前編
もはや公園というよりは街の景観の一部としてそこにあった児童公園が、確かにあったといえばあった。
清潔さを通り越して一種の不気味ささえ醸し出す真っ白な町並みの中では、オブジェとしての緑は大きな存在ではあったかもしれないが、公園としては当然ながら、というか。
子供のいない街の、その公園にもまた、本来の存在概要である運動に興じる人の姿、ましてや子供の姿なんてものがある筈も無いのである。
だからその日、配給所からの帰路を辿る私の目についたものは大いに私を驚かせ、ついでに驚いた私は腕の中にあった支給品の殆どをその場に落っことしてしまった。
私の家の前にある名ばかりの児童公園は、元の日本でよく目にする一般的なそれと変わりなく、ブランコ、滑り台、砂場、と一通りの遊び場が揃っていて(遊ぶ人などいないのだが)、特徴と言えるものを捻り出すなら玩具の散らばった中心あたりにある広場のその端に、恐らくこの街で唯一とも言える大きな木が屹立して…孤立しているくらいだっただろう。
下手をすれば一日に一度も視界にすら入らないその公園に私が立ち寄ることとなったのは、腰を悪くして配給所に行けなくなった叔母さんの代わりに生活用品を受け取り、届けなければならなくなったが故だ。
わざわざ待ち合わせしなくても家まで運ぶのに、と言うと、家からくらいは外に出ないと。と叔母さんらしい返答で電話越しに言われたのでその通りにすることにした。
それにしても…だ。
私は配給所で受け取ったふたつの麻袋を覗き込む。
ドームに街が作られ、地球に住みながら地球という存在と隔離されてから四年あまりが経ったが、まだ生ものは缶詰にさえ出来ていないようだ。
袋の中はパンとまだ粉末のスキムミルク、ビスケット等のおざなりな嗜好品の他に、洗剤やティッシュ等の、代わり映えのないラインナップ。
叔母さんの方にはカルシウムを多く摂れるとかいうウエハースが入っているが、その他は私のものと変わらない。
せめて果物でもと思うが、あの破滅の中でどれだけ人間以外のものが生き残れたというのだろうという事を考えれば、仕方がないのだろうか。
公園に佇む大樹を見上げ、待ちくたびれた私の思考はぼんやりとしながらも、なんでこんなところに政府は木なんて植えたのだろうということに移行しようとしていた。
と、その時。
キィー、と、およそ聞きなれないような甲高い音があたりに響いた。
『大きな音』が鳴った。
一瞬何が起こったのか分からないほど、忘れかけていた感覚が、おぞましい風景の記憶と共に戻ってきて心臓が気味悪くどくりと震えた。
聞こえる筈の無い人の悲鳴、怒号の記憶が、足元からまとわりつく悪霊のように蘇って、私は耳を塞いでしゃがみ込む。
リノリウムの地面が目に入る。悲鳴と血の染み込んだ土から、私達を遮断する無機質な防壁だ。
息をゆっくりとついて、耳に当てた手を下ろす。
警報、な訳がない。
現に何も起こっていない、ほら…。
頭を抱えた体制から身を起こすと、確かに音は鳴っていたが、避難警報のものとは違って緩やかだし、小さいものだ。
全然似てもいなかった。
音の発信源は公園の方からのようだった。
キィー、キィー、と規則的な音はなり止む様子はない。
不審に思う他が無く、おそるおそる引き返して公園の中をそっと覗いた。
平らなままの砂場。
スロープのペンキの真新しさが消えない滑り台。
低いジャングルジム…。
そして揺れるブランコ。
なるほど、さっきの音はブランコの揺れる音だったのかと合点が行くより前に、私の視線はそのブランコを揺らすものにピタリと釘付けになったまま動かなかった。
男の子だ。砂で汚れた、どこか懐かしいネズミのキャラクターが載ったTシャツ。
ぷっくりとした頬についた土。
擦りむいたのか、短いズボンから伸びる白い膝には薄く血が滲んでいる。
柔らかそうな頬を膨らませながら、膝の力だけで前後に小さくブランコを揺らす少年の両手には、黄色と黒のロゴが有名なスケッチブックが開かれていた。
なぜか見てはいけないものを見てしまった気がした。いや、見てはいけないもの...ある筈が、居る筈がないのだから。
突然監視カメラが気になって、露骨にあたりを見渡してしまう。人はいない。
しかしカメラには完璧に少年のいる位置は入っている筈だ。
なのになぜ、反応しないのだろう。
赤い色にも、傷にも。居る筈の無い子供にも…。
いつの間にか落とした荷物をそのままに、意識するでもなくさっと公園のフェンスに身を紛れさせた。大して目隠しにはならないだろうと思うとまさにそのとおりで、公園の中から「なにしてんの」と声が掛けられた。肩がびくりと震えた。
四年前のあの時の絶望がまた、ちりりと痛みを伴って頭によぎる。
「なんで隠れてんの」ブランコを揺らす少年は、私に些か不審を抱いたようだった。
私はフェンスの影から出て、弁解をするように笑顔を貼り付ける。
「隠れたわけじゃないよ...ちょっと驚いて...」
「そうなんだ」納得はしていないようだった。でも嘘ではないのだし。
「それ、何が描いてあるの?」
私が視線で示したのは膝に載せられたスケッチブックだ。少年は突然の質問に虚を突かれた様子で、ままの絵と答える。
私は『まま』を、お母さんという意味合いでのママに変換するのに暫くかかる。少年は質問に答えた後で、しまったという顔をする。
