七月十九日(水)
潮風が吹いた。同時に海の香りが漂う。生臭さは感じない。視線を足元に向ける。太陽の光が強すぎてまともに前を向くことができないのだ。しかし、足元に視線を逃がす目論見は成功しなかった。海辺の砂は黄土色をした鏡のごとく、日光を90度の角度で反射させていた。それが男の両目に差し込む。男は目を細め、顔をしかめた。右手で額に庇を作り、仕方なく面を上げた。
そんな男の様子を見て、隣を歩く少女が笑った。
少女も男と同じように、両の手で庇を作って男の顔を覗き込んでいる。細めた目に愛らしさが宿っている。そしてあどけなさ。
少女は今年やっと十二歳になったばかりだった。年の割に背は高く、年齢以上に大人びて見える。だが、その表情は清純であり、彼女の笑顔には如何なる不吉な影も見られない。彼女がまだ穢れない少女であることは明らかだった。
男も少女に笑顔を向けた。彼女の愛らしい姿を見たら、思わず微笑んでしまうのだ。男は少女と並んでしばらく歩いた。
男の背には汗の玉が次々と噴き出しては流れた。肩から生じた汗玉は隆起した肩甲骨を通って勢いをつけ、湾曲した背骨に沿って一気に男の腰へ流れ、紺色の水着を徐々に藍色に染めていった。少女も男と同じく水着を着て歩いていたが、男のように多量の汗はかいていない。男と女では温度に対する反応の度合いが異なるのだろう。
男は少女に悟られないように、彼女の水着を纏った身体を盗み見た。
少女の水着はオーソドックスなスクール水着のようなシルエットをしていた。普通と違うのは、それが赤色の水着であることと、水兵のセーラーのような襟が可憐に意匠されていること。そして、それを着た少女の肉体が年齢不相応な程に大人びていて、本人の無自覚とは裏腹に強烈に男を誘惑してくることだった。
男は少女が自分を慕ってくれ、名前を読んでくれることを密かに喜んだ。少女の隣を歩けることを男は喜んだ。一人の男にそうした喜びを感じさせるくらいに、少女は魅力的だった。
馨しい香りの花には蝶が集まる。あらゆる蝶が。中には柄の醜い蝶が寄ってくることもあるが、それは美しい花の宿命である。少女にも醜い蝶が寄ってきたのだった。
男と少女が行く先に、五六人ほどの男たちが待ち受けていた。いずれの男も顔に下卑た笑いを浮かべていた。男の一人が少女の体を舐めまわすように眺めた後、ニヤニヤ笑いながら自分の陰部を揉みしだいた。遠目にも男の陰部が膨らみ、立ち上がっていく様子が分かった。
瞬間、少女は目を背け、顔を赤くしたまま、困ったように男の目を見つめた。少女は無言のままだったが、その場から離れたがっていることは明らかだった。男は少女の左手首をしっかりと握りしめると、180度転回し、自分たちが歩いてきた方へ戻り始めた。
最初のうち、男も少女も背後が気になって仕方なかった。醜い蝶たちが踊り狂いながらついてくるのではないかと心配だったのだ。一心不乱に歩いてから二人は後ろを振り向いた。男たちは遥か後方、出会った場所にまだたむろしていたが、もはや少女に(もちろん男にも)興味を失ったようだった。誰一人、男と少女の方を見ている者はいなかった。
二人は身の危険が去ったことを知り、安心した。男は少女の手首を握ったまま歩いてきたことにようやく気が付いたが、その手をほどきはしなかった。少女もそれには気が付いていたはずだったが、何も言わないでいた。
二人が防風林近くのシャワールームに戻ってきたころ、空模様が崩れてきた。黒雲が立ち込め、足早に雨の匂いが立ち込めてきて、次の瞬間には轟音と共に雨が降ってきた。
少女は「危なかった…」と呟いて男と顔を見合わせた。その表情に不安の色は無い。少女はあくまでも雨のことを指して言っているのであって、どうやらつい十分ほど前まで自分たちが晒されていた柄の悪い男たちの脅威についてはすっかり忘れてくれているようだった。男の表情も自然と綻んだ。
雨と雨音は天然のカーテンで空間を閉ざし、男と少女を一つ所に押し込めたようだった。二人が駆け込んだシャワールームは海岸で砂に塗れたサーファーが、体の砂を落とすための簡易的な場所だった。高い屋根の備わった東屋風のシャワールームで、男女の別も無ければ更衣室も併設されてはいなかった。あくまで砂を落とすためだけの施設なのだ。壁際には光沢のない銀色をしたシャワーノズルが十個以上並んでいた。蛇口が少し空いているのか、並んだノズルのいくつかはポタポタと水を滴り落としているのだった。
少女は外を見た。雨以外に見えるものは無かった。男は少女を見た。真横から眺める少女の姿は子どもらしさと成熟した女らしさの均整が取れていて美しかった。
「もう泳がないだろう?シャワーを浴びたら?」
男は言った。少女ははにかんで答えた。
「濡れるのは好きじゃないの」
泳ぎに来ておきながら、「濡れるのは好きじゃない」も無いものだろうと男は可笑しく思った。ついでに男は少女をからかってやろうという気を起こした。
男は備え付けのシャワーノズルを手に取ると蛇口を捻ってノズルの先を少女に向けた。勢いよく噴き出た水が水着の少女を濡らした。少女は「きゃっ」と悲鳴を上げたが、それをも面白がっているのは明らかだった。声色で分かるのだ。
シャワーは主に少女の胸から腹にかけて濡らした。その部分が暗く染まった。男もしつこくするのもつまらないと思い、すぐに蛇口を閉めて、少女の反応を見ることにした。
少女は頬を膨らませ文句を言いながらも、男のいたずらを楽しみ喜んでいた。膨れ面をもってしても、その表情を隠しきれてはいなかった。男もそんな少女の様子を見て、純粋に楽しく思った。
しかし、次の瞬間に男の純粋な笑いは、薄汚い発情犬の欲に染まった。
男の目線が少女の胸に注がれた。シャワーで濡れた水着は、その下にある膨らみつつある少女の乳房を透かして見せていた。発育の良い少女の胸は、それでなくても男の目を釘付けにする。それが今では薄い水着越しに、はっきりとその乳首や乳輪が透けて見える状態だったのだ。
男は目を逸らした。見てはならないものだ。男にはモラルがあった。しかし性欲もある。理性があった。しかし性衝動もある。自分を律すべきか、自分に従うべきか男は揺れ動いた。
少女は男の様子がおかしいことに気付いた。「どうしたの?」と尋ねるのだったが、男はもごもごと口ごもるだけではっきりしない。
男が自分自身をどのように制御するか、あるいはそれを放棄するか決める前に、男の身体は答えを出した。彼の水着が彼によって持ち上げられていった。男はそれに気づかないわけにはいかなかった。
「このままではまずい」と男は少女に背を向けて、東屋の反対側へ駆けていった。少女は「どうしたの?」と大きな声で男を呼んだ。男は「何でもない、何でもない」と繰り返すより他になかった。
男は思うままにならない身体を呪った。同時に少女を傷つけるようなことをしてはならないと強く思った。
降り続ける雨に囲まれながら、男は自分の身体が理性を取り戻すのを待った。
おわり