屋に来る理由が底を尽きかけていたのだ。おゆうは紅屋の娘なので嫌な顔をしていたが、それでも来たのはお咲の想い人みたさに負けたようなものだ。そのくせおゆうは髪油や簪まで買った。浅次郎がおだてあげたせいかもしれない。
お咲は紅だけを買ったのだが、二人で店を出て貝足町で別れるところに宗七が走って追いかけてきたのだ。おゆうの顔を見て宗七は少しひるんだ顔をしたが、懐から紅の入った貝を出してお咲にくれた。「生臙脂より、こちらの方がお嬢さんにお似合いだと思いまして――」
店内のときとはうってかわった歯切れの悪さでそういい捨てると、宗七はまた走っていってしまった。お咲は呆然としたが、おゆうはすかさず手の中の紅をしげしげと眺めて「これ、紅勘の桜花紅じゃないの。奥勤めの人か、大身旗本の奥様や御内室様の特注品じゃない」と云った。
高い品だよ、とおゆうに念押しされなくても、お咲だって呉服問屋の娘である。一番頭が特別に一つだけ譲り買いしたのだろうが、大枚をはたいたに決まっている。お咲が今日、その桜花紅を塗っていないのは、勿体無くて未だに開けられないからだった。
「今日は、実はお礼に伺ったの」
お咲は、おゆうと夢うつつのまま別れて、家についてからようやく宗七が商売仇の紅勘からわざわざ紅を買ってきたのだと身にしみて、嬉し泣きに泣いてその日は夕飯も食べられなかったことなどなかったような顔を保とうと懸命に云った。
「でも、なんてお礼を云ったらいいのかわからなくて……宗七さんには」
宗七の顔に赤みがさした。
「弾正橋で助けられた時から、いつもお礼ばかり云っている気がするわ」
「とんでもございません、あの時もたまたま――」
云いさした宗七が黙り込んだ。店の前で、おたかがお咲を呼んでいる声がする。
――どうしておたかったら、こうせっかちなのかしら。
店を出ると、与助とおつぎ夫婦が笑顔で「またお出でなさいまし」と並んで声をかけてきた。この夫婦はいつでも仲が良い。お咲は、自分と宗七がこうして二人並んでお客に挨拶する姿をふと想像して、赤くなった顔を隠す為に、深々とお辞儀をした。