七月二十三日(日)
照りつける日差しに思わず目を細めた。シャツを肩までまくり上げた両腕が日光に容赦なく焼かれた。熱をもった光の粒が満遍なく全身に塗りこめられていくようだった。僕はその日何度目か、汗まみれの顔面をタオルで拭った。
今日は隣町の夏祭り会場にやってきていた。隣町の夏祭りとは言っても、人口規模20万人を超える町(行政区分上の呼び方で言えば『町』ではなく『市』だ)であり、そこで開催される祭りはローカルなものとはいえ、とても規模の大きいものだった。
僕がいる場所は、その夏祭りのメイン会場となる、市の運動公園広場だった。夜には花火大会も催され、多くの家族連れや恋人たちは、それを目当てとしてやってくるのだが、昼間は昼間でイベントが行われることになっていた。それが、この運動公園広場だ。イベントプログラム一覧を見ると、その殆どが地域のカルチャースクールの発表のようだった。ヒップホップダンスやフラダンスといった踊り。アカペラ合唱やアコースティックギターの演奏会などの演目が並んでいた。
そのプログラムの中に一つ、「国民的」とは言い難いが、それなりに名前の通った男性シンガーソングライターのミニライブが予定されていた。そして、それこそが僕が今こうして灼熱の太陽にさらされている直接の原因と言えるのだった。
先週、大学生協の掲示板に貼られているアルバイトの募集票の中に、今日の夏祭りの仕事が募集されていたのだった。仕事の内容は販売。生ビールを売り歩くバイトで、バイト代は売り上げに応じてインセンティブが付くものだった。大きなイベントであり、その売り上げも普通のアルバイトの時給以上に良いことが予想された。丁度その週に前期試験を終え、来週から夏休みに入る僕は、その夏を乗り切るだけの遊ぶ金が欲しかった。特に豪遊する予定があるわけではないが、大学生はとかく色々と出費があるのだ。自由に使える時間に比例して出費も嵩む。僕は募集票に記載された電話番号に電話をかけた。
そして、今日。朝九時から僕は生ビールのタンクを背負って、この広い運動公園を何周も歩き回っていた。募集票には「生ビールを売り歩く」とは書いてあったが、タンクを背負って売り歩くことになるとは、何故か全く想像しなかったのだ。野球場でよく見るビール売りのような格好で売り歩くことになるなんて。
生ビールのタンクを背負うのは初めての経験だった。想像できていたことではあるが、重い。恐らく20キロは超えないだろうが、それに近いくらいの重さはあるだろう。両肩にタンクの背負い紐が食い込んだ。
暑くて重い。おまけに会場に集まった人たちは喧しいときている。祭りだライブだと浮かれているのが、人々の表情や話し声から伝わってきた。その晴れやかな話声が僕の神経を逆なでするのだった。
「いっそのこと勝手に帰ってしまおうか。」
そんな考えが浮かんできた。そして、その考えは霧のように掻き消えるどころか、どんどん具体的な形をもち、無視することができなくなってきた。
僕は集金バッグの中を覗き込んだ。一杯700円で販売していたので、多くの客が千円札で支払った。販売を始めたときには釣銭用の100円玉がじゃらじゃらとバッグの中に入っていたのだが、次第に軽くなっていくのを感じていた。千円札の束をじっと見つめた。
僕は集金バッグから控えめに一掴み、札束を取ると無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。ビールタンクを背負い直し、営業所本部へ戻った。
本部には誰もいなかった。正に千載一遇の機会。僕はタンクを長机の上に置き、ポケットに入れていた千年札の束をタンクの上に置いた。人が戻ってくる前に立ち去った。
騒がしいイベント会場から遠ざかり、木陰の下で涼んだ。集金バッグの中に残った札束と釣銭用の小銭を数えると四万円を少し超えるくらいあることが分かった。二時間程度暑い思いをして得た額としてはなかなか悪くない。僕は浮かれる気持ちを抑えて帰路についた。
だが、そんな僕の気持を挫く出来事が起きた。自宅の近所にあるコンビニエンスストアの前を通ると、その二階部分から僕を呼ぶ声が聞こえた。
「おうい、どこ行ってたの?どこ行くの?良かったら一緒にご飯でも食べに行こうよ。」