「‥‥何の絵かわかんないけど...、聞いたけど忘れたし.....」
尖らせた唇から飴細工の様な薄い響きの小さな言葉がポツンと零れ落ちた。
私はその言葉が地に落ちて吸い込まれないように、そっと慎重に聞き取らなければならなかった。
「何の絵?私も見てもいい?」
別にいいけど、と短く答えた少年の後ろにそっと回って、スケッチブックを覗こうと小さくかがみ込んだ。
「花奈ちゃん!!」
はっと顔を上げた。
声の方を見ると、親しんだ丸い輪郭がこちらに向かって大きく手を振っている。
「叔母さん!」
安心感からほっと息をついて手を振り返すと、緩慢な動作で何か茶色いもの…私が落っことした支給品の袋を持ち上げて、苦笑する。
「あっ!そうだっ……た」
またね、と声を掛けようとしてブランコに座っていた少年を見下ろすと、そこには黄色と黒のロゴのスケッチブックが残されているだけだった。辺りを見渡す。どこもかしこも白いだけで、あの赤色が無い。
『ままの絵』
トン、と肩を叩かれたように、少年の言葉が蘇った。
まるで言い残したみたいに、だ。私ははっとしてスケッチブックを捲る。
ふと、木漏れ日が白紙の上に落ちた。
と思ったら、柔らかな影のような灰色の背景に、薄い光が交差するような細い白線がいくつも、いくつも紙の上に重なっている...それは絵だった。
木漏れ日だと思ったのは咄嗟に目に入った時だけだったようだ。
‥‥次第に、私にはそれが、ポッカリと空いた深い穴のように見えてきていた。
・・・
『きっと、幽霊ね』
人の良い顔が紅茶のカップを傾けて微笑み言った言葉が脳裏にまだ漂っている。幽霊か。幽霊に定義なんてないだろうが、もしあったとしても、公園のあの少年はしっかりと輪郭を持って、記憶の中にいる。
幽霊という存在はともかくとして、あの子がお化けの類だったとはとても思えない。
しかし、本当にいたかと問われれば、証拠はこのスケッチブックだけなのだ。
私は幻想を見たのだろうか。
黒と黄色の表紙を捲って、唯一の絵が書かれたページを開いて持ったまま、ベットに転がる。
次第に瞼が落ちていく。
『あの子が幽霊なら、花奈ちゃんに何か伝えたかったのよ。きっと』
『でも私は...あの子を過去に見たことはありません...』
『でも花奈ちゃんの前に現れた。それって、花奈ちゃんが気付いていないだけで、何かしら接点があるってことじゃないかしら』
長らく見ていなかった、他人の書いた絵。
ざらざらとした紙は端をなぞると跡がついて丸くなる。丸くなった角は少し努力して体を起こす。起こしたあとはエネルギーを放出しきったように動かない。妙に生物じみている。
気付いていないことがある。あるなら、探さなきゃ。
そう思いながらも、私の意識は遠のいていく。
脆い細線が交差した、白い影に吸い込まれていくように。
・2・
『おねえちゃん...くるし...』
くぐもった声。どこか懐かしい呼び方が、四畳半の子供部屋-これも懐かしい-に敷かれた布団から聞こえた。
隣の部屋の両親はまだ起きているのか、小さく開いた襖から漏れた光が畳に仄かな線を落とす。
布団から体を起こして妹のいるであろう場所を手でまさぐった。
『..美奈?』
何だか変な感じだ。とても懐かしい。切ないような感じがする。
『お、ねぇちゃん...』
年の離れた妹が、布団から細い腕を出した。部屋の暗さにその白い腕が亡霊のように蒼く脆いものに見える。
なんか...くさい。
『死』のにおいがする...。
『くるしいよ....』
頬にゴツゴツとした感触が当たる。妹の手が触れている。
触れられた頬から妹の顔に視線を移し、悲鳴を上げる。
襖が開き、畳に落ちていた細い光の線が一気に広がって私の目に全てを映し出す。
生気を失って顔に赤い粒を生やした妹の定まらない視線が、一瞬だけ私の方を見つめた気がして、ひっと声を漏らしてしまう。
枯れた妹が父の腕に抱えられて行く。
ぶらんと振れたか細い脚に、私は絶望を覚える。
『美奈...!』
『花奈!!こっちにくるな!!』
駆け寄ろうとしたところを父に牽制され、母が後ろから抱きしめて止める。
無理やりのように子供部屋から出されて、キッチンの椅子に座らされた。
『ごめんなさい...』
泣きじゃくる声の中でそう漏らしたのは母ではなく、私だったかもしれない。
美奈の元気がないのには、昨日から気が付いていた。その手に赤い斑点が出来ているのにも。
それを見て見ぬふりしていたのは...。
『花奈ちゃん、大丈夫よ、大丈夫』
青白い顔の母は妹のことは『美奈』と呼び、私のことは『花奈ちゃん』と呼ぶ。
実際に血が繋がっていないからだ。
そう、私は...。
父が受話器を置いてしばらくして、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
あっという間に家の中が知らない人間でいっぱいになる。
担架に乗せられた妹の体に透明のシートが被せられる。担架を運ぶ人間も宇宙飛行士のような格好をしていて、ゴツゴツしたマスクを付けている。
説明もそこそこに家族全員が乗せられた救急車の中は、誰もが無言だった。
ただ父と母に何か説明している宇宙飛行士の格好の人間のくぐもった声だけが聞こえている。
何の気なしに母の腕に縋りつく。
何かがごつりとした。




