そして、彼は音楽を謳う。
音楽理論なんて無駄だ、自分の音楽を作れよ /カート・コバーン
ピアノの音色だけが響くはずの音楽室に、いつからかパンクロックに目覚めたベートーベンが叫び散らすようになっていた。
人間の適応力というのは恐ろしいものだと思う。最初は不快に感じることが多く、もっと丁寧に弾けと何度口をうるさくした覚えていないけれど、気づけばその耳の奥まで貫かんとする爆音を、日常茶飯事にすら感じていた。彼のストラトキャスターから奏でてくる旋律を耳コピして、ピアノで弾き換えたりもした。そのたびに彼は「今の良いじゃん、合奏しようぜ」と嬉しそうに白い歯を見せてくるのだけど、合奏を初めても、彼の主張の強いギターの音にピアノは自然と敗北していて、やがて観客が僕しかいないミニライブが始まるのもいつものことだった。
「佑都。もっとがっと食らいつくくらい来いよ。その方が楽しいぜ」
「フォルテシモばかりのピアノが綺麗なわけないだろ。次は邪魔するなよ」
そう悪態混じりの声を返しても、彼は構わず僕らを見下ろす偉大な音楽家たちの残した曲を、皮肉るかのようにパンク調を交えて演じていく。演奏技術を誰に教わったかは結局訊かず終いだったけれども、まぎれもなく僕の短い人生において彼は数少ない音楽の天才に感じた。僕が苦戦していた曲も、二、三度耳にすれば彼はすぐアレンジして自分のものにしてしまう。
「天才? 馬鹿言うな、俺はただの落ちこぼれだよ、好きで落ちこぼれてるだけかもしれないけどな。けどまあ、見栄えばかりの良い子ちゃんなんて絶対嫌だな」
彼が敬愛するカート・コバーンの台詞を謳い文句のように笑いながら、そうギターを搔き鳴らす彼に出会ったのも、もう三カ月も前のことになる。
音楽一家に育つと、生活環境の周りにはまず自然とありとあらゆるジャンルの音楽が舞い込む。
父親は日本でも名前の知れている楽団のコンサートマスターで、母親は高校の音楽教諭。小さい頃のおもちゃといえばピアノやバイオリンで、それ以外の多くの弦楽器や管楽器にも手を出したけれど、最終的に手元に残った楽器は父親が子供のころから使っているらしいグランドピアノだけだった。
周囲の同年代の子よりも一回り小さい手だと、幼少から主に音楽の教育を受けてきた父親に指摘されたこともあったけれど、自由奔放に音楽を楽しむスタイルを徹底していた母親の影響で、僕の弾く演奏も体全体で表現せんとする、母親のスタイルに憧れが強かった。母親の演奏はリストのピアノ曲によりポップ色を混ぜてみたり、石川さゆりの曲を弾いてみたと思えば本来の曲にはない慌ただしさを演じて見せたり、時にはマイケル・ジャクソンをピアノで演じたかと思えば、あまりに自然なタイミングでショパンの「雨だれ」を演じたりもした。
幼少期において母親は僕の中では紛れもない唯一の天才ピアニストで、母親の影響でとにかく自由奔放に音楽を楽しむ事ばかりを楽しんでいた。結果、父親の勧めで参加したコンクールでは上位にほど遠い点数ばかりを連発し、真面目な音楽のスタイルを貫く父親とは口論が絶えず、軋轢を生む事も多かった。
やがて、もともと持病を患っていた母親が倒れ、中学卒業を控えたあたりで、僕は母親と、自由に音楽を演じることに対する支えを失うことになった。
音大への進学を確実なものにしうる父親が推した私立高校への入学を否定する時には、勘当直前となってもおかしくないほどの口論を繰り広げる形になり、結果として僕は母方の叔父が暮らす方に住所を移し、父親から離れて生活することになった。
自分から友人を作りに行くタイプではなかった僕は、決まって放課後になるとほとんど誰もいなくなるというところを狙って音楽室のピアノを使い、音楽室の奥の資料室の隅から隅までの譜面をなぞり倒していた。クラシック音楽から合唱曲、挙句の果てには誰が混ぜたのかが分からないギターのコード表まで。
