ちりめん座布団、かつおぶし猫缶
尾が二本ある猫に出会うと、地獄を抜け出せるのだという。
僕たちが生きるのに世界はあまりに眩しすぎた。優しい家族、笑顔を絶やさない先生、夢を持ち邁進するきらきらしたクラスメイトたち、面識もないのにすれ違うたび笑顔で挨拶してくる通行人たち、とても耐え切れるものではなかった。だから僕らは死ぬことにした。別に、この強制イージーモードの世界に反抗するためとかそういうことではない。そもそも僕らは一緒に死んだわけでもないのである。もう生きていられないと思って僕がビルから飛び降りたのと同時にどこかで彼女がトラックに飛び込んでいたというだけなのだ。あとになってその話をしたときはずいぶん気が合うねと彼女と笑いあったものだ。
気がつくと目の前に男がいて、また自殺か、と言った。小児科病院の廊下のような背景を見て、おや、死に損なったのだろうか。めんどくさいことになったなと思う。隣を見るとついこの前会ったときと同じ姿の恋人がけろっとした顔でうなずいていた。自分の体を見下ろすと、ビルから飛び降りたときと同じ格好をしているけれど、傷もなにもないし痛くも痒くもない。ああ、もしかしてこれは死後の世界というやつかもしれないな。妙に冷静なのは、自分たちが死人だからだろうか。目の前の男は自分を閻魔の使いみたいなものだと言った。そして、ここは地獄の入口だとも。
「こんなに明るいなんて、この先に地獄があるとはとうてい思えないけれど」恋人が言った。目の前にいる男も白のワイシャツにベージュのパンツというとても地獄の門番とは思えない格好をしている。
「おまえたちの生きてきた世界でもアニマル・ウェルフェアなんて言葉があっただろう。あんな感じだよ。罪を犯した死人にも人としての福祉をってことさ。まあ、こっちのほうがおまえたちにとっては地獄って感じだろう?」なるほど、優しい世界に倦んで逃げるために死んだのにその先ですら優しさに晒されるとは確かに地獄だ。
「地獄でこれなら天国はどうなっているんだろうな」
「さあな。それは俺の知ったことじゃない」そう言って肩をすくめたあと、さて、と言って彼はポケットから手帳を取り出した。「一応地獄に来る人間には永遠の労役を課すことになっているんだ。昔は永遠に体を切り刻み続けるとか、超火力で炙り続けるとかそういうことをしてたんだが、どこかからクレームが入ったらしくてな。今は草むしりとか石拾いとかそういうのをさせて代わりにしている」僕たちも永遠にその遅刻のペナルティのような労役が課されるのか。男は手帳のページを言ったり来たりしたあと、おおここだとあるページで手を止めた。
「お前たちに課す仕事はすでに決まっている。よろこべ、お前たちは永遠に近くにいられるぞ」
「で、何をさせられるんだ」恋人はすでにあきれたような顔をしている。彼女が再び自殺を図る日も近いかもしれない。
「ねこあつめだ」
「ねこあつめ」
「ねこあつめの刑だ」
そういうわけで、僕と恋人は永遠にねこあつめをすることになった。すでにいた地獄の先輩(彼もまた自殺らしい)曰く、事故や病気、安楽殺などで死んだ猫たちは地獄やら天国やら所謂死後の人間が行く可能性のあるすべての場所に自由に行き来できるようになるそうだ。気ままにあちこちを行き来する猫たちに休憩と遊びの場所を提供し、訪れた猫を記録するのが僕たちの仕事というわけだった。どの猫がどれだけどの餌を食べてどのおもちゃで遊んだかを帳簿に書くのが僕の仕事で、恋人は餌を用意して減るたびに補充する係だ。猫嫌いの僕にとっても猫アレルギーの彼女にとっても確かに地獄である。強制イージーモードどころか永遠チュートリアルな生活に、生前リスカ常習犯だった恋人ははじめのうちこそ暇さえあれば腕に刺身包丁を叩きつけていたが、包丁が腕にあたるととたんになまくらになる上痛みすら感じないため、それさえ飽きてそののちは死んだ魚のような顔で餌を量産しつづけるようになった。ちなみに先輩はおもちゃの配置を考えたり新しいおもちゃを調達してくる係だった。
あるとき僕は、彼が常に同じ座布団をスペースの片隅に置いていることに気づいた。他のおもちゃやクッション類は猫たちが飽きないようにとしょっちゅう変えているのに。僕がそれを指摘すると、彼はああ、と笑った。お前たちはまだねこまたさんのことを知らないんだな。
「触れることのできる猫がいるって知ってるか」
僕たちは猫に触れることができない。触れようと思っても、手がすりぬけてしまうのだ。猫も僕たちの存在に気づいていないようだった。
「稀に来るらしいんだ。俺たちのことを認識できて、触ることのできる猫」その猫は本当に稀にしか来ないうえに滞在時間が短いので気づかないことも多いという。
「そしてその猫に触ると、無に還れるんだってさ」
「無に還る」あくまで都市伝説みたいなものだけどな、と彼は笑った。「触れた先どうなるかなんてわからないさ。ただ、その猫に触れたものはかならずここから消失する。もうそろそろ地獄ともおさらばしたいしさ、とにかく俺はねこまたさんを待ってるんだよ」尻尾が二つに割れた猫は、「ちりめん座布団」の上にしか現れない。だから彼はあの赤い座布団を部屋の隅に置き続けているのだという。この話を聞いてから、恋人は餌の猫缶にかつおぶしをかけるようになった。かつおぶしがかかっていると、そうでないときよりも猫の滞在時間が増えるのだ。そうやって僕たちはねこまたさんの到来を待った。
そして、それからまもなく、僕の目の前にねこまたさんは現れた。
「ねこまたさんだ」目が合った。猫がうなずいたような気がした。ビニール袋で遊ぶ茶ハチワレをまたいで、その長毛の白猫の前へ行く。先輩はおもちゃを調達しに席をはずしていた。恋人に声をかける。黙って去るのは忍びないし、きっと彼女は怒るだろう。台所から顔を出した恋人に君も行くかと訊ねると、うんと言って彼女は僕の隣に来た。久しぶりに手を握る。
さよなら、地獄。さよなら、猫たち。「こんな世界を抜け出したい」という望みが、これでようやく叶うのだ。少しだけ寂しい気もする。ビルの屋上にいたときのことを思い出した。
「さよなら」ねこまたさんに触れる直前、僕たちの最後の言葉は互いへの別れの言葉だった。