親し気に声をかけてくるのは同じ大学に通う(そして高校も同じだった)小西君だ。小西君は、そのフランチャイズチェーンコンビニの店長の息子だ。何故か僕に対して馴れ馴れしくしてくる。悪い男ではないのだが、その距離感はこちらが感じている距離よりかなり近く、正直言って関わり合いたくなかった。また、幾分変わり者なところもあり、僕に限らず他の学友からも敬遠されがちなのであった。
僕はろくに小西君の顔も見ずに「ごめん、ちょっと急ぐから。」と早口で答えて歩き去った。背後からは小西君の「わかったー。また今度ねー。」という調子外れな返事が聞こえてきた。自分が疎まれていることに全く気付いていないのだ。そういう鈍感なところも馬が合わないのだ。
僕の家はJR線沿いにあるマンションの高層階にあった。そう言うと聞こえは良いかもしれないが、実際に住んでみると心躍るものではなかった。第一、窓からの眺めが悪すぎた。見える物といえば同じような形の高層ビルばかり。それらが窮屈にひしめき合っていて、たまにその景色を見ても「息が詰まるようだ」という感想以外は何も抱けないのだった。
しかし、今日の僕は少しばかり気分が良い。もちろん、集金バッグの中の札束が理由だ。その金を何に使おうか考えながら玄関の鍵を開けて中に入り、自室へと向かった。
部屋のドアを開けると兄貴が電気もつけず床に座り込んでいた。足の爪を切っているのだ。兄貴は自分の爪に集中していて、無言のままだった。
「ただいま。電気つけなよ。」
僕はぶっきらぼうに兄貴に言った。僕より二歳年上の兄貴は低い唸り声のような音を出した。返事をしたつもりなんだろう。
僕は兄貴の気だるげな態度に呆れ、彼を無視することにした。バッグや携帯電話を乱雑に机の上に置いた。その時、窓の外が騒がしいことにふと気づいた。
窓際に近寄り外を眺めた。相変わらず見える物といったら息の詰まるビル群だが、今日はそこに二羽の闖入者がいた。
「鷹と烏だろ。」
兄貴がボソッと呟いた。
「さっきからうるさく騒いでるんだよ。俺もさっきは珍しいから眺めていたけど、なんか飽きちゃってな。なかなか決着つかないんだ。」
兄貴の言葉を聞きながら二羽の鳥が争っている姿を見続けた。兄貴は「なかなか決着がつかない」と言ったが、今見ている限りでは明らかに鷹の方が優勢だった。烏は一方的に鷹に嬲られている。烏も自分が不利だと分かっているから、隙を見つけてその場から離脱しようとしているのだが、周りが高層ビルに囲まれていることもあって、なかなか上手い逃走経路を見出せないようだった。さらに鷹は烏よりも敏捷で、先回りをしては嘴や鉤爪で容赦なく烏に打撃を加えているのだった。
一体、烏と鷹の間にどんな諍いがあったのだろう。鷹の攻撃には烏を絶対に逃さないし許さないという苛烈な意思が感じられた。一方で烏は情けないほど逃げることしか考えていないことが、飛び方から伝わってきた。烏は全く反撃に転じようともせず、ただただ鷹のいない方向へ、高層ビルの切れ目へと目指して飛んでいるだけだった。
「烏がやられちゃいそうだよ。」
「そうか。」
兄貴は二羽の鳥にも僕にも特に興味が無いような気のない返事をしただけだった。
僕は烏の逃走劇、それも決して逃げ切れる見込みのない逃走劇を見ながら自分のうちに不安が芽生えてくるのを感じるのだった。不安の種は集金バッグ。その中の四万円ばかりの札束だ。何故だか気軽に持ち帰ってきたが、よく考えてみるまでも無く、すぐに自分が盗んだことがバイト先にばれるだろう。自分の連絡先はバイトを申し込んだときに相手に伝えてある。自業自得の不安の種が一気に芽吹いた。
「暑さで正しい判断ができなくなっていただけだ。」そんな言い訳が通るだろうか。バイト先の担当者は僕を警察に突き出すだろうか。大学に連絡が行くだろうか。退学だろうか。前科が付くのだろうか。就職できるだろうか。人並みの生活ができるだろうか。
窓の外では烏が必死で逃げ回っていた。
「どうにか鷹から逃げ切ってくれ。」
「もっと高度を上げて飛べばビルの屋上を超えて、向こう側の空へ行くことができるぞ。」
僕は烏に熱い視線を送り続けた。
机の上で携帯電話が着信音を響かせるまで。
おわり