第四話 炎の記憶
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1と、7に送り出された20は、宿直室のドアをノックしたが返事はなかった。
鍵はかかっていなかったので、部屋へと入り込むと、血と消毒液の香りがむっと鼻を刺す。
1と彼の間に、いったい何があったのだろう? ニーダル・ゲレーゲンハイトは、ベッドの上で布団にくるまって眠っていた。ひどく苦しそうな顔で、額には脂汗が浮いていた。
「……ン」
20は肩をゆすってみた。……起きない。
薄い羽根布団をめくると、ニーダルは赤いコートを着たまま眠っていた。
ボタンは千切れていて、空いた胸元からはシャツと、わずかに血のにじんだ包帯が見えた。
「…………」
たぶん息苦しいのだろうと思う。
暗殺人形として育てられた少女は、目の前でうなされている遺跡荒らしと自分達との闘い、そして、遺跡の怪物たちとの戦いを思い返した。
彼の外套は、ナイフを通さず、石弓の矢を弾き、魔法や腐食液といった攻撃さえ致命打とならなかった。たぶんそういう特別な品で、でも、眠るのには向いていない気がした。
「ここを、こうして……」
外套を脱がそうと試みた。腕を抜くのに手間取ったが、ボタンが外れていたので、それほど苦労はなかった。
ニーダルは起きることもなく、20の為すがままにされていた。
「だいじょぶ。……アナタをまもるから」
そうして、少女は道化師の布団にもぐりこみ、目を閉じた。
――
――――
ニーダル・ゲレーゲンハイトは悪夢を見ていた。
否、もはやそれが悪夢なのかすらわからない。何度も、何度も繰り返し夢見た地獄も、悲しむという感情がなければ悲劇にはならない。
復興暦1102年/共和国暦996年、晩樹の月(12月)25日。
ガートランド王国を襲った天変地異、巨大地震をきっかけに、その日、国中の遺跡を塞ぐ封鎖結界が一斉に無力化された。
数少ない王国軍は、被災者の救出と怪物に対する防戦の板ばさみになり、狂乱の中で軍人も民間人も、多くの生命が失われていった。
王国軍人だったルドゥイン・ハイランドの所属する技術試験隊も迎撃に駆りだされ、山中の遺跡から郊外に迫る怪物の群れを、どうにか街へ侵入する前に止めることができた。
任務に成功して、浮かれていたのかもしれない。
たとえ、そうでなくても、信じられなかっただろうが。救援に来たはずの友軍に、背後から奇襲を掛けられるなど。
帰るはずの町、アルター州サンフィス市の第8区画は、血塗れの死体で溢れて燃えていた。
神器・魔術の中には、遺跡の怪物を操るものが存在する。だが、それを守るべきはずの国民に向けて使う狂気を想像できなかった。
”味方のはずだった”部隊の砲撃と、怪物どもの強襲を受けて、ルドゥイン達の部隊は殲滅された。
石弓の残弾もなく、神器を使う体力や精神力も枯渇した状態で、あれほど持ちこたえられたのは仲間達だったからこそと、感情の壊れた今でも誇りに思う。
でも、”仲間だから殺せない軍隊”と”敵として殺しに来た軍隊”がぶつかった時、どちらが勝つかなんて、山と街を焼き滅ぼす焔をみるより明らかだった。
負傷した銀色の髪の女。部隊に同行していた民間協力者を背負い、炎に包まれた山と町の中を、ルドゥイン・ハイランドは仲間の名を呼びながら、生存者を探して走り回った。いくつの角を曲がり、いくつの道をかけただろう? 確認のしるしを道路に焼きつけていると、着弾の破砕音と建物の崩れる音の中から、かすかな救いを求める声が聞こえていた。
ふたつ先の角の住宅街。折り重なった死体の中、死臭の中で、母親らしい女の細い手が、そっと子供を押し出して……力尽きた。もう、どれほど呼んでも動かない。でも、屍の塔から逃がされた幼い少年は、顔色こそ死人のようで唇さえ紫に染まっていたが、まだ生きていた。
怪我で動けない女。酸欠で気絶した少年。少年にボンベをつけて背負い、銀の髪の女を抱き上げて、焔から逃れようと交差点に出た彼の前に、二体の青銅機兵と、巨大な角笛のような何かを手にした銀髪碧眼の男が立ちはだかった。
「なんだ。ルドゥイン。やっぱり生きていたのか? どこまでも生き汚い」
ルドゥイン・ハイランドは、その男の顔を知っていた。その男の名前を知っていた。同じ隊の仲間だったはずの男だった。なぜ殺した、と火と煙に焼けた喉を震わせて、尋ねた気がする。
