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後編

目覚めは最悪だった。

酷い夢だ。

何故今更、こんなものを見てしまったのだろう。


体を起こすと、ベッドの上のスケッチブックが開かれたままだ。少年の母が描いたというあの絵が、カーテンから薄く漏れた光に浮かぶ。

それを寝起きの頭でぼんやりと見つめていると、昨日跡を付けて曲がった紙の端に違和感を覚える。

ベッドの隅に移動して手に取ってみる。朝日が目に差して眩しい。


「た...いよ...う?」


昨日は気付かなかったが、確かに鉛筆でそう描いた後に消した凹みの跡がある。ローマ字だから少年には読めなかったのだろうか。そしてこれは太陽の絵?


微かな頭痛に顔をしかめていると、ベッド脇の電話が鳴った。叔母さんからだ。


『もしもし?花奈ちゃん、寝ていたかしら』

「今起きたとこ」

寝ていたにしてもむしろ起こされたことに礼を言わなければならないような時刻だった。

『ごめんなさいね。ちょっとアルバムの整理をしていたら、思わぬ物が見つかったものだから。来てくれるかしら?』


大した返答も出来ないままに電話が切られる。

スケッチブックは置いていくかどうか迷ったが、どうも置いていけないような気がして、鞄に放り込んだ。


・3・


「これなの」

玄関に入るなり差し出された物は、アルバム整理をしていたら出てきたというのに肯ける。写真だった。

親戚がみんな笑みを浮かべて、私と妹はおそろいの浴衣を着て、妹は屋台で買ったわたあめを手に父の腕に座らせるように抱えられている。まだあのウイルスが蔓延する前の写真だ。


「覚えてるかしら。親戚みんなそろって初詣に行ったの」

「覚えてます...でも、こんなの」

「いいから。ここ、見てくれる?」


写真から身を引こうとした私の手を取って留めた叔母さんに指された写真は、場所はお祭りがあった神社で、屋台の列を背景に紅く浮かび上がる鳥居の脇。

そこには地元の小学生が描いたイラストが載せられた提灯が並んでいて、その下の私が、不本意そうな顔で一つの提灯を指している。

夏らしい、花火や海などの絵がほとんどだった提灯の中で、私の絵だけが殆ど真っ黒に塗りつぶされていてとても目立っていた。

写真ではもう分かり辛いが私はただ紙をクレヨンで真っ黒に塗った訳ではなく、爪楊枝でそこに無数に小さな穴を開けて、当時の小学生の先生に提出したのだった。中に仄かな灯りを抱く提灯の下には「夏の夜空」というタイトルのシールが貼ってあった筈だ。