けれど、どれだけ一人で譜面をなぞろうと、アレンジを入れて演奏しようと、室内に響く音は虚しいものになるばかりで、母親の音を忘れつつあった僕の演奏はCDやテレビを介して聴こえてくるような演奏になるばかりだった。知らない間に、まるで父親の呪縛に嵌っていたかのように。
指先がプログラミングされているかのように譜面をなぞるだけなぞり、指定された速度と音の高低を守るだけ。
アレンジって何だ。自由さってなんだ。
そんなことばかりに思考を交錯させてばかりいるうちに高校一年の夏が終わり、ストラトキャスターを抱えた彼は、放課後の部活の喧騒が一層強くなる夕暮れ時に音楽室の前に前触れもなく現れた。
つまんねえ曲弾くなお前、という挨拶を混ぜて。
「じゃあそんなつまらない曲しか引かない僕に対して、君はどんな音楽を演じるんだ?」
そんな意地の悪い答えを憎たらしい口調で返すと、制服の上に鈍色のパーカーを雑に羽織っていた彼は唇の端を釣り上げてにんまりとした表情を浮かべた。そのまま、黒いケースのジッパーを引いて真っ赤なストラトを取り出し、雑すぎるかのようにも見えるチューニングを終えて、ミニアンプにシールドを繋げていく。 星条旗のマークが目立つピックを指に挟んだかと思うと、挑発するような視線を僕に投げかけてきた。その動作ひとつひとつが、その時の僕を苛立たせて、聴く耳を持とうと最初はしなかった。
けれど、そんな考えは爆音が全て弾き消してしまった。
メタルと融合したベートーベンが、英雄の荒々しい轟音を従えて。
心を震わせる、ってこういう感じなのか、と僕は気付けば一瞬のうちに痛感してしまっていた。あれだけ楽器に浸れるだけ浸ることのできる環境にいたのに、エレキギターから投げつけられる騒音にも等しい叫びを、僕はその時初めて耳にした。彼の指先を伝い、音楽室全体を強引に震わせてくる音はあまりにも乱雑で、あまりにも無鉄砲で、そしてあまりにも自由さを感じた。
多分その時、僕は人生で二人目の天才に出会ったのだと、実感した。
「どうだ? なんか変に殻に閉じこもってる気がするんだよ、お前。もっと楽しもうぜ」
そして僕は、最初は思いもしなかった言葉を、飢えたような声音で放ってしまう。
もっと聴かせてくれ、と。
彼は何かと不思議な人間で、これだけ色が濃い人間のはずなのに、放課後以外の校内で会うことは全くなかった。学ランの襟は僕と同じ一年の襟の色だし、時々ノートを突然開いたかと思えば、苦手らしい数学Ⅰのことについてしつこく訪ねてくる。ズボンの裾をいつも膝下くらいまで捲っていて、左の足首には古びた明るい色のミサンガが三本も巻きついている。少しやんちゃが入った、田舎の高校生というイメージは拭えないし、何より明るくいつも構ってくるから校舎でも遭遇するはずなのに。
「なんで君は、そんな譜面通りの曲をいつも嫌うわけ?」
そんな何気ない問いかけは、僕と彼が気ままにピアノの音と、ギターの音を初めて合わせたあとに生まれた。彼は乾いた笑い声を上げて、僕のように歩み寄ると、僕の撫肩を荒々しく嬉しそうに叩く。
「カート・コバーンってロックンローラーは知ってるか?」
「名前だけは確か。ニルヴァーナってバンドの」
そうそうそう、と両人差し指を僕に突きつけながら、嬉々とした声で言う。
「そのカートが言ったんだよ。『ロックの歌詞は聞き取れなくていい』。ああこの言葉すげえな、真理だな、って思った。型に当てはまらなくていい、自分で好き勝手弾くだけでいい。俺だけが分かればいい。だから誰にでも理解されるような音楽は嫌いだ」
「でもさ」
僕が少しだけ語尾を荒くしながら返すと、彼は首を傾げた。
「僕は少なからずいいな、って思った」
そう返すと、彼は褒められたあとの幼稚園児みたいに無邪気な笑顔を顔全体で見せて、僕の首元に腕を回して何度何度も僕の腹を叩いた。痛いからやめろ、と声を返しても懲りずに。嬉しいなと耳にタコが出来そうになるほど言い、嬉しそうに弦を弾いて荒唐無稽な題名のない曲を弾き散らかした。
「こんな音楽ばっかりやってきたから、褒められたこととかほとんどねえんだよ。うるさい、統一感がない、アレンジすりゃいいもんじゃないってさ。ここに来て良かった。今すぐ死んでもいいや」
「言い過ぎだろ」思わず苦笑が漏れる。「昇降口閉まるまでまだ時間あるよ、別の曲も合わせてみようよ」
「いいぜいいぜ、じゃあ今度あれ合わせよう。何だっけ、ラフマニノフの……」
そんな音を好き勝手鳴らし合うような毎日が、僕の高校生活を染めていくと思っていたし、僕自身もそう勝手に解釈し続けていた。母親がいた頃の感覚が次第に指に戻ってきて、彼の音を耳に通している間は、何も考えず、何にも縛られることなく楽しめることを思い出させてくれる。過大解釈にもほどがあるのかもしれないけれど、それくらい僕にとっては大切な時間になりつつあった。
文化祭のシーズンが近づくと、委員会の仕事を任されることになってしまった僕は、必然的に放課後、音楽室に行く時間を減らさらざるを得なくなってしまっていた。クラスで出す催し物を仕切って決めたり、予算を徴収して準備に勤しんだり、委員会の会議でスペースやポスターについて話し合ったり。
音楽室のピアノの鍵盤に触れることのできる時間が文化祭が近づくにつれて減っていき、疲れて家のベッドに直行することも増えた。
「仕方ないだろ、委員会じゃそっち優先するしかねえし」
口笛混じりにスティービー・ワンダーの曲をうろ覚えで弾いていた彼を前に、僕は鍵盤の上に頭を乗せて無言を返した。鈍い不協和音が響いたあとに、「大分疲れてんな」とだけ彼は返す。
「君はないの、文化祭の準備」
「俺のとこは当日準備がメインだからな。それに男連中より女子が張り切りすぎて手伝うとかほとんど無い」
羨ましい、と半分文句を交えた言葉を垂れると、彼は笑い声を上げた。
ピアノ越しに彼のギターを弾く姿を眠気の混じった視線でなんとなく眺めていると、彼の体に何か違和感のようなものを感じた。薄汚れたパーカーを脱いで、ワイシャツ姿で演奏を続けていた彼の首元に普段より汗の粒が浮かんでいるようにも見えたし、指先が震えているのか、いつもより弦を弾く音に振動が混じっているようにも見える。
寒いのかな、なんてことを勝手に解釈していた。それを考えるよりも僕は、彼を呼びかけると、1枚のギターが描かれたポスターを見せる。
「あん? なんだそれ」
「軽音部のギターが腕骨折したらしくてさ、文化祭のステージで発表するはずだったのが急遽取りやめになったらしいんだよ。だから、僕らでステージ発表に出てみない? ギターとグランドピアノの合奏! 演奏する曲は古今東西、ジャンルに問われないものでいいし異色なアレンジもあり! ウケそうじゃん、どうかな?」
その時僕は、彼の嬉々とした表情がすぐに返ってくるものだと思っていたし、どんな曲を演奏するか、どんなアレンジをするかまで眠い目を擦りながら思考を凝らしてルーズリーフに書き綴ったメモも見せるつもりでいた。
けれど、ポスターに目を落とした彼は、予想よりも曇った表情を浮かべて、軽快に弾いていた演奏をやめて、アンプとシールドの接続を無言で外した。
「……俺はいいや」
「え、何で」
自嘲気味の声音に、素直な疑問が言葉になって漏れ出す。
「別に誰かに聴かせられるものでもねえし。俺はここで楽しめるだけでいいからさ。だから発表は」
「良いじゃんそんなの気にすんなよ! 僕は初めて君の曲を耳にした時凄いなって思ったし、クラシックとかの固いやつを吹っ飛ばすようなやつなら絶対受けるって思っ」
「やんねえっつってんだろうるせえな!」
彼の怒号を耳にしたのは、その時が初めてだった。
いつものおちゃらけたような表情を浮かべながらスキンシップを取り、冗談交じりに弦を弾く彼の表情は、完全に失せていた。憤りと、焦燥感と、罪悪感を交えているかのような、複雑な表情を僕の前に見せて、それ以外の言葉は何も言おうとはしなかった。
「……暫く放っといてくれよ」
悪い、とだけ言い残すと、彼は手早くギターをケースにしまい、パーカーを肩にかけて音楽室をあとにした。廊下の奥の方に消えていく、上履きの音が物静かに響き渡る。弱々しくポスターを見せる手を下ろすと、鍵盤の端に置いていた曲案のリストが床に虚しく落ちた。
考えてみれば、僕は彼の何も知らなかった。
どこのクラスに在籍していて、どの変に住んでいて、何より、なんと言う名前なのかすら。音楽室でしか付き合いの無いはずなのに、僕はただ自分勝手に、彼に友情を感じていたのだ。心に空いた形容しがたい溝を、忘れかけていた音で埋めてくれる存在になってくれるんじゃないかと。
呆然としたまま、僕は鍵盤の前の椅子に弱々しく腰を下ろし、自嘲気味に笑みを浮かべていた。その後、僕が彼とこの部屋で出会うことは無かった。
彼との口論に生まれたもやもやを埋没するかのように、僕は文化祭の仕事により没頭するようになっていた。普段は自分から声をかけることがほとんどなかったクラスメイトに積極的に提案を求めに行ったり、快く手伝ってくれる気の合う人間と買い出しに明け暮れたり。徐々に音楽室にしか学校での存在を見出すことが出来なかったはずが、クラスでの居場所を見つけられたような、そんな実感すら感じていた。
自宅に帰る時間は普段よりも一時間以上遅れることがざらになり、普段なら僕よりも遅く帰宅するはずの叔父さんが、叔母さんの作った夕食に口をつけるところに鉢合わせすることも多くなった。
「お帰り。今日も文化祭の準備か?」
「うん、そう。お腹空いたよ」
居間の畳に腰を下ろしながらそう戯けて返すと、決まって叔父さんは陽気に笑いながらお湯を沸かして、緑茶を僕に注いでくれた。町で一番の病院に医師として勤めている叔父さんも、僕とこうして夕食を取りながら仕事の愚痴を漏らしたり、僕の高校生活を訊いてみたりと、音楽以外に口を挟むことがほとんどなった父親以上に父親らしいコミュニケーションを取ることが多かった。
「最近明るくなったな、佑都は」
目を細めながら、皺が目立ち始めた顔がそう言う。
「そうかな、あんまり変わらない気もするけど」
「いやいや、佑都がこの家に来た頃はもっと、殻に閉じこもってる感じがしたよ。例のギター少年、のおかげか?」
「あ……いや、ちょっとあいつと今喧嘩しちゃって。腹いせじゃないけど、文化祭の準備に没頭してるだけなんだけどな」
嬉しそうな目付きを見せながら、叔父さんは何度も頷いた。障子の隙間から寒風を感じて、背筋が少しだけ冷え上がる。肩をすくめると、叔父さんは僕に風呂を勧めてくれた。じゃあ、と言葉をつくと、僕はスクールバッグを持って立ち上がり、部屋の方に向かおうとする。
「佑都」
叔父さんが僕の背中を呼び止める。
「人生、上手く行き過ぎてもつまらないもんだ。衝突があるくらいが面白いぞ」
わかったよ、とだけ返す。こうしてあの彼の言葉を脳裏に焼き付けているのを見抜かれているかのように、叔父さんの言葉が痛く、けれど優しく染み渡る。
今度彼を見かけたら、ちゃんとこっちから謝ろう。軽率すぎたと、もっと君のことをよく知ってから声をかけるべきだったと。その言葉から始めても、きっと遅くない。
そう言い聞かせながら、いつかまた一緒に音を並び合えることができるはずだと、僕は思っていた。
二日間に分けて開催された文化祭が終わり、教室の片付けや後締めが落ち着いたあたりで、僕は放課後、一目散に音楽室に駆けて行った。きっとあいつが、ギターの音を叫び立たせて待っていてくれるはずだということを考えながら。今日は何を弾こう。何を弾いてもらおう。
そんな思考回路も、空虚だけが残る音楽室の静けさに、儚く霧散して行く。
使い込んだシールドも、汚れが目立つあのパーカーも、彼の使い込んだカーキ色のリュックもない。多分、今日は学校にいないだけ。そんなことを適当に考えながら、僕は軽い気持ちで音楽室を後にする。
翌日の放課後にも、彼は現れなかった。
翌々日。
三日後。
一週間後。
十日後。
彼が好んで演奏していた「英雄」が、僕の旋律では話にならないと、音楽室の壁に貼り付けられている肖像画の中のベートーベンに睨みつけられているような感覚すらあった。酷く時間の流れが遅く感じる。退屈な音しか、僕の指からは流れてこない。