「なぜって、大罪人だからさ。君達も、この町の連中も。我々以外の王国人は、生まれながらにして原罪を背負った咎人だ。
我々は世界を正しく導くよ。歪んだこの国も、大陸も、全てをただしく作り直す。
民主主義とか、民族主義とか、国粋主義とか、そんなものがあるからエゴが社会を食いつぶす。
国境なんていらない。政治家もいらない。企業もいらない。必要なのは正しい価値観と、人を正しく導く選ばれた存在だ。
それさえあれば、世界はひとつになれるし、争いも起こらないんだ」
男はうっとりと自分に溺れるように胸に手をあてて、陶酔した表情を浮かべた。
「…………」
ルドゥイン・ハイランドは、呻くように息を吸った。
「我々は大陸を、世界をひとつにするよ。その為には、君達が邪魔なんだ。忌々しい古い血統を守護する家も、国も。その盾となり矛となろうとする君達も。わかるだろう? 知識も、力も、選ばれし者……新しき民の王とその使徒だけが持ち、管理すべきだって」
「…………」
砕けてゆく。みしみしと、ぎしぎしと音を立てて、ルドゥイン・ハイランドという存在が壊れてゆく。
「でも、彼女は別だ。渡してほしい。もう死んでしまったみたいだけれど、我々なら生き返らせられる。君だって、その方が嬉しいだろう? いつまでも未練たらしく、そんな死体を抱いてても仕方がないじゃないか?」
知っていた。知っていたとも。冷えてゆく彼女の亡骸。もうそこにはいないと知っていながら、抱かずにはいられなかった。
「死者の蘇生は神の領域だ……。そんなことができるのは、神話の世界の住人だけだ」
現代の大陸に、契約神器や魔術道具を遺した一千年前の大戦―――。旧世界を滅びに導いた黒衣の魔女は、無より生命を創造し死者すら蘇らせる無限の魔力で、彼女を倒して世界を救った神剣の勇者を苦しめたという。
「確かにっ。失われた魂と精神を戻すのは、我々にだってまだ無理さ。でも、賢しい知能なんていらないだろう? 必要なのは肉体だけだ。君だって、そう思ってるから昔、ナンパとかやってたんじゃないか?」
愉快そうに嗤う男を、戦友だと信じていた己が信じられなかった。
前兆はあった。根拠もあった。それでも、仲間を信じるのは当然だと感情的に目を塞いだ。
「とんだ俗物だったんだな。お前は」
「俗物? 何を言ってるのさ?
私は言わば救世主だよ。
一千年前に偽りのメサイア――――神剣の勇者が”救い損なった世界”を救うんだ。
世界樹へと至る七つの鍵のひとつ。無限の威光で怪物たちさえ平伏させる、第一位級契約神器ギャラルホルンの力でね」
暗くなる視界に、愛しげに異形の角笛を撫でる男が見える。陶酔した声も、もうよく聞こえない。
こんな男と問答している時間は無い。今背に負った小さな生命を救うため、状況を打開しなければならない。
抱きしめた女の銀の髪を一房切って、薔薇の彫刻があしらわれた懐中時計の鎖で縛り、軍服の内ポケットへ入れた。
すまないと心の中で念じる。謝ったら決して彼女は許さないだろう。こんなとき、誰よりも子供の救出を望む、そんな女だった。
口付けを交わす。家族との接吻、その最後の味は、冷たい死の味がした。
「ケヴィン・エンフォード。俺達を狙ったのは正解だ。けれど、お前のクーデターごっこは、決して成功しない」
銀の髪の女。ルドゥイン・ハイランドが愛した女の遺体が火に包まれて、花が散るように消えた。
「ルドゥイン! 今、何をやった? そんな魔術は」
ケヴィン・エンフォードに、黙れとばかりに手帳をぶつける。
目を通した男の浮かべた傲慢な笑いが、見るも無残に引きつった。
「殺せ! その男を決して逃がすな。我々が目指す調和溢れる平和と未来の為に、生かして出すなっ! 勝利を!」
勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を―――――
唱和しながら、二体の青銅機兵が巨大な鉄塔の如き帯剣を振り下ろしてくる。
剛剣を避け、跳ね上げる石畳の欠片をかわし、ルドゥイン・ハイランドは燃え盛る木造建築の壁を蹴って、三角跳びの要領で宙を舞った。火に巻かれながら、次々と炭化した柱を蹴り上げて、空高くへ跳躍する。
高度から、敵包囲網を観察する。ケヴィン・エンフォードが率いていたのは、最新式の有人青銅機兵20輌と四足自走機砲兵8門。いずれも陸戦型の重量兵器だ。機動力はおよそ時速80kmと60km。移動速度では勝ち目は無いが、どちらも対空兵装はないはずだった――――。