でもそれが...。

過去に引き戻されかけて私は得体の知れない怒りを感じた。


それが...どうしたって言うのだ。


「この写真がどうかしたんですか?」

「私、気付いたのよ」

「だから何を...」

「あなたの提灯の3つ隣。よく見て」


言われるがままに3つ数え提灯を見た時に、両腕の毛がぞわりと逆立ったような気がした。


「少し似てるんじゃないかしら。昨日の絵に」


そばにあった鞄を掴んで中のスケッチブックを手で探る。あった。テーブルに引っ張り出してのぞき込むと、同様にのぞき込むんだ叔母さんの影が隣の白紙のページに落ちた。

アルバムをその上に重ねた。


少し似てる...なんて、ものではなかった。


そっくりだった。同じものだと言ってもいい。


ただし写真の方は小学生の筆跡らしく、スケッチブックの方の繊細だが真っ直ぐで柔らかい線に比べ、筆圧が強かったり弱かったりでグネグネとしているのが分かる。

全体的にも立体感のある綺麗な丸ではなく、でこぼことした楕円だ。それでも。

似ているのだ。

形が歪んでいてもその一瞬で同じものを書いたのだと分かる程に。

まるでどちらかがどちらかの模倣をして描いたものではないかと思う程に。


「ほうら、やっぱり似てるじゃないの」


嬉しそうに声を上げる叔母さんをそのままに私は写真の提灯に書かれたタイトルを探した。

あそこには描いた子供の名前があるはずだ。

それはおそらく彼女と呼ぶべきであって...あの公園で出会った少年の『まま』である可能性が高い。

それは消えた少年の持っていたスケッチブックの真の持ち主である可能性である。


「富良...ゆうた...」


その提灯の持ち主が小学生で良かったと思った。

タイトル用紙だけでなく提灯の面にもでかでかと書かれた墨の文字は、苗字だけだったが、それで充分だった。


「ゆうたくん...?」


その名は小学生時代によく親しんだ、男の子の名前だった。

そして、「...ああ...」同時に無くしていた記憶を、私に思い出させたのだった。



・3過去編・


風が吹き、ざあざあと辺りの木の葉が騒いだ。

吹き飛びそうになった画用紙を手で押さえ、はためく黄色い帽子の鍔も別の手で抑える。

校庭の校舎に近い遊具のある場所できゃあと歓声のような悲鳴のような声が上がる。あそこはうんていやジャングルジムの足場に画板を置けるから、人が多い。

対照的に私が絵を描いている隅の方の芝生は静かだった。


ぼんやりと空を芝生を見ていると、黄色の色鉛筆がころころと転がってきた。


手が塞がっているので受け取れず、転がってきた方を見ると、同じクラスのゆうたくんだった。

まだ夏も始まったばかりだと言うのに制服は半袖で、露出しているところはどこもかしこも黒いのにその袖の下は妙にしろくて、私はパンダみたいだ、と感想を抱いた。


「かな!」取ってそれ!と言いかけた口が私の両手を見て中途半端に空いたまま色鉛筆を追いかける。

あっ、と思った次の瞬間に、色鉛筆は校庭の側溝の隙間に落ちた。

「あっ!」とゆうたくんも叫んでずざーとその場に転がった。


「落ちちゃったね」

「どうしよう、まだ描きかけなんだけど」


運動神経も飛び抜けてて、サッカーが上手くて、算盤が出来て数学が得意なゆうたくんは、クラスの中の中心人物だった。

その彼がただの図工の授業で、興味の薄そうな絵にむきになっている。

私は面白いものを見た気がして、「黄色で何描いてたの?」と訪ねてみた。


「太陽描いてた。空描くから」

「私も太陽描いてたよ」


側溝から身をべリベリと剥がすように移動してきたゆうたくんは、私の座る木陰まで入ってきた。

陽にじりじりと焼けた茶色の肌から熱気が立ちのぼって、彼の周囲の温度さえ上がってしまうような感じだった。


「...なんそれ。なんも描いてないじゃん」

「これから描くの」

「へぇー」興味ありげなのかなさげなのか全く分からない反応である。

「貸そうか?黄色の色鉛筆」

「かなは使わないの、空描くんだろ?」

「黄色無くても描けるよ」


え、と彼が目を輝かせた。「どうやるの」

私は膝に立て掛けた画板を地面に置いた。生い茂った芝生がふぁさっと押さえられる。

私はいつも使っている2Bの黒鉛筆で、画用紙に落ちた木陰の中の白い水玉模様をなぞり始めた。


木漏れ日の絵を描き始めた。


「うわぁ、すげぇ。確かに太陽だ」

「だから黄色使わなくていいの、はい、貸す」

「頭いいなお前」

ありがと、と受け取った彼は、掌の黄色い色鉛筆をしばらく眺めて、しかしすぐに突っ返してきた。

「やっぱいらない。俺もそれで太陽描きたい」

「パクリだ」

「あっちで描くよ!!それだったらいいだろ!」


え、良くない。


ああ、普段はクラスをリードしている彼が私の真似をするって、でも、それは凄いことなんじゃなかろうか。

芝生を離れて木漏れ日を探し始めたゆうたくんの後ろ姿を見て、じゃあいいか。と丸い線をなぞり始めた。


あとで鑑賞大会があった時、私は彼の絵が明らかに私の絵に見劣りすることに何故か私の方が恥ずかしくなって、自分の絵をクレヨンで黒く塗り潰したのだった。

それで...それで、小さく穴をいくつも開けて、あれは結局、クラス賞をとって終わった。

一方のゆうたくんの絵は学校の最優秀をとった。

そして、県内の表彰式に行く途中で、土砂崩れにあって...。


担任からゆうたくんが亡くなったことを知らされた時、確かに私はとても後悔して、悩んで、落ち込んだ。

彼に私があの絵を教えなかったら。

私が自分の絵を描き換えなかったら。


この事件がもたらしたのは引っ込み思案で柔い心の私にとって、以降は男子の顔さえ見れないほどの、とても強い、悪いことを犯したという罪の意識でも特に、消したいと思う類のものだった。それほど記憶に残るものだったはずなのに。