嘆息交じりで鍵盤を無意味になぞっていると、耳元に僕の名前を呼びつける声がした。ふと顔を上げると、音楽室の鍵を握ってこっちに見せてくる巡回係の教師が、下校の時間であることを告げていた。窓から見える空にはもう夕日の灯りすら見えず、月明かりが朧げに映るだけだった。
学ランを羽織り、「急げよ」とだけ声をかけた丸眼鏡が特徴的な細っこい男教師が急かす。部屋の扉をくぐり、教師が鍵をかけたところで、僕は本能的にこう問いかけていた。
「ギターを持った男子が、同じ学年にいるか知りませんか? いつも汚い鈍色のパーカーを着て、ズボンの裾を膝くらいまであげてるんです。髪が短くて茶色交じりで、いつもファッション誌に乗ってるみたいに髪を整えてる奴なんですけど」
けれど、教師から返ってくる言葉は一言「知らない」で、それどころか、「もしそんな奴がいれば制服検査で引っかかる」とまで。
僕の中に、いわれもない疑念が浮かぶ。
名前すら知らない彼は、何者なんだ、と。
教師が続けようとする言葉を最後まで聴くことなく、僕は無意識に廊下を蹴っていた。走り続ける足が止まらない。あれだけ天才的な音を演じて、僕しか知らないってどういうことだ、そんな奴なんて学校にいない、なんてありえない。そんな考えが頭の中を逡巡して、混乱しそうになる。
廊下で脳天気そうにさよなら、と声をかけてくる教師に問いかけ、教室でまだ談笑を続けている同学年の名前も知らない女子の集団に問いかけ、校庭近くの蛇口で水をかっ込む陸上部の部員に問いかけても、返ってくる言葉は同じだった。
『そんな奴、知らない』。
なんでだ、と心の中で叫び散らしていた。なんであんな、天才的な音を誰も耳にしていないんだと。あいつは俺にだけわかればいいと言ったロックは、歌詞なんて分からなくても僕の中には届いていたはずなのに。きっと耳にした人が、一人くらいいたはずなのに。
月明かりが次第に高いところへ登っていくにつれて、僕の問いかけに眉をしかめる人間が多くなっていった。疑念の目で睨み返され、まるで僕が探している彼の残像が、本当の妄想か何かにすらなってしまいそうだった。
空っぽの頭を引き連れて、商店街のシャッターが閉まり始めた時間帯に、僕は家の門戸を潜った。帰りを心配したのか、叔母さんは僕の表情を見て何度も何度も何かあったの、と問いかけてきた。何でもない、晩御飯もいい、と言うと、叔父さんが言葉なしに僕を手招き、居間に腰掛ける。そのまま同じように叔父さんの前に腰掛けると、僕に緑茶を汲んでくれた。
そのまま、叔父さんはワイシャツの胸ポケットから小さな巾着を取り出す。叔父さんがそこから取り出したのは、あまりにも見慣れすぎた、星条旗のピックだった。目を丸めてそのピックを追うと、叔父さんは何も言わずちゃぶ台の上にそれを置く。
「彼から、佑都に渡すように頼まれた」
ピックの方に向けていた視線を、叔父さんの悲しげな眼差しの方に上げる。
「今日、亡くなった」
最初はその言葉の意味が理解できなくて、頭全体を、四方八方から押し付けられるような、不思議な感情になった。その後に、嘘だ、違う、人違いだ、と否定の言葉が漏れ出し、その度に叔父さんは首を少しだけ振る。
「嘘じゃない」
「違う! あいつは学校にいた!」
「佑都も分かってるだろう、あの子は佑都と同じ学校の生徒じゃない」
じゃあなんで同じ制服を着て、襟の色まで同じで、一緒に音楽を楽しんでたんだ、と苛立ちすら混じった言葉が溢れる。
「あの子は腎臓の癌の、終末期だった」
言葉が詰まる。僕と叔父さんの間に、静けさだけが伝う。
「音楽室での演奏は、彼の最後のわがままだったんだ。前に高校の方から、演奏が聴こえた。誰が弾いてるんだ、え、先生の甥っ子? 勿体無い、あれだけ凄いピアノを弾くのに自由さを縛ってる感じがする。間近で聴きに行きたい。俺のギターも聴かせに行きたい。叶わない高校生活の中で、たった一人でいいから友達が欲しい。そう言って、彼の兄の制服を通して、分かりもしない教科書やノートを見繕って、お前にいずれ見抜かれるであろう嘘まで並べてギターを背負って楽しんでいた。本当にあの子は楽しそうだったよ。身体中痛みや苦しさでいっぱいだったはずなのに、それをほとんど感じさせなかった。病室に戻ってくるたびに、嬉しそうに僕に話しかけてくれたんだよ。あいつが俺を褒めてくれた、本当に嬉しい。もっともっと弾きたい曲がたくさんあるんだ、と」
息が漏れて、両腕に力が入るのがわかった。弱々しく俯きかけていた表情を上げると、叔父さんは続ける。
「けれど、その後でお前とに怒鳴り散らしてしまったことも後悔していた。あいつには言わないでくれ、俺の方から直接謝らないといけない。それまで死ねない。本当は凄くあいつと演奏するのを、色んな人に聞いて欲しかった。俺の演奏の歌詞は伝わらなくてもいい、けれどあいつと一緒に色んな人に聴かせてから燃え尽きたい。『色褪せるくらいなら、燃え尽きたい』。カートだってそう言ったんだよ。そこで燃え尽きてから、俺は死にたい。それだけ言って、彼の容態が急変して、亡くなったのがほんの数時間前だ」
そのピックは彼が佑都に渡してくれ、と言っていた、とだけ叔父さんは言い綴った。まだ真新しさが残るピックを手に取ると、叔父さんの代弁した台詞が、ピックを通じて僕の脳内に彼の声で再生されるような感覚になる。気付けば喉元を通じて熱く、重いものが僕の目から溢れ出して、ピックを握り締めたまま俯き、肩を震わせていた。
謝らないと、って思うならいなくなるなよ。
ふざけんなよ、馬鹿なロックンローラー。
そう叫ぼうとした言葉は、涙声に霞んで上手く搾り出すことが出来なかった。叔父さんの優しい手が、僕の肩を摩る。その度に、彼の指先から部屋全体に響いていた残響が耳の奥に流れ込んできて、彼が生きていた実感を感じることが出来た気がした。
霊柩車が走って数時間が経った後に、白煙が遠くに見えた。
肌寒い町の風が、少しだけ伸びてきた髪を掻き上げる。ふう、と吐いてみると、白くなった吐息があの白煙のようにどこかに消えていくのがわかった。
冷たくなった彼の顔を最後に拝み、あっちで叫び散らかしてろ馬鹿野郎、と両手を合わせながら無邪気に微笑む彼の仏前に心で投げかける。その時、しばらく聴きにくるんじゃねえぞ、とだけ写真が僕に問いかけている気がした。
肩に伸し掛かるギターの重みが、徐々に自然に感じつつあった。葬儀の後に、彼の母親から手渡されたストラトを渡されると、自然と彼がいなくなったという事実を、思ったよりもすんなりを受け止めることが出来ている自分がいることに驚いていた。何度も何度も僕に頭を下げてくれた彼の母親に、僕も負けないくらい頭を下げた後、僕は制服姿のまま学校の方へ向かった。
昇降口を潜り、教室の方に続く通路を無視して、特別棟の方に足を進めていく。二階の一番奥に位置する音楽室に誰もいないことを確認すると、学ランを脱いで、ケースから傷だらけの真っ赤なストラトを取り出した。シールドと小さなアンプを繋げて、胸ポケットに仕舞い込んでいた星条旗のマークが強調してあるピックを取り出し、弦を弾く。もう一度だけ、弾く。
一度だけ、彼に教わったギターの弾き方を脳裏で反芻して、そのまま一息、深く吸い込む。
考えなくて良いんだよ。言いたいこと言って、弾きたいもんを弾く。カート・コバーンの受け売りだ、というその時の彼の言葉を代弁した後で、僕は弦を強く弾いた。
彼の演じた「英雄」の声が、僕の声を伴って彼まで届くように。
少し長かったですが、お付き合い頂きありがとうございました。
iPadでの編集が主だったため、書体とかが少しおかしなことになっているかもしれません(あと結構衝動的に書きなぐっていたため、クオリティにも目を瞑って頂けるとありがたいです)。
ベートーベンの英雄だけでなく、実際にクラシック音楽をギターやベースで演奏する、俗に言う「メタルクラシック」ですが、結構良いです。おすすめです。気が向きましたら、是非聴いてみてください。