「っ」
轟音をあげて自走機砲兵が放った砲弾が、ルドゥイン・ハイランドの跳ぶはるか上空で裂けて、雨のように鋼鉄の弾子をばら撒いた。
とっさに魔術文字を綴り、炎の防壁を張ったが受け止められるものではない。降り注ぐ鋼鉄の弾子は、壊れかけた建物を次々と薙ぎ倒し、かすめた一弾に左肩と二の腕の一部をごっそりともっていかれた。
「どうだい、ルドゥイン。榴散弾の味は? モンスター鎮圧用の兵器も、優秀な私なら、こういった使い方ができる。君がもたらした異世界の知識が、君自身を滅ぼすんだ。素晴らしいだろう!」
歓喜とばかりに天を仰ぎ、両腕で自分を抱いて嬌声をあげるケヴィン・エンフォードが目の端に映る。
奇跡的に、子供には怪我は無い。腕もまだくっついている。足も動ける。ルドゥイン・ハイランドは、吹き飛ばされながら魔術文字をつづって、落下速度を減少させて着地する。
そこに、ケヴィン・エンフォードのギャラルホルンに操られた怪物たちが突撃してきた。巨大な芋虫、豚の顔した子鬼、いくつもの首の生えた異形の獣達だ。対するルドゥイン・ハイランドは徒手空拳。武器一つ無く、両の拳と足での迎撃を余儀なくされる。
詰んでいた。空へと逃げれば榴散弾の餌食になり、地上では何匹居るかもわからない怪物と、大隊規模の機械化歩兵部隊が待ち構えている。契約神器ももたない魔術師一人でかなうわけがない。それでも、戦った。生きている以上、戦わねばならなかった。背には、守るべき存在がいる。ここには、同じ志に生きた仲間達がいる。幸い、炎は、ルドゥイン・ハイランドにとって味方だ。拳と足に纏いつかせて、怪物たちを迎撃する。
やらせない。芋虫の牙を折った右腕が貪られ、肉塊と化した。
喜びが、壊れる。悲しみが、壊れる。楽しさが、壊れる。
彼女と過ごした甘い日々、仲間達と繰り返したバカ騒ぎ。
そういった自分を構成する記憶が真っ黒に塗りつぶされてゆく。
守ってみせる。豚鬼を蹴り飛ばす、足が刃に切り刻まれて使い物にならなくなった。
皆殺しにされた町の人々。引き裂かれた仲間。銃弾と砲撃に散った仲間。そして、朱に染まる彼女。
抑えきれない慟哭と怒りが、狼や蛇の如く荒れ狂い、理性と正気を打ち砕いてゆく。
一人も一匹も通しはしない。四肢が使い物にならなくなり、腹をえぐられながら、炎を叩きつけるようにして殴り倒す。
もう熱さも痛みも感じない。真っ暗な海の中を、手探りで泳いでいるかのよう。
「ここは、あいつらが命をかけて守った俺達の国だ……」
「違うね大罪人。ここは、私達”選ばれし者”の国、私達”選ばれし者”が救う世界だ。古き守護者もろともに、呪われた悪鬼よ滅べ。今こそ新しき歴史、新しい世界が幕をあける! 勝利を!」
勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を勝利を―――――
音声素子からでたらめなオーケストラのように勝利と言う単語を連呼しながら、青銅機兵が包囲を狭め、怪物たちを踏み潰して突進してくる。
「とうさ…かあさん…」
ボンベのマスクが取れて、背負った幼子が呻いた。
「いい子だから、目つぶってろ。すぐに、終わる」
怪物たちは、その数を減らしている。ルドゥイン・ハイランドは進む。戦いながら、身を削りながらの移動だった。這うような速度で、されど、ついにその場所へたどり着いた。
「ケヴィン・エンフォード。お前らが阿呆なのは、自分達を絶対上位に位置づける、その身勝手な思い込みだ」
燃え盛る炎を媒体に、生命反応を探る。……30箇所。この町で生きている人間は、自分と背おった少年。ケヴィンが率いる機械兵たちだけ。
「こいつは、お前達に殺された人々への弔いの炎だ」
道路の石畳に最後のしるしを刻み――――魔法陣を起動する。
蒼い炎が、火柱となってしるしとしるしをつなぎ、点と点の間を奔り抜け、円陣と方陣、五芒星、五芒星や魔術文字を複雑に組み合わせた巨大な炎の魔法陣を創りだす。それは、迫り来る怪物や青銅機兵どころか、遠くから包囲していた四脚自走砲も、否、山と荒野で外界から隔絶したアルター州サンフィス市の第8区画を完全に包み込んでいた。
「どうかその御霊に安らぎを」
爆発し、消失し、消滅する。
炎も、虐殺された遺体も、砲撃と炎で砕かれた建物の残骸も、青銅機兵も四脚自走砲も、何もかも飲み込んで、魔法陣は町の全てを焼き尽くした。
例外だったのは、第一位契約神器ギャラルホルンに守られたケヴィン・エンフォードと、起動したルドゥイン・ハイランド、背負った幼子だけだ。
先ほどまでバカ笑いをしていた男は、燃え盛る炎の海の中で、クーデターの失敗を悟っただろう。
虎の子の最新鋭装備と、一個大隊に匹敵する同志を失った。これでは、いかに混乱に乗じようと、王国制圧は不可能だ。
「最初から狙っていたのか。クーデターの調査を書いた手帳を私に見せたのは、我々をここに引き付けるため。君を狩るつもりで、罠に誘い込まれた?」
「”政治権力は銃身から生まれる”とは、よく言った台詞だ。
歴史の中で、お前達のようなとち狂った独裁者と全体主義国家が生み出した、粛清と浄化の犠牲となった死者は戦争の数十倍に届く。
ここで逃がせば、この町のような惨劇が何度も繰り返される。そんなことを赦すものか」
「ふふふふ。……ふざけるな! 貴様如きに、貴様なんぞに、我々の計画がああああああ」
ケヴィン・エンフォードが異形の角笛を吹き鳴らした。
世界が壊れる。空間が圧縮され、時空が歪み、ガラス細工の絵のように、赤と青の火柱が砕けてゆく。
「万人の幸福がっ、人類社会の幸福がっ、世界平和がっ、永劫の理想郷があああっ。我らが夢を、我らが希望をっ、その命をもって贖え、大悪魔!」
「”お前達だけ”の幸福と理想の為に、他者を踏みにじる夢や希望など捨てちまえ」
ボロ雑巾のようになった身体をしばりつける布を解き、背負っていた眠る幼子を地面に横たえる。
腕を横に振るうと、砕けゆく火柱が一定の軌道で変化し、新たな文字を形作る。
「神剣の勇者と、黒衣の魔女が遺した連鎖魔術の真髄を見せてやる」
其は、ルドゥイン・ハイランドが愛した女と、技術試験隊が研究を進めた最悪の禁呪。
七つの鍵と呼ばれる第一位級契約神器や、あまたの魔術道具を悪用する破壊者達に対抗すべく、古代の術者達が組み上げた最終手段。
「ケヴィン・エンフォード!
たとえこの身魂魄を打ち砕こうと、必ずや仇をとる。
仲間達が守ろうとした国を、この子を守ってみせる。
我はニエとして我を捧げ、封じられし九つの箱を破る。
顕現せよ。呪われし焔。世界樹の敵。天を滅す異形の翼よ!
呪詛機構 始まりにして終わりの焔 ――接続―― 」
ここに、ルドゥイン・ハイランドと呼ばれた男の心は砕け、目覚めたひとつのシステムによって焼き滅ぼされた。
あらゆる神器を破壊するためだけに生み出された呪詛。しかし、肉体に刻まれた憎しみと、守りたいという意思が、無色の機構を赤と白に染める。
切り捨てた。焼き払った。薙ぎ裂いた。自身と幼子に迫る空間の滅びは、一陣の風となって解け消えた。
背に現れた異形の何か、炎とも血霧ともつかぬなにかを燃やしながら、名すら意味を無くした人型の人形は走る。
その手には、太陽よりも煌煌と燃え盛る炎の長剣が握られている。
壊される世界を焼き滅ぼし、炎も風も土も、母なる世界樹をも灼き尽くす焔が、ケヴィン・エンフォードと異形の角笛に迫る。
「知らない。識らないぞ私は!
神器ですらなく、第一契約神器と渡り合える魔術なんて有り得ない。
そんな魔術師なんているわけがないっ」
角笛が燃えて、逃げる敵を追撃。土手っ腹から心臓を容赦なくぶち抜いた。
貴様を殺す。
貴様の意思も、野望も、その全てを駆逐する。
其れだけが、ただ独り狂いながらも生き残ってしまった、自分の存在意義。
我は復讐者、我は道化、この焔が尽きるまで走り続ける松明。
「だいじょぶ。……アナタをまもるから」
温もりを感じた。
感情の悉くが燃え堕ちた、自分には余計なものだ。
ルドゥイン・ハイランドは、そんなものに固執したから大切なものを守れなかった。
だから、殺す。
『……』
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、振り返りざま手刀を叩き込み、その臓腑を焼き尽くそうとする。
――させない
だが、叶わなかった。
その前に、強烈な拳が顔面に打ち込まれたからだ。
逆立った短髪。黒い瞳。ニーダル・ゲレーゲンハイトより低い背と幼い顔立ち。
『ッ』
それはかつての。この世界に来たばかりのルドゥイン・ハイランドと同じ顔をしていた。