・4・



私は叔母さんの家を飛び出した。

勝手に腕と足がぶるぶると震えていた。心配した叔母さんが玄関のドアを開けて来る前に、私はどこか落ち着けそうな場所を「そんなところ...」探して「ない...」駆け出した。


急に過去の記憶に振れた意識の針が私の中でグラグラと揺れている。

いや、そんなものではなく、心臓の鼓動のように、ダクダクとドクドクと細かく震えて私を揺さぶってくる。

理性が道を問うのと同じように、「どっちに行けばいい?」と問うてくる。


待て。と自分で自分に言い聞かせ、その場に全力疾走をした後のように膝に手を付いて深呼吸をする。白いリノリウムの地面に焦点を合わせていく。


私が忘れていたことは、全て忘れるはずがない記憶だった。

『普通なら』写真を見た瞬間に思い出す筈なのに。

なぜ?なぜ思い出せなかったのか。

私の中の針が現在に振れたまま固まって、そのまま、錆び付いていたのだとしたら。


そうしたのは誰だと聞くまでもなく、私である。


でもなぜそこまで自分に過去の記憶に触れさせなかったのかが分からない。

妹のことはまだしも、取るに足らないこれらの記憶を、自分はなぜ無意識に封印してしまったのか。


違う...。


『誰が』封印して。

そしてその記憶を呼び覚ましたのは、誰なのか。


そうだ、あの少年は結局、誰なのだ。


あの絵とタイトルは私と、もう亡き男の子しか知るはずのないものなのに。


「...花奈ちゃんっ!?」

「叔母さん」

呆然と佇む私を見つけて、叔母さんは私を強く抱き締めた。

「びっくりするじゃない!!」

「ごめんなさい...」

温かい体温に包まれ肩に顔を埋めると安心する匂いがした。

ベクトルがゆっくり戻ってくる。暴れ回っていた現在と過去を行き来する私の意識の針だ。


忘れていたことは、過去の私が、忘れたいと願ったことだった。

そして、それが呼び覚まされた。

私ともういるはずのない人間しか知らない、あの絵で。


私を抱き締める叔母さんの肩越しに、あの公園が見えた。

風が吹き、さわさわとあの木の葉が波をたてる。


その木の下に2人の影が見えた。

1人は妙齢で、1人は小学生ほどの子供らしい。

2人の雰囲気はよく似ているようで少し異なっているように見えた。

例えるならスケッチブックの木漏れ日の絵と、がたがたの線で画用紙に描かれた木漏れ日の絵のように。


「まさか....」


妙齢の女性の方に、昨日見たあの赤いシャツの少年が足元にまとわりつく様にじゃれている。

私は一つの仮定を導き出す。


「私なの...?」


ありえない話だったが、それしか私にはありえなかった。

過去の幼い私が当時の思いのままに消したい記憶を消して、そして未来の私が消えた記憶を呼び覚ました。

正しく言えば呼び覚ましたことにするつもり、だが。


再び風が吹いて、次の瞬間には2人の姿は消えていた。


でももう分かったのだ。

未来の自分が記憶を呼び覚ましたのだとするならば、受け入れていかなければならないのだ。


自分の罪悪感も、恐ろしい記憶も、これからは全て。



「叔母さん、もう大丈夫だよ、帰ろう」

ぎゅっと抱きしめたままだった彼女の背中を揺さぶる。

「もう大丈夫だから。叔母さん、...叔母さん?」



肩に乗せた顎を上げた瞬間、頬に叔母さんの頬が触れた。


何かがごつりとした